東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

目黒の旧跡を尋ねる~その一:行人坂、大円寺

2015-01-03 19:17:58 | 目黒区
さて、品川からの道を辿ってみたところから、今度は目黒を少し見て歩こうかと思う。まずは、行人坂と坂の途中にある大円寺というお寺を見てみようと思う。行人坂というのは、目黒駅前から目黒川に向けて下っていく道である。清正公前から白金台を抜けてきた道が、山手線を越えて下る道である。今でもかなりの急坂である。江戸時代、元禄の頃にこの急坂の緩和策として権之助坂が開かれた。
この坂に纏わる物語として、「「行人坂の魔物~みずほ銀行とハゲタカ・ファンドに取り憑いた「呪縛」」町田徹著を読む」という書籍を取り上げたこともあった。これを読んでこの坂を尋ねるのも一興だと思う。
「行人坂は、下目黒一丁目8番の雅叙園西わきを北東へ、目黒川の太鼓橋から目黒駅の東方に上る急坂である。この坂は、江戸時代に権之助坂が開かれる前は、二子道として、江戸市中から目黒筋に通じる大切な道路であった。いまは、権之助坂の方が広くてにぎやかだが…
「江戸名所図会」には「目黒へ下る坂をいふ。寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建立し、大円寺と号す」とある。
行人坂という名称は、湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂(現大円寺)を建て修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったのでつけられたという。
また、この坂は「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大火のひとつ(行人坂火事)とも関連して知られている。行人坂火事は明和9年(1772年)2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し、3日間も燃え続けたというものである。明和9年の出来事であったので、だれいうとなく「めいわくの年」だと言い出したので、幕府は年号を「安永」と改めたといわれている。
現在、雅叙園のある付近一帯は、かつて「夕日の岡」と呼ばれ、紅葉が夕陽に映えるさまは実に見事で、品川の海晏寺とともに、江戸中に知れわたっていたところである。(「明王院の後ろの方、西に向かへる岡をいへり。古へは楓樹数株梢を交へ、晩秋の頃は紅葉夕日に映じ、奇観たりしとなり。されどいまは楓樹少なく、ただ名のみを存せり」「江戸名所図会」)。
行人坂が急坂であることは、権之助坂を下ったところにある「新橋」よりも「太鼓橋」が低い位置にあることからうかがえる。」(目黒区サイトより)


坂を下ってくると、右手に芸能プロダクション大手のホリプロの建物が数多く建てられている。権之助坂に抜ける道には、目黒の名店として知られるとんかつのとんきの看板も見える。急坂を下っていくと最初に目に入ってくるのが祠に祀られた地蔵尊。
「目黒川架橋供養勢至菩薩石像(区指定文化財) 大円寺境内
 下から台座(97cm)、蓮座(20cm)、頭上に宝瓶のついた宝冠をかぶり、両手合掌、半跏趺坐の勢至菩薩像(52cm)の3段になっています。台座の前面と両側面に、江戸中期における目黒川架橋のことを語る銘文が刻まれています。銘文によると、宝永元年(1704)に西運という僧が目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、往復の途中江戸市民の報謝をうけ、両岸に石壁を築いて、雁歯橋を架けたことがわかります。目黒川架橋の史実を物語る貴重な資料です。
 平成3年3月 目黒区教育委員会」


ここに出てくる西運という僧が、八百屋お七の恋人吉三の出家後の法名であるという。


地蔵尊の祠の直ぐ下に大円寺の山門がある。


その正面には権之助坂へ向かう道があるのだが、こうして見ると行人坂の急峻さが分かっていただけるかと思う。通過していくタクシーが、結構な角度で上っている。


大円寺の境内に入ると、本堂が立派なもので、歳月を経ているのに目を奪われる。
「目黒駅の西口を出て、すぐ左手の歩道橋を渡ると、角のビルの裏手に目黒川に下る細くて急な坂がある。この坂は行人坂といい、かつて目黒不動参詣の道としてにぎわった道である。
坂を下り始めて間もなく、左手に天台宗大円寺がある。この寺は、江戸の初期、元和年間(1615年から1624年)に湯殿山の行人、大海法印が建てた大日如来堂に始まると伝えられている。山門を入るとまず目につくのが、境内左手のがけに沿い幾段にも並ぶ石仏群である。初めてここを訪れる人はその数の多さに目を見張ることだろう。釈迦三尊像、五百羅漢像などから成る520体ほどの石仏像は、昭和45年、都有形文化財に指定されている。」(目黒区サイトより)


