JR埼京線の板橋駅と言えば、私にとっては最寄り駅でもあり、馴染み深い。駅の様子も昔から大きくは変わらないと思っていたのだが、古いネガを見ていたら板橋駅で撮影した写真が出てきて、変わらないようで結構変わって来ているのだと気付かされた。そこで、板橋駅について振り返ってみようと思う。
まず、板橋駅の貨物扱いをしていた様子をまとめた図である。青で塗ったところが貨物を使っていた場所である。今は全て無くなっている。
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板橋駅は明治18年3月1日に日本鉄道の駅として開業した。これは当時の政府が財政上苦しく、幹線鉄道を将来の国有化を含みながらも民間で建設していこうという機運からこうなった。現在の東北本線、高崎線、常磐線はこの日本鉄道によって建設された路線である。そして、貨物の取り扱いも同時に始めている。この頃の様子を板橋区発行の「写真は語る」では、こう述べている。「駅舎は瓦葺きの平屋で、畑の中にぽつんと建てられた田園駅であった。駅前の小さな広場の桜の木の下に団子を売る茶店があり、乗客はのんびりと団子を食べながら汽車を待っていたという。」利用者は開業当時は一日20人だったという。明治44年の郵便地図では、こんな感じ。まだ、国道17号は出来ていない。旧中山道よりも北側に線路に並行して行き止まりの線が書かれている。これが板橋の貨物駅である。
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「写真は語る」より大正初期の板橋駅の様子。駅の北側から駅舎とホームを望んでいる。初期に利用者が少なかった要因としては、この路線は池袋、新宿を経由して大崎、品川と繋いでいたわけだが、池袋は狐の出るような原野であり当初は信号所で駅ではなかったし、新宿も宿場町とはいえ都心部とは程遠いいということであったからとも考えられる。都心部へ行くのなら、中山道を歩いて行った方が速くて安価だった。
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昭和16年の地図を見て頂こう。この頃の地図は、今の練馬区まで含まれているので、詳細が描き切れていない恨みがある。とはいえ、駅の南西部が明治製菓グランドと書かれている。明治製菓は旧陸軍東京第二造兵敞跡地に工場を造ることになる。もちろん戦後のことなのだが、このグランドを手放してそちらの敷地を手に入れたのだろうか?今は、加賀ガーデンハイツという大きなマンションが建っているところである。
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こちらは昭和23年に米軍が撮影した空中写真である。板橋駅周辺は空襲で焼け野原と化していたのがよく分かる。まだ、この時点では東口は存在しない。先の地図で明治製菓グランドと書かれていたところには、建物が建っているのが分かる。南側が日本食糧倉庫で、隣接しているエリアはその後国鉄アパートになった。この日本食糧倉庫は、城北地区に供給される米の備蓄倉庫であった。
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この写真は昭和49年3月に撮影したもの。手前が国鉄アパートで、奥が日本食糧倉庫。倉庫の前に貨車が止まっているのが見える。現在はどちらも巨大マンションになっている。板橋駅は平成8年に貨物の取り扱いを終了している。
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前の写真のホームを挟んだ反対側。これも同じ昭和49年3月の撮影。バックに滝野川のガスタンクが見えている。フレームの中にタンクがせり上がっているのが分かる。離れたところから見てもこれだけのサイズということで、そのスケールを想像して頂ければと思う。入替用のディーゼル機関車が貨物を牽いてきて、構内で入替作業をしてまた去っていく。板橋駅の見慣れた景色だった。今は構内の線路も部分的に撤去されて、うら寂しい。
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こちらは赤羽線と呼ばれていた当時の電車。101系という電車で、池袋→赤羽という字幕が懐かしい。縦書きバージョン。昭和49年撮影。
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こちらは横書きの字幕。赤羽行きの線路の向こう側にもう一本線路があるのが分かる。今は無くなっている。同じく昭和49年。
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これは板橋~十条間で撮影した当時の赤羽線。昭和52年2月の撮影。当時の総武線各駅停車と同じ、カナリヤ色といわれた黄色だった。
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同じ場所で、茶色い電気機関車の貨物列車。今はもう無いが、この当時は貨物の電気機関車は茶色い前後にデッキの付いた機関車が普通だった。昭和44年まで大宮から板橋までD51の貨物列車が来ていたそうだが、全く見た覚えがない。バックに滝野川のガスタンクが少し写っている。この写真の辺りも今は家が建ち並んでいて、場所の特定すら難しいほどになっている。
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これは昭和56年撮影のカット。遠くにサンシャイン60が見えている。構内の様子も何となく分かる。奥のマンションが立っているところが住友セメントの工場だった。セメント工場への原材料も貨物の引き込み線が設けられていて、板橋駅で最後まで残った貨物だった。この頃に構内のポイントが機械化されていた。左側に立っている黒い四角いものが表示装置。初めて見たときには、なんだか偉く大袈裟なと思ったけど、廃止まで何年使ったのだろうか?
