飛鳥を代表する2大古墳

飛鳥の地は、古代の時代に日本歴史初の首都となり、日本が日本であると知らしめし、さまざまな文化が生まれ、また朝鮮から新しい文化を取り入れた時代でもあります。このような時代に生まれたのが、飛鳥はもちろんのこと日本を代表する古墳が誕生したのです。
古人の思いを感じながらじっくり見て廻って下さい。
~男・女の群像が素晴らしい高松塚古墳~
高松塚古墳ですが、明日香村平田にあり、近鉄吉野線飛鳥駅から明日香周遊バスで高松塚壁画館下車すぐのところにあります。
昭和47年(1972年)に、発掘調査によって美しい壁画がみいだされ、日本中を驚かせ、飛鳥という地名を全国に知られた出来事でした。
高松塚古墳は、径20mにすぎませんが、粘土と砂を交互に一層ずつつきかためて築くなど飛鳥の古墳に特有の、特殊な構造を備えた終末期の古墳の一つなのです。
造られた年代は7世紀末から8世紀初めと考えられています。石室の天井には星宿(星座)、周囲の壁には日、月,四神と従者を配し、死者が永遠の眠りにつく小宇宙を形成しており、中国思想に基づいて貴人の墓にふさわしく飾っています。
~壁画の調査結果~
高松塚古墳応急保存対策調査会において、早急に石室内の三方の壁と、天井に描かれた壁画の調査をおこないました。
壁画は、男性と女性の人物群像、四神、日、月、星宿なのです。男性・女性の群像は、それぞれ四人一組で、東西の壁に、男子像が南寄りに描かれており、女子像が北寄りに描かれています。また、四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)は、南壁を除く各壁の中央部に描かれており、日輪は東壁の青龍、月輪は西壁の白虎の上にそれぞれ描かれ、星宿は天井の中央部にちりばめられています。
扉石の内側には、朱雀が描かれていたと思われますが、漆喰が剥離しており確認が困難だったのです。人物の足の位置は、龍・虎の脚先とほぼ一線上にあり、人物像の高さは約40㎝だったのです。
~高松塚古墳壁画の保存法~
壁画は、石室の内面に塗った漆喰の上に描かれていますので、漆喰の様子や、顔料の成分などを詳しく調べたあと、壁画が傷んだ部分は剥げ落ちるのを防ぐため、合成樹脂をしみこませたのです。
閉じられた石室の内側は、一年を通じて気温11℃~17℃、湿度95%以上と一定した状態で、これが壁画の保存には一番適しているとされ、常にこの状態を保つために空気調製施設がつくられました。
正確な記録を残すために前田青邨を代表者とする日本画家のチームによる精巧な模写も作られました。
現在、修復が終了して、一般公開される予定ですので、詳しくはHPで確認してください。
~特別史跡 キトラ古墳~
高松塚古墳に次ぐ我が国2例目の壁画古墳で、昭和59年(1983年)の調査で石室内に描かれた極彩色壁画が発見されたのです。
キトラ古墳ですが、明日香村阿部山にあり、近鉄吉野線飛鳥駅よりキトラ古墳行きの直通バスがあります。
キトラ古墳は、藤原京の南に広がる古代の皇族・貴族などの墓域に所在する小さな円墳で、7世紀末~8世紀初頃に造られたと考えられます。
~キトラ古墳の規模~
キトラ古墳ですが、東西にのびる丘陵の南斜面に位置し、墳丘は2段築城で、下段の直径が13.8m、上段の直径9.4mであったと復元されています。
墳丘の中央には、凝灰岩の切石を組み上げた石室があります。石室には18個の直方体の切石が使われており、石材は古墳から北西に約14㎞離れた二上山から運ばれたものと推測されています。石室内部の広さは、奥行2.4m、幅1.0m、高さ1.2mで、天井・側壁・床面の全面に漆鳴が塗られており、その白い漆喰面に、四神や十二支、天文図などの極彩色壁画が描かれています。
~重要文化財 キトラ古墳壁画~
キトラ古墳の石室内には、四神、十二支、天文図、日、月の壁画があります。
四神は天の四方を司る神獣で、壁画は対応する方位に合わせて、東壁に青龍、南壁に朱雀、西壁に白虎、北壁に玄武が描かれています。ちなみに高松塚古墳では、盗堀により南壁の朱雀が失われていましたので、我が国で四神の図像全てが揃う古墳壁画はキトラ古墳壁画だけです。
四神の下には、獣頭人身の十二支が描かれており、北壁中央に子像が描かれ、方位に合わせて各壁に3体ずつ配置されており、現在確認できているものは子・丑・寅・午・戌・亥の6体だけです。
屋根形の蘞り込みのある天井には、東の斜面に金箔で太陽を、西の斜面に銀箔で月を表現されています。天井の平坦面の部分には、円形の中国式の天文図が描かれており、この天文図は、赤道や黄道を示す円を備えており、本格的な中国式星図としては、現存する世界最古の星図なのです。