坂に面して建てられていた目黒川架橋供養勢至菩薩石像と関連する、目黒川に架けられた歯sに使われた石材。


手水鉢には、品川新宿の文字が入っている。新宿は内藤新宿のことではもちろんなくて、品川宿を歩いた時に出て来た、一番八ツ山よりの歩行新宿のことである。ここでも、品川と目黒の結び付きを感じ取れるものと言える。


境内を見回すと、圧倒的な数の石像が並んでいるのに圧倒される。
「大火犠牲者供養の羅漢像

振袖火事、車町火事と並んで江戸三大火のひとつである明和9年(1772年)の行人坂火事は、この大円寺が火元といわれている。同寺から出た火は、折からの強風により、たちまち白金から神田、湯島、下谷、浅草までを焼き尽くす大火となった。特に城中のやぐらまでも延焼したので、大円寺は以後76年間も再建を許されなかった。
石仏群はこの大火の犠牲者供養のために、石工が50年という歳月をかけて完成したといわれている。一体一体をよく見ると穏やかにほほ笑むもの、ほおづえをついて考え込んでいるもの、泣き出しそうなものと、その表情は実にさまざまで、個性あふれる石仏群を見ていると親しみがわいてくる。
この石仏群の手前、本堂横に顔や手が溶けたような、一体の異様な地蔵が立っている。この地蔵は「とろけ地蔵」と呼ばれ、江戸時代に漁師が海から引き上げたもので、昔から悩み事をとろけさせてくれる、ありがたいお地蔵様として信仰されてきたとか。」(目黒区サイトより)


この石仏群を見るだけでも、ここにやってくる価値があったと思える。一つ一つの表情が全て違っている。


本堂の来歴などはあまり出ていないのだが、細工も丁寧に施された凝ったもの。


品川周辺の寺社に共通して、この細工の細やかさがあるように思うのだが、それはやはり品川が宿場町として繁栄したことで、その富がこういった形で残されているのだろうか。


扁額と提灯。


国指定重要文化財の清涼寺式釈迦如来立像が鎮座している。
さて、この寺のご本尊は、建久4年(1193年)に造られた清涼寺式釈迦如来立像(寄木造り・高さ162.8センチメートル)で昭和32年に国の重要文化財に指定されている。
「清涼寺式釈迦如来立像
永観元年(983年)奈良東大寺の僧「ちょう然」が、宋に渡った折、当地で見た天竺渡来の釈迦像に大いに感動した。僧はその像の模刻を日本に持ち帰り、京都嵯峨のお堂に安置した。お堂はやがて清涼寺となった。清涼寺式と呼ぶのは、こうしたいきさつによる。清涼寺の釈迦像は美しいが故に盛んに模刻され、現在は大円寺のほか、鎌倉の極楽寺などにも安置されている。」(目黒区サイトより


阿弥陀堂。ここにはお七地蔵の木彫もあるという。
「西運の念仏行
この寺はまた、八百屋お七の情人吉三ゆかりの寺でもある。吉三は出家して西運を名乗り、大円寺の下(今の雅叙園の1部)にあった明王院に身を寄せたという。西運は明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提を弔うために、目黒不動と浅草観音に1万日日参の悲願を立てた。往復10里の道を、雨の日も風の日も、首から下げた鉦をたたき、念仏を唱えながら日参したのである。かくして27年後に明王院境内に念仏堂が建立された。しかし、明王院は明治初めごろ廃寺になったので、明王院の仏像などは、隣りの大円寺に移された。西運に深い関心を持っていた大円寺の当時の住職であった福田実衍師は、昭和18年、同寺に念仏堂を再建した際、万葉集出画撰を描いた大亦観風画伯に「お七吉三縁起絵巻」を描いてもらった。その一部、木枯らしが吹きすさぶなかを、念仏鉦を力一杯たたき、念仏を唱えながら、日参する西運の姿を刻んだ碑が境内に立っている。」(目黒区サイトより)


阿弥陀堂前から本堂の方を見ると、背景は木々が茂っていて、往年の目黒の面影を感じとることができる。


その逆に本堂の方から阿弥陀堂の方を望むと、背後に雅叙園の超高層ビルが聳えている。


境内には庚申塔も置かれている。三猿の刻まれたもの。やはりお寺にあるものは、道路脇に置かれたものよりは遙かに良いコンディションを保てることが分かる。


行人坂を下から見上げてみる。


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