しっぽなのうつうつ

<宇宙(そら)>に魅せられて・・・
お写真、勉強中♪

色取月

2013-09-16 18:31:03 | つぶやき

風に揺れる夕方のコスモス


そうそう!9月の異称を載せるのを忘れていた!ドタバタと日々が過ぎて、いつの間にか月が変わっていた。前からこの「色取月」という異称を紹介しようと決めていたのに・・・。

9月に相応しい異称。でもそれは、北国向きかもしれませんね。秋の紅葉で木々が色づくのは、本州ではもっと後でしょうから。前記事に載せたナナカマド。上の写真、コスモスの可愛らしいピンク。枯れ始める前の、まだ緑が残る木々。そして、高い山では、赤、黄、緑に彩られる紅葉が始まり、裾野へと広がってい行きます。しっぽな地方は、これから「色取」の季節が始まります。

全国的に台風の影響で、気象状況は最悪のようですね。被害に合われた方はいませんか?しっぽな地方も昨日からずーっと雨模様です。本当に災害が多くて、地球の未来は大丈夫なのだろうか?と心配になってしまいます。

今日は敬老の日。父のお見舞いに行こうと思っていたけれど、母の体調がすぐれず、止めにしました。最近、母の心臓の具合が良くない。疲れだけではなく、体の機能が衰え始めているのでしょう。もう、80歳を過ぎているのだから仕方が無いけれど、もしかして、父よりも母の方が先に・・・、などと、いらぬ心配をしてしまいます。

上の写真は、先週の12日。忠別川の堤防近くで撮りました。撮った後、河川敷に下りると猫じゃらしの群生が夕陽を受けて光っていました。





空を見上げると白い月も浮かんでいた。上弦手前の欠けた月。けれど、遊んでばかりもいられない。帰って夕飯の支度をしなければ・・・。また今度ね。お月様に挨拶してから、家路につきました。






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旭川の木

2013-09-15 19:35:59 | つぶやき

ナナカマドの実が赤く色づいています。


この季節、旭川の街では、赤い実を付けた街路樹が秋の訪れを知らせます。ナナカマドは旭川の木。だからでしょうか?並木のように植えられたナナカマドをあちらこちらで見かけます。遠くから見ると、葉っぱが赤くなって、紅葉が始まったのかと勘違いしそうですが、近づくと、小さな赤い実が緑の葉と綺麗なコントラストでぶら下がっています。

春に白い花を付け、秋に真っ赤な実をつけます。以前、白い花の写真を載せたのですが、憶えているでしょうか?



これです。

大雪山系では紅葉も始まっているとか・・・。色づく山々を写真に撮りたいけれど、気付けば白くなっているかもしれません。ははは、季節はあっという間に廻って行きます。冬、あれほど待ち焦がれた春はなかなかやって来ないと思ったら、足早に過ぎて行き、夏の大地を捉えようと思ったら、出かける機会を失った。そして、いつの間にかまた冬が来たりして・・・。けれど、それも、仕方ない。


昨年の秋、風景を追いかけ始めて、コンデジ不二子と夢中で走り回っていた。今は風子も居ます。もう一度、ここから始めよう。秋から冬にかけて、撮るほどにのめり込んだ写真の世界。まだ、ほんの入り口。風景を見る私の心は、昨年とは全然違う。そうやって、季節は移り、心も移り、そして、カメラが捉える風景も変わって行くことだろう。冬が楽しみ。私にとって、また、新しい冬がやって来る。今度の冬はどんな景色を見せてくれるだろうか?

前記事に載せた星の写真。オリオン座は、本当は冬の星座。早朝だったから、綺麗に見えていた。秋の星座は、ペガスス座。秋の大四辺形を胴体に持つ羽をつけた白馬。勇者ペルセウスとアンドロメダ姫も同じ空に見ることが出来ます。

綺麗に撮ることが出来るかな?冬を迎える前に、なんとか、秋の風景と共に、秋の星景も挑戦したい。



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心は星を追いかける

2013-09-12 21:37:10 | つぶやき


遊水公園の星景。
オリオン座とシリウスがはっきり見えます。


昨日のこと。朝3時、何故か目が覚めました。どうしてなのか、分からないのですが、本当にいきなりパッチリ目が覚めたの。ふと、思い立ち、窓を開けて空を見上げたら、まぁ、星が綺麗な事!寝る前に見た時には、星は全然見えていなかったのに。

堪え切れない!出かけよう!!!

