東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

中央区月島

2011-05-14 18:00:00 | 中央区
さて、月島である。ここは明治に埋め立てられて出来た土地。新しい町でもあるし、今となってはそうでもないともいえる。ここも関東大震災で焼け、その後の復興期に作られた町が見所だった。いつの間にか、隅田川沿いには高層マンションが並び、ブロックごと再開発でやはり高層マンションが建つようになっている。この頃の写真にも「もんじゃ」の文字が見えてはいるが、近年ほどそれで町興しという感じでもなかったように思う。アーケードの商店街もどこかのどかな感じだった。ここと佃については、35mmで一度撮影に来て、その後の撮影をミノルタ・オートコードの6x6で全て行っている。全て三脚使用で撮っている。今見ても絞り込んで撮っていて鮮鋭度は満足のいくものだが、手持ちでスナップしてたものとは少し雰囲気が違っている。この当時の試行錯誤の一環でもあるのだが、これはこれでも面白いと今見ると思える。撮影日は、1981年10月3日と1982年2月19日。現在の画像は2011年5月14日に撮影。

この頃は地下鉄有楽町線は新富町までしか開通しておらず、佃大橋を歩いて渡ってきた。この当時でも銀座に近い割にはどこかのどかな感じがしたのは、交通の便が今ひとつだったせいなのだろうと思う。

一丁目4番。佃大橋を渡ってくると、浄土真宗本願寺派の説教所というのがあって、これがまず目を引く。これは今でもある。そこからメインストリートである清澄通りまで来た角の松橋タバコ店。今はマンションになっている。


一丁目4番。松橋タバコ店の横には映画のポスターが貼られていた。このカットは1982年2月19日の撮影。その部分のアップ。


一丁目5番。そのまま清澄通りを勝鬨方向へ進んだ最初の信号を道路の反対側から見たところ。建物は現存している。


一丁目7番。7番は今は再開発で8番にまとめられている。。その角を曲がってまずは一丁目の奥へ入っていく。この当時からある中央サマリア病院の裏手の通りにあったスタンダードな木造住宅。今はアイマークタワーという高層マンションが建っている。


一丁目11番。ずっと隅田川寄りに向けて奥へと進んだところ。良い感じで長屋が並んでいる。これも、震災後の復興期には建坪が区画整理で削られるケースが多く、不足する建坪を補う為ということもあって、こんな造りが多かったようだ。今は「マイキャッスル月島」というマンションになっている。


一丁目20番。裏通りを勝鬨方向へと進んでいくと、山本商店が干物を干していた。築地の場外の店がこちらで加工をしていたりというのもあったようだ。今はここもマンション。隣のバイク屋さんも仕舞た屋。


三丁目4番。駐車場越しに見る月島温泉の煙突。今はグルメシティというビルが建っている中に入っている。駐車場にもマンションが建っている。


三丁目6番。もう一ブロック行って角から左を見たところ。宮本タバコ店は今もある。


三丁目19番と22番の間。さらに来た道を進んでみる。どこのも盛大に家の前に植木を並べている。今もそういう家はあるが,大分少なくなった。


三丁目22番。そこから曲がった路地。三輪車で遊ぶ子供を見守るのはお祖母さんだろうか。旅館つかさもとさや質店ももうない。路地のシルエットは変わらないのに、何かが変わっていることを感じる。


三丁目8番。清澄通りへ戻る途中で一本手前を左へ入ってみる。二軒長屋でスタンダードなスタイル。画面右端に写り混んでいる床屋さんは健在だが、この家は取り壊されて建て直されている。


三丁目14番。元の通りに戻って清澄通りへ出て、一ブロックほど勝鬨方向へ進んだところ。鰻屋さん閉店のお知らせ。建物は今は茶月の店が入っている。


四丁目13番。工業用ゴムの問屋さん,加藤文四郎商店。清澄通りを渡る。今度は逆方向に進んで最初の交差点の角。今はマンションになっている。スクラッチタイル張りの一階の上に二階建てが載せられているよう。


二丁目18番。そのまま進んで次の角を右へ折れて、奥へと進んでいく。橋の手前の道を左に曲がって出てきた角。ここも今はマンションになっている。


二丁目6番。そこから清澄通りの方へ一ブロック戻った角にあった第一鹿島酒店。今も建物は残されているが、なんとステーキハウスになっている。


二丁目6番。その並びにあった一軒。日本金庫と看板が出ている。これも二軒長屋だけど、違うスタイルのもの。今も健在だった。


二丁目9番。その先を右に折れてた奥。こちらは普通の一戸建て。普通なところが今となっては良い感じ。建て直されているが、左隣は現存している。


二丁目13番。来た道を少し戻って、清澄通りへ出た角からの景色。四軒長屋。今はビルとマンションになって面影もないと思ったが、角のドライクリーニング矢田貝はビルになって健在だった。その向こうの三好製作所、荒井喜久蔵商店と、職人さんという言葉の似合いそうな店構え。その向こうには酒屋に将棋クラブと並ぶが今は面影もない。


二丁目12番。12番も今は10番に飲み込まれている。その来た道筋。こちらも見事な長屋。これだけずらっと連なっていると見事としか言い様がない。今はブロックごと再開発され、高層マンションが聳えている。


