東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

目黒を歩く~その二十一:祐天寺駅周辺

2015-05-16 13:01:25 | 目黒区
さて、再び再開。そして、目黒川まで行っていたのだが、グッと戻って祐天寺の前からリスタート。祐天寺の隣に、浄桂院という寺がある。


「浄桂院は慶長年間(1596~1615年までの期間)に実蓮社真譽宗印上人[生年不明~慶長15年戌年(1610年)7月26日遷化]によって創建されました。 開山上人が亡くなった慶長15年は、江戸に徳川幕府が開いて7年目、2代将軍徳川秀忠公の御代であります。
昔は港区西久保巴町、現今の霞ヶ関(虎ノ門)附近に、港区天徳寺の塔頭寺院(たっちゅうじいん)・支院として建てらた寺院であります。 塔頭寺院とは、本山始祖をはじめ、歴代住職の中でも碩徳(せきとく)の師の塔所を塔頭といい、それを祀る寺院のことです。 天徳寺は、尾張徳川家、越前福井藩松平家の江戸における菩提寺で、寺格も高く、諸大名の帰依もあって寺運は隆盛しました。 また、浄土宗江戸4ヶ寺の一つとして数えられ、幕府外交の場としても使用されたことがある由緒あるお寺であります。
浄桂院は創建以来、明治年間までに火災に遭うこと2回、1回目は明暦の大火[振袖火事](1657年)、2回目は更に大正12年9月の関東大震災により寺宇・寺宝・寺書等一切を焼失しました。 震災による被害は大きく西久保での復興を断念し、昭和4年5月に当地に移転してきました。 隣接する祐天寺との本末関係はなく、祐天寺は増上寺末であり浄桂院は知恩院末であります。
移転の経緯は浄桂院第27世伊藤俊明上人と、祐天寺第17世愍隨上人とが師弟関係(師・愍隨上人)、第18世俊興上人とが兄弟弟子(兄弟子・俊明上人)であった為、その縁を以て寺所譲受が行なわれました。」(浄桂院サイトより)


この西久保巴町というのは、愛宕山の裏手にあたるところ。今でも、幾つかの寺があって、寺町であった面影を残しているところでもある。関東大震災後にあそこから移ってきたと知ると、かつてのイメージも改めて浮かんでくるものがある。


しかも、本末の関係性ではなく、師弟関係から祐天寺の敷地を割譲されて移転したというのも、非常にユニークで興味深い。奥には庭園も整備されていた。


昭和初期のできた寺も、今は歳月を重ねて趣のある雰囲気になっている。


駒沢通りを渡って、北へ向けて進んでいくと東急東横線の祐天寺駅方面へと向かって行く。東横線の渋谷から多摩川駅間は昭和2年に開通している。この辺りの駒沢通りから入っていく道筋は、それよりも古い時代からの道であるように感じる。商店が出来ていった背景には、電車の開通による都市化があったのだろう。


木造の商店も結構あって、歩いていて飽きない。高級住宅地としても目黒の顔と、かつての農村であった目黒の面影が交錯するところが、見ていて面白く感じられる。


この辺りは、古くからの目黒の面影が色濃く残っているように思える。


街角に蒸気機関車の動輪が置かれている。国鉄最後の蒸気機関車による御召し列車の牽引に当たったC57117号機の動輪である。この祐天寺には昔から鉄道好きには有名なカレー店があって、その店の方の尽力でここに置かれているようだ。サビもなく、磨き込まれているのが見事。


その奥には平塚幼稚園がある。昭和24年に開園した地域に根差した幼稚園のようだ。


詳細は不明な戸田稲荷神社が幼稚園の隣にある。農村時代からの稲荷社なのだろうか。


小さな社が祀られている。


駅の周辺にも商店街は広がっていて、昭和期からの歴史を感じさせる雰囲気が良い。


閉店している店もあり、休日であった店もあり、再開発を待つ店もありといった混在している感じ。


賑わった頃の夕暮れの雰囲気を想像したくなる。


地理的には現在の山の手エリアになるのだが、雰囲気は下町的なものを感じる。


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