東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

品川からの道~池上道その十:八景坂と天祖神社

2015-02-25 19:26:37 | 大田区
さて、池上道を進むと、大森駅の前に出てくる。こちら側は線路よりも高さがあって、建物が並んでいるので線路が見えない。そして、坂道を下っていくと大森駅の駅舎がある。駅が出来たのは明治9年で、鉄道開通後少し経ってからのことだ。大森駅は、かつて日暮里駅がそうであったように京浜東北線だけではなく、長距離の列車ホームも存在していた。もっとも昭和5年には電車線のみの駅になっているのだが、私が高校生だった1970年代の後半には、まだその痕跡がはっきりと残されていた。


その向かいに階段があって、そこに案内板が設置されている。今の坂道の様子からは、想像できない感じだ。
「八景坂 大田区文化財
 今でこそゆるやかな坂道であるが、昔は相当な急坂で、あたかも薬草などを刻む薬研の溝のようだったところから、別名薬研坂と呼ばれた。
 この坂の上からは、かつて大森の海辺より遠く暴走まで一望でき、この風景を愛した人たちにより、「笠島夜雨、鮫洲晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘」という八景が選ばれ、八景坂というようになったといわれる。
 かつて坂上には、源義家が鎧をかけたと伝えられる松があり、広重らの浮世絵に描かれ、有名であった。
 昭和五十一年二月二十五日指定 大田区教育委員会」


その階段をさらに上っていくと、八景天祖神社がある。


駅前で商店街があるところなのだが、これほどに急峻な切り立った崖があるというのも面白い。そこを階段が上っていく。


「お社は江戸時代神明社といわれ主神は天照大神を祭神とし凡そ、享保年間(約三百年前)に、土地の庄屋、年寄、百姓が相謀り伊勢神宮の参詣を目的に「伊勢講」を作り伊勢皇大神宮に詣で分霊をお受けして祭祀したのを初めとする。八代将軍徳川吉宗が将軍就任と共に、伊勢の橋爪源太郎が享保二年(1717)幕命を受け「綱差役・・・将軍の鷹狩りの時に捕らえた鳥に餌付けする役職で彼は鶴の生け捕り、飼育に長けていた」として不入斗に居を構え菩提寺は円能寺にある。新井宿村の伊勢講の成立ち、並びに遂行管理に伊勢出身者の彼が便宜を図ったことが予測されるので、この頃には創建された根拠になっている。伊勢神宮は天照大神を主祭神とし、天手力男神、万幡豊秋津姫命を相殿に祀る。従い、本神社も三種の神器の一つの八咫鏡を神体としている。お社は八景坂の西上に当たり境内は四十八段の石段を上りたる幽達の地にして、延宝五年(1677)、江戸幕府の命により円能寺の別当するところになり、明治初年まで同寺の管理下にあった。明治五年(1872)十一月神仏混淆の禁令に伴い、円能寺の手を離れ神明社は伊勢を意味していたので神社ではあるが区内唯一冠称を付け「神明山 天祖神社」と名を改め地元の鎮守として、階段下の神社の大きな標柱にも「鎮守 天祖神社」と刻字され物語っている。」(境内の掲示より)


社殿前には松の切り株が置かれていて、かつて境内にあった、鎧かけの松として大事にされていた。手水舎もシンプルだが、雰囲気のあるもの。


「第二次大戦の終わり頃、空襲により本殿が焼失しました。戦後、昭和28年に残っていた神楽殿を解体し、その木材を使い野口玉重氏を始めとして、氏子の協力を得て本殿を再建しました。」


「夫婦シイ(椎)の大樹について
 ブナ種の常緑高木で、南方暖帯系です。樹齢は約三百年位です。現在も樹勢は盛んで、毎年秋には多くの実を付けます(炒れば食べられます。)樹木は外側に成長層があり、木肌に手を当てると、気の強い生命力を感じられると参拝する人が云っています。」


そういわれてみると、この社殿はどこか神楽殿の雰囲気が今も残されているようだ。


神社の横には、急な坂道。


神社の裏は、住宅地になっている。この辺りにはかつて、八景園という遊園があった。
「明治17年(1884年)に開園し、郊外随一の遊園地として有名でした。鉄道唱歌にも梅の名所として歌われています。明治35年(1902年)には、皇后(後の昭憲皇太后)が行啓され、記念碑が加納久宜子爵
邸跡(山王三丁目31番21号)に建てられました。大正2年(1913年)には園内にあった料理屋が廃業し、大正11年から大正13年(1922年から1924年)にかけて区画分譲され、住宅地に変わりました。」(大田区サイトより)


八景園では、明治の末頃に森永製菓(当時は森永商店から株式会社へと急成長していた)が従業員の運動会を開いていた。取引先であった私の曾祖父も一緒に店の者達と参加していたようだ。
今では高級住宅地になっているが、そうなったのは大正末の頃からというわけである。八景園も今ではマンションの名に痕跡を残すのみである。


そんな一角に地蔵が祀られていた。


そして、その奥にはこんな石碑があった。


「明治22年(1889年)から昭和12年(1937年)ごろまで、射的場として使われていました。「日本帝国小銃射的協会跡」の碑があります。」(大田区サイトより)駐車場の向こうはテニスクラブになっている。


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