岐阜・タイヤ・キーパー・専門店・イマージン・50才からのイノベーション それからバトンタッチへ!

岐阜でタイヤ専門店を経営しながら洗車コーティング専門店を開業しさらに事業継承する一部始終を描きます。 

25年前の今日!

2012年08月10日 | 日記
8月10日は私の一人息子の誕生日です。
今日で満25歳となりましたが 東京で就職し今は甲府で働いています。

公務員の家系に生まれ 不思議な縁で今ではこの会社の創業社長を務めていますが
25年前の私は無職のプータロウをしていました。
赤ちゃんが生まれるまで 失業保険を貰いながら毎日釣り三昧の生活です。
そのお陰で鮎釣りの腕前は上達したのですが 一家の大黒柱としては失格です。

家族にいろいろな心配をかけまくったので それを美化するつもりはありませんが
釣りの三昧の生活は 頭の中を空っぽにしてくれたのは事実です。
赤ちゃんが生まれるのに無職で遊んでいる自分に 心配や不安がなかったはずはありません
ただ焦ってウロウロするより 長い人生の途中で そういった日々があってもいいのじゃないか
と身勝手な理由でじっくり腰を落ち着けて毎日が鮎釣りです。
このとき両親は何も言わずにただ好きにさせてくれました 
これほどありがたいことはありません 
「子供が生まれるのに何やってんだ」などと批判がましいことは何一ついわず・・・。


その時です 生まれた息子の顔を見て
自分を取り巻く局面が変わりだしたのは。
もちろん急に変わったわけではありません

ひょっとしたらタイヤショップができるかもしれない
その道に進んだらどうかという 思いがふと浮かんできたことを思い出します。
無職になる前まで あるカー用品店で勤めていた経験を生かせるのではないか。
またどこかの会社で働くより そのほうがいいのでは~。
当時の自分にはとほうもない思い付きです。

家族の大半が反対する中 やはり両親は反対しませんでした。
心配はしたと思いますが やりたいと言い出したことをただ受け入れてくれたのです。
できるわけはないと思っていたのか知れませんが。
やりたいようにやらせてあげてと母親は 反対の急先鋒の妻に言ってくれました。

イマージン始まりの始まりのプロローグです。
ここからのドラマがまたいっぱいあるわけですが
長くなるのでここまで。




ふと思いついた「タイヤ屋ができるかも」が実現したわけですが
25年過ぎて 息子が就職すると言ったことに
今度は親の立場で承認する以外ありません。
何せ自分の両親が何一つ反対せず受け入れてくれたのですから
息子の決断に反対する理由もありません。
「自分の信じる道を行け」と言うだけです。


するとまた自分は自分の立場 創業社長としての責務がのしかかって来るわけでして
「会社の継承」を考えていかねばなりません。
それが第二創業に踏み切りリスクテイクをした理由のひとつなのですが。



無職であった時 人の親になったのですが
ある人が「大丈夫 子供はちゃんと福田を持って生まれてくるから どうやって養おうなどと心配しなくてもいい」
と言ってくださいました。
25年を振り返ってまさにそれは金言でした。
生まれた子供顔を見て タイヤ屋をやろうと決断が出来て
育っていく息子に励まされ25年の年月を継続出来てきたわけです。
自分の力などではありません「息子の福田に生かされただけ」というのが真相かもしれません。


するとこれからは会社の息子=社員さんの福田がちゃんと備わっていて
それが会社を導いていくのだから 創業者だとか責任だとか心配する必要はない
このように思えるわけです。
25年前の今日 病院で生まれた息子の顔を見たときから 始まったドラマは
次のステージに進むかもしれません。

こういう体験が「生かされている」という思いを深めてくれました
だから楽チンです。

子供を養うのではありません。
親は「木の上に立って見るが如し」 「子供はちゃんと福田を持って生まれてくる」を信じれば
親のエゴも減るのではないでしょうか。
楽チンな子育てです。
 

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