今、母は、私が居候をしている兄の家で寝泊まりしています。父と母は隣に小さな家を建て暮らしていたのですが、父が入院すると、父の面影が辛くて夜1人で寝るのが寂しいからと、私の隣の部屋で寝ているのです。

ほとんど真夜中と言えるような早朝。顔も洗わず、忍び足で外に出て、車を走らせました。何処に行くあてもないので、何度か星景を取りに行った郊外の遊水公園に向かいました。ただ、あそこは水場なので、蒸気でレンズが曇り易い。それでも、他に行くあてが無いので仕方ありません。

公園に到着して、アングル確認の撮影をしてから、まず長時間露光の日収運動撮影に入ります。何故なら、日の出が近づいて、空が白み始めたら困るから。でも、10分も経つと三脚の足がしっとりと濡れ始めた。やっぱりダメか・・・。露光を中止して、懐中電灯を当ててみると、やはりレンズは曇っていた。撮影は失敗。


水辺は諦めて、場所を変えて日の出を撮ろうと帰りかけると、白み始めた空が綺麗だった。再挑戦して、撮影。ブロアーでエアを吹き付けながら、曇りを抑えてなんとか撮った。



中央の三角は、旭岳です。



そのあと、あちこち走り回っては、朝焼けや、朝霧の風景を撮るドライブをして、帰宅しました。

朝から、何処に行ってしまったのかと、母が心配していた。ごめん・・・。

そして、その日、心臓の具合が悪く、母は一日寝ていた。今日になっても治らないから、かかりつけの病院へ行ったら、今までとは違う種類の不整脈が出てしまい、お薬が変更になってしまった。父の事で疲れが出たのかもしれないけれど、朝から心配かけてしまったせいかと思い、罪悪感で胸が締め付けられる。

気ままに風景を追いかけることも、今の私には、重しがかかる。それでも、星景のチャンスは逃したくない。

でも、母には理解できないだろう。睡眠時間を削ってまで写真を取る意味など、彼女にとっては訳の分からない事だ。体を壊すと心配するばかりだし、写真が私の心の健康のために必要だなどと言っても、途方にくれるだけ。だから、「遊んで来た。」と言って、誤魔化した。


風景を追いかける感覚を少し思い出した。でも、以前のように夢中になれない自分が居る。勝手気ままに走り回る事に、何故か罪悪感を抱いてしまい、母を家に残していることが心配で、落ち着いて撮影が出来ない。

親のしがらみが嫌で故郷を飛び出した10代の頃の気持ちを思い出した。解放されたくて、すり鉢の底を這い出たけれど、もう、あの時のように、ここを離れる事など出来はしない。ここは故郷。私が骨をうずめる場所。息苦しさに包まれても、私はここで生きて行かなければならない。

重い心を引きずりながら、それでも風景を追いかけて・・・





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介護・・・のような日々

2013-09-09 17:26:42 | 介護な日々

写真を撮れずにいるので、春に撮ったツインハープ橋を載せたりして・・・
今、この橋は、ケーブル補修の工事中。
普段片側2車線が、時々1車線になってます。



父の事を記事にアップすれば、介護で大変な思いをしている・・・と、心配をしてくださる方もたくさんいるだろうと、とても、申し訳なくなってしまいます。

しかしですよ。あれは、介護とはいえなかったと思うのです。母は、確かに父を介護していました。でも私は、母の手助けで「介助」はしたけど、介護はしていない。

通院や煩雑な手続きは私が担当していたけれど、日常の世話は母に任せていたし、入院するまでの最後のあの激しい日々は、介護と呼べるものではなかった。まさに、格闘、戦い。そして、そのさ中に、不思議なふれあい。

高齢化社会の世の中。
家族の介護で悩みを抱えている人は、たくさん居るでしょう。そして、その悩みは千差万別で、他の家の事が参考になるとは限りません。

例えば、私の父と同じ症状の人がいたとして、その家族構成や経済状況、住宅環境が違えば、その対応は全く違ったと思うのです。仮に、母が病弱だったり、すでに死んでいたりしたら、父は認知症が進む前に、有料老人ホームやグループホームに入っていたことでしょう。三年前なら、トイレは失敗なく自分で行っていたし、食事も自分で食べていた。着替えも、髭剃りも自分で出来たし、テレビやパズルを楽しんだり、文字も結構、綺麗に書けていた。父は施設に入ることを嫌がるでしょうが、母が居なければ食事を作る人も居ないのだから、諦めたと思うのです。帰宅願望が強くて、施設の人は苦労をしたと思うけれど、そのうち慣れて、自宅の事を忘れてしまったかもしれないし。

そう・・・、母が一生懸命世話をしたから、あんな極限まで家で過ごすことになった、とも言えるのです。父の事を周りに話すと「よくそこまで、家で見ていたね!」と半分呆れて、感心されます。それでも、母は、最後まで家でみたかったのです。2か月前まで、排泄のことであんなひどい目に合うなんて、思ってもみなかったのですから。
しかし、父にとって何が良かったのか?それは、もう、分かりません。限界まで妻と一緒に居られたことが、彼にとっての幸せかもしれないし、もっと早く、明るい施設で大勢の人と係わっていたら、認知低下はもう少し抑えられたかもしれない。
今、入院していますが、日中はほとんどホールに出ていて、病室に居るのは寝る時だけ。いつも、看護婦さんや他の患者さんが周りに居て、天井の高い明るい場所で刺激を受けながら過ごしていると、表情も穏やかになったように見えます。相変わらずお風呂を拒否しているようですが、そこは精神科のプロたち、上手に入浴させてくれたようです。
家に居る時は、母の作る食事を母の介助で食べていて、母が疲れてしまえば、水分摂取もままならない状態だった。けれど今はきちんと管理された栄養で、水分摂取も確保され、健康そのものの生活です。