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これも昭和56年撮影のカット。電車は冷房付きでATC対応の103系に変わっている。ホームの屋根の柱が全て木製だった。気付かない内に鉄製の屋根に変わっていた。
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赤羽方面への線路を覗き込むと、外側に貨物の線があった痕跡がうっすらと分かる。広告看板が建てられていたり、駅に隣接する売店や立ち食い蕎麦屋などが出来てはいるのだが。
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駅を出て旧中山道の踏切の辺りまで来ると、貨物駅のあった痕跡が何となく残されている。ここに貨物駅へつながる線路が通っていた。この踏切の反対側に踏み切り小屋があり、入替の様子を見ながら踏切の開閉を行っていた。(コメントで指摘をいただき修正・2024/4/7)
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今は高層マンションが建っている。貨物駅跡地。
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貨物駅当時には、日通の看板があったのを覚えている。都営地下鉄三田線新板橋駅が出来ても、貨物駅の方は何となく寂しい感じで、あまり近くへ行ったことはなかった。国道17号方面から旧貨物駅正面入り口を望む。今は板橋ビュータワーという高層マンションである。もう貨物駅のあった当時からの建物は数少ない。左手の古いアパート件店舗も、マンションへと変わる。
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2011.10.30追記
板橋駅踏切付近で撮影した画像があったので、掲載しておく。早朝の真っ暗な時間帯に手持ちで撮影したものなので、見づらいがご容赦を。板橋駅西口側から見た旧中山道踏切。今の両側から回転して降りてくる遮断機ではなく、踏切の両側に立つ柱に渡された鎖が降りてくるタイプの遮断機が付いているのが分かる。電車が走っている手前に貨物の線が一本通っている。また、左手の現在は高層マンションが建って生協の店が入っている辺りには、コカコーラの大きな立て看板が立っていて、杭を並べた塀になっている。その中は貨物駅でこちら側には開いていなかった。踏切小屋があったはずなのだが、位置が具体的に思い出せない。踏切まで歩道があるわけでもなく、今と比べると随分寂しい感じだった。
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そうですね、旧中山道踏切の踏切小屋はTSUTAYAのところでした。なんでこんな事書いているんだろう?なかなか一人で書いていると校正がうまくないことが多いです。
TSUTAYAは今度ドラッグストアになるそうです。今も家主はJR東ですね。
板橋駅に来る貨物は大宮から新鶴見のEF15が牽いてきてました。かつてはそれが大宮のD51の仕業だったそうです。武蔵野線開通前には板橋駅を通過する貨物列車もありました。
DD13は品川区の初期型が入替えに来ていて、その印象が私も強く残っています。
懐かしい写真ですね。
板橋駅の踏切の警手がいる小屋の位置はTSUTAYAがあったところの遮断桿脇です。
当時、板橋に来ていた貨物列車がどんなのか興味があったので、参考になりました。
私はDD13後期形(2灯ライト)とDE10くらいしか覚えていません。
御覧頂き、どうもありがとうございます。
私にとっても板橋駅は日常の一部でしたから、あまり写真を撮っていたわけではなかったんですが、僅かでも撮っておいて良かったと思っています。
板橋駅周辺は倉庫や工場などがみな大きなマンションに変わって、随分雰囲気が変わりましたね。でも、滝野川は町の雰囲気が昔ながらの良さを残していて良い町だと思います。
3歳~12歳までこの辺に住んでいました。東口側(滝野川7丁目)です。当時、池袋に行くのに板橋駅をよく使っていました。また、貨物の出入りが多い夕方の時間帯は家があばら屋だったせいか地震のように揺れていたことを覚えています。
ディーゼル機関車の写真や駅舎の写真などイイですね。ガスタンクやセメント工場、国鉄アパートや日本食糧倉庫等々、何気ない風景なのでもう見られないと思っていました。感謝!!
またよらせてもらいます。
話など色々楽しかったです 又宜しくお願いします
赤羽線には大宮から板橋のセメント工場へ蒸気機関車D51の牽く貨物列車が走っていたそうです。これも私には残念ながら、見た記憶がありません。
有りましたよく貨物の数を数えていた物です
うろ覚えですがたまに蒸気機関車が貨物を引いて居た様な記憶が有るんですが間違いかも?
でもこの写真は懐かしく貴重な物ですね・・・
大事にして又見させて下さい
御覧頂きまして、どうもありがとうございます。
私が物心着いた頃には既に赤羽線は8両編成でした。茶色い電車だった記憶は微かにあります。
うちの母親に聞いてみたところでは、赤羽線が短かったのは覚えていると話しています。板橋駅のホームも、今よりずっと短かったとか、急に記憶が甦ってきた部分があるようです。
お楽しみ頂ければ、幸いです。
私も池袋駅の4番線赤羽線を思い出しました
4両編成で電車の先頭と後ろの車両が丸みが有り二人か三人?が座れる座席が有り良く
その電車に乗れる様に願ったものです
随分と変わったな~と思って乗っていましたが
写真を見ると余計に感じますね
去年?だったと思いますが十条駅で駅の昔しの
写真を展示していましたがやはり写真って記録
見たいな所が有り大事にしないといけないな~
と思いました
御覧頂いて、こちらこそありがとうございます。
なかなか日常にカメラを向けて記録するということは、デジカメと違う昔には難しくて、地元板橋の景色はあまり撮影していません。
古いネガをチェックしていると、記憶には残っていないものの、僅かに色々なフィルムの片隅に板橋駅の景色が残っていました。変わらないと思っていましたが、改めて見ると随分変わっているのに驚きます。
感動
ありがとうございます
父が板橋の風景を描いているものですから