二丁目12番。ここも今は10番に統合。そのブロックの清澄通りに面したところ。月島第一食料二丁目販売所は米屋、手前は白ばら美容室。今は面影もない。


二丁目10番。今は番地でいうと十番から十二番まであったものが十番一つにまとめられてしまっている。並びのまたまた米屋の吉岡精米店。看板には十番と書かれているけど、住居表示看板は十一番になっているのが面白い。今は高層マンション。


今の状況を見に再び月島を歩いて見ると、やたらに商売っ気ばかりを感じるもんじゃの店と高層マンションばかりが眼に入ってくる。食傷気味になりながら歩き回っていると、意外と昔ながらの町が裏に入ると息付いているのを見つけて少し嬉しくなる。


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10 コメント

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Unknown (まさそり)
2011-05-14 19:50:25
月島がもんじゃの街になったのは、80年代後半から90年ごろにかけてだったと思います。
ワタシが生まれ育った下町のもんじゃとは、全く別の食べ物でビックリしましたっけ。
駄菓子屋の、子供のおやつでしたからねぇ、もんじゃは。
具が立派過ぎて、唖然としちゃいました。

それにしても、当時の月島は【緑豊か】ですねぇ。(笑)
鉢植えがすごいです。
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Unknown (kenmatsu)
2011-05-14 20:12:18
そうですよね、もんじゃって千円近いお金を出すようなものじゃなかったですもんね。立派な店を構えて、大の大人が食べるようなものではないというべきか。

最近の月島は商店街のみならず、裏通りまでもんじゃの店だらけでびっくりです。

都心に近くてバブルの荒波を受けている割には、月島はこの頃の面影を大分残してると思います。

現状と並べたくないと思っていたけど、今までのところは最近歩いていて、デジカメで写真は撮ってあるんですよね。見る上では、今の状態と一緒に見られた方が良いのかな?
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Unknown (まさそり)
2011-05-14 22:37:48
今、神田神保町の記事を再度拝見しました。
現状との比較は、現場を知らない方にもわかり易くて良いですね。

更に30年後、(生きてて元気なら)その場所を確認したくなります。(笑)
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Unknown (kenmatsu)
2011-05-14 22:49:55
再度見て頂いて、どうもありがとうございます。
この先30年後、果たしてどうなってるんでしょうね。あちらこちらでかつて撮影した場所を見ていると、人が住まなくなって荒廃している家も都心部に結構あるのが気になります。

高層マンションの30年後というのもあんまり考えたくないような気もするし。

画像の追加は明日も作業して、なるはやで何とかしたいと思っています。
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本日お休み。 (kenmatsu)
2011-05-15 18:20:08
引き続きアップする予定でしたが、画像の追加をやっていたら一日にアップ出来る枚数を超えましたといわれてしまったので、今日はお休みです。

明日から再開しますので、是非ご覧下さい。
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懐かしい風景 (かん)
2012-12-28 15:01:32
西仲のHPからこちらにたどり着きました。

本当に佃も月島も様変わりしましたよね。たくさん懐かしい写真を拝見しました。
私は1970年代に佃1丁目に生まれて育ち、2006年に結婚で佃を離れたのですが、その後の数年でもこれだけの変化があったのはびっくりです。

『3月のライオン』という漫画で佃が舞台になっているのですが、佃のほうはあまり変化がないようで、少しほっとしています。(笑)
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ありがとうございます。 (kenmatsu)
2012-12-28 18:17:41
かん様
御覧頂いて、どうもありがとうございます。
70年年代のお生まれで、佃一丁目ということは、私がこの写真を撮って歩いていた頃に、すれ違っていたかも知れませんね。

月島は大分激しく変わっているようですが、佃が昔ながらなのは、足を運ぶとホッとする気持になります。
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はじめまして (路じうら小僧)
2013-01-20 04:56:40
佃、月島の昭和の写真が見たくて検索してたらこちらにたどり着きました。
60年代後半に生まれ、中学卒業まで居たのがこの地域。
昭和10年前後の建物がこれだけ残ってる町の凄さを子供の頃はそんなに分かっていなかった気がします。

今となっては月島2丁目のお写真はホント貴重ですね。
・白ばら美容室はピンポンダッシュして怒られた記憶が・・・
・この辺の路地を入ったところに模型屋があり、金が無いので兄から借りてガンバの冒険のプラモを購入。
・吉岡精米店の辺りでジャンボマシンダーや当時コーラの景品だったスターウォーズの
 R2-D2のラジオを見かけ羨ましがる

などなど70年代っぽい思い出が蘇りました。ありがとうございます^^。

しかし向かいの1丁目も同様にブロック事取り壊されて個人的にはとても複雑な気分です。
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ありがとうございます。 (kenmatsu)
2013-01-20 11:22:01
路じうら小僧様
御覧頂いて、どうもありがとうございます。
撮って歩いた町を大事に思ってらっしゃる方に、懐かしく見て頂けるのは何よりです。

防災面などから、行政も古い町を壊していく方向を向いているのは、残念な気がします。
思い出話を伺うと、その時代が甦るような記がします。
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Unknown (月島公方)
2020-05-28 10:33:31
昭和23年(1948)生まれ。新佃島(今は佃島の町名)に生まれ、4歳で月島の2号地(今は勝どき2丁目?)
に越し、19歳で埼玉に都落ち。
月島の生活は15年だったが、一番思い出が深く
今でもたまに行ったりする。小学校(月島第2小)は健在しているが、中学校は都市の過疎化で廃校(月島第2中)となった。でもまた高層住宅、あるいは晴海の建設ラッシュで、晴海中学(確か都立第3商跡地?)というものができたらしい。
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