それを見て、母はやっと、納得したようです。家で見てあげることが愛情と思っていて、病院に入れて可哀想な事をしたと落ち込んでいましたが、入院した方がお父さんのためになるのだと、罪悪感から解放されて、寂しさも軽減し、安心したようです。

入浴拒否が激しくて、なかなか体を洗えない上、失禁処理も抵抗されるので、いつも体が臭っていた。けれど、入院してからは、お風呂にも入れてもらい、オムツも上手に変えてもらい、臭いはしませんでした。家に居る時はシャツに股引という、情けない姿で居ましたが、今日、面会に行ったら、きちんとポロシャツを着てジャージを穿いていた。小汚いオヤジが、小奇麗なじいさんに変身です。

父にとって、私は、娘ではなく「知っている人」です。母は、たぶん「わがままを言える人」。妻とか子とか、結婚とか家族とか、そう言う概念を理解することが出来ていません。「親に自分の事を忘れられるって、どんな気持ち?」と聞かれることがありますが、私の場合、特にショックではないのです。普通の人は、悲しいのでしょうね。でも、私は、全然悲しくありませんでした。「あら、忘れたのね。」と思っただけ。ショックだったのは、父が母の事を忘れた時。それが、ひどく悲しかった。こういう気持ちも人それぞれでしょう。親が子供の事を忘れてしまい悲しくなったり、認知症になったことを受け入れられない人もいると思います。

ただ、私は思うのです。
親であろうと、夫や妻であろうと、そして、自分であろうと・・・。認知症になる可能性は誰にでもあるし、そうなっても、それは悲劇ではない。悲劇は、受け入れられない事で始まるのです。父がそうでした。彼は自分の変化に気づいていた。けれど、それを認めようとせず、何か言訳を探して逃げているうちに、恐怖や不安だけが自分を包んでしまったのです。彼はいつも何かから逃げていた。だから救済の手にさえ、恐れを抱くようになったのです。

諦め、ではありません。受け入れるのです。それが、穏やかな心を保ち、自分も周りも幸せになれる術だと思います。



これは、私の価値観です。
いろいろな考え方があると思いますので、どうぞ、聞き流してください。



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カトレアの赤

2013-09-05 17:39:16 | つぶやき


父が入院した時は、向精神薬が効き過ぎて、朦朧としてほとんど寝ている状態でした。このまま、廃人のように反応がなくなって、物も食べずに死んで行くのかな?と思う程、ヘロヘロになっていたのです。昨日お見舞いに行っても、似たような状態で、点滴をされて寝ていました。声をかけると少しだけ小さく返事をして、顔色も良かったので、すぐに死ぬようなことはなさそうだと思っていたのですが・・・。

今日、お見舞いに行くと、ベルトを付けて車椅子に乗って起きていた!食事は、朝も昼も全部食べたって!さすが、体力自慢の人だけはある。ベルトをはずそうとしたり、腰を浮かせようとしたり、動きも出て来て元気がいい。理解力はほとんど無いに等しいのに、体力だけは残っているのだから、本当に驚かされる。

これから、また、新たに薬の調整が始まるけれど、どうなって行くのやら。施設に入れる状態になるのだろうか?

庭先でスッと伸びていたカトレアを、母が居間に飾った。赤いカトレアが、暗い部屋に向かって花びらを広げている。もう、この家に、父が戻る事は無いだろう。この後、少しずつ片付けて、父の痕跡を消して行く。母は、今、兄の家で寝泊まりしている。「お父さんがいるような気がして、気になって眠れそうにない。お父さんとの思い出があるから、悲しくなってしまうから。」と言って、1人で寝ることを寂しがっている。そう、母は寂しいんだ。あんなに世話をやいて大変な思いをしても、二人で暮らすことに慣れているから、1人になることが恐ろしいんだ。面会に行くと一生懸命話しかけていた。「人がたくさん居るから寂しくないね。良かったね。」

母の心には、今、空洞が出来ている。夫婦って、そういうものなのかもしれない。ずっと一緒に居ることが当たり前になっていたから、離れることは想像もしていなかったのだろう。別れる時は死ぬ時と信じていたのだろうから。

この2カ月の激動で、母の人生設計は、大きく崩れてしまったのだ。可哀想に・・・。でも、仕方ない。人生なんてそんなもの。今までだって、思い通りに行かない事の方が、ずーっとたくさんあったはず。

私の人生もそう。何一つ、思い通りにならない。でも、だからこそ面白いのかもしれない。いろんなことが起きて、たくさん心が揺り動かされて、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、驚いたり、泣いて笑って、そうやって忙しい方が、人生に彩りがついていくのかもしれないな。


そう言って、心を慰めている。だって、そうでもしないと、やってられない!




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