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東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

「決戦~豊島一族と太田道灌の戦い」葛城明彦著を読む

2013-01-10 19:21:21 | 書籍


 本書は、江戸開府以前に後に東京になるエリアを支配していた豊島氏と、その豊島氏を駆逐していった上杉家の重鎮太田道灌の戦いに至る、その過程や領地などを解説した本で、面白かった。

 「平安末期から室町期にかけて現在の都内二十三区北部~北西部にあたる地域を支配していた豪族・豊島一族は、文明九(一四七七)年から翌年にかけての合戦で、江戸城の築城者として知られる太田道灌に敗れ滅亡した。つまりは、新たに台頭してきた勢力により、旧勢力たる一族が駆逐されたのである。」
 と本書の文頭に書かれている。その通りである反面、当時のこのエリアは戦略的な意味合いはもちろんあったとはいえ、所詮は辺境の田舎であった。それだけに、具体的な事実関係などの資料が極めて乏しいようで、逆にいえば、それだけ想像を巡らせる余地があるとも言える。

 この時代の歴史に詳しい人なら、関東管領の上杉氏の力の大きさなど、その背景になる話も触れられていくのだが、無知な私は後の上杉謙信に繋がる上杉家の盛衰という面から見ていっても、この辺りは中々面白いのだなと感じた。また、石神井川沿いという、私にとっては一際身近な地域で、この地を根城にした豊島氏の話は興味深く読めた。

 実際、城北エリアを歩いていれば、太田道灌と豊島氏に纏わる話は数多く出てくるし、その関係性などを知る上でも、本書は分かりやすいガイドブックになると思う。

 この両者が、最終的には江古田で激突して合戦になるのだが、以前に中野区立歴史民俗資料館を訪ねたときに、石碑があったのを見た覚えがある。これも、今となっては、家並みの広がる東京の町中に呑み込まれていて、とても古戦場といった趣があるわけではない。だが、この本を見ながら、古道を辿って、寺社を巡ってみると、それまでには見えていなかった、古の姿が浮かびあがってくるかも知れない。

今日の土地のイメージは、交通機関や道路で結ばれた現代の尺度の中での利便性から形作られているところが大きい。少し、時代を溯っていけば、鉄道は直ぐに視界から消えてしまうし、道路も大通りは姿を消していき、古くからの街道や古道が村や町を結んでいた世界へと導いてくれる。その世界が見えてくれば、過去の時代の有り様は、次第に生々しさを増して眼の前に浮かびあがるようになってくる。

徳川家康によって江戸は、町として形作られていくことになった。その姿が今に繋がるほどに、大規模な都市開発を行ったのだが、その全貌すら全てが解明されているわけではないらしい。それ以前の時代のこととなると、旧江戸市中から探すよりも、周辺部から見ていった方が様々な痕跡を見出しやすいとも言える。

関東は、新開地といったイメージが強く、江戸以来の土地という印象が強い。たしかに、その新しさが良い方向に向いている面もあるのだが、それ以前の時代からこの土地で暮らして来た人達はいたわけであり、また積み重ねられてきた歴史もある。中央政府の華々しさとは距離を置いていようとも、関東ローカルの歴史の上に我々は暮らしている。その足元を時に見つめるには、この本は格好のガイドになってくれる。

中野区松が丘二丁目にある江古田・沼袋古戦場の碑。
「江古田古戦場
 このあたり、哲学堂公園から野方六丁目にいたる新青梅街道沿いの一帯は、文明九年(一四七七)太田道灌と豊島泰経らが激戦をしたところです。
 ここでの合戦は、享徳の乱(一四五四~一四八二)という長期にわたる内乱の中の戦でした。
 享徳の乱は、古くからの豪族に支持された関東公方足利成氏と、太田氏が仕える関東管領上杉氏とが対立するなかで、結城・武田氏により管領上杉憲忠が殺害されたことがもとで起きました。
 この乱により関東は二分され、幕府などの支援を受けた上杉方は、武蔵・相模・西上野をおさえましたが、そのとき、江戸城を根拠地とした道灌は、武蔵国の領主達を支配下にまとめ、戦を有利にすすめるために重要な役割をはたしました。
 ここでの合戦は、武蔵野の開発を行って来た豊島氏にかわって、太田氏が武蔵野支配を確立する上で大きな意味を持っていました。
 昭和五十七年二月 中野区教育委員会」


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