東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

両国広小路~その二

2011-09-12 19:45:33 | 中央区
両国広小路、まずその成り立ちは前回ふれたが、明暦の大火で江戸の町が火事に見舞われたとき、両国橋はなかった。さらに、浅草橋御門が閉まっていたということで、多数の死者を生じることになってしまった。このことから幕府は隅田川に橋を架けることにしたわけである。

明暦の大火というのは、江戸の町の歴史上でも一つのターニングポイントであり、家康入府以来突貫工事で作り上げてきた江戸という町が、想定以上の速度で発展していったことに、ここで仕切り直しをして都市計画の練り直しが行われたタイミングともいえる。この火災が起きたのは、1657年のことで江戸時代でもまだ早い時期であった。この時期に町造りの基本を再考したことで、後々までの江戸の発展に繋がっていったと言う意味でも、大きな節目といえるのではないかと思う。
両国橋の架橋によって、それまでは下総の国であった川向こうは江戸市中の急速な拡大の受け皿となっていく。1686年に架橋から30年掛からずに本所、深川は江戸へと編入されることになる。
その一方で、火除地として橋の袂に設けられた広場は、露店や見せ物小屋などで賑わう場所になっていく。新興地として開けていった川向こうとの交通のジャンクションであったこともあるだろうし、水辺は都市生活者には憩いの場でもあったということもあるだろう。これは嘉永4年1851年の地図である。


維新後の様子を見ていくと、隅田川が水運の中でも大きな存在感を持っていたことが大きい。一銭蒸気と呼ばれた水上バスのような汽船も長く親しまれていたが、それだけではなく銚子や野田といった隅田川を遡上して河川によって繋がっている千葉との間を結ぶ船の乗り場なども、この両国橋の袂にあった。
そして、この広小路の有り様に大きな影響を及ぼしていたのが、両国橋という橋そのものであった。明治8年に掛けられた西洋風の木橋は、明治30年8月の花火の最中に欄干の崩落事故を起こし、多数の死傷者を出す惨事を起こしてしまう。これを契機に、鉄橋へと掛け替えようということになり、工事が始まった。そして、明治37年1904年に木橋よりも上流側に鉄の橋が完成することになる。まず、この時点で広小路は川向こうへ開いていた口を失うことになる。元々の広小路としての意味合いはこの時に失われた。明治37年に架橋された両国橋は市電を本所、深川へと延伸させた。この時に神田川と平行な町並だった元柳町の間を市電が通ることになり、道路の拡幅が行われたという。
また、明治40年の地図では橋がなくなったものの、広小路遺体は三角形の広場として明確な形を残しているのだが、明治44年の地図になるとその場所に公園が書かれている。


その時の橋の様子がこれである。


明治30年代の広小路の様子については、木村荘八の「定稿 両国界隈」に掲載された図を見るとよく分かる。木村荘八は、明治時代に我が国に於ける外食チェーンの嚆矢といえる「いろは牛肉店」の一つ、第八いろはで生まれた。「いろは牛肉店」は木村荘平という明治という時代らしい希代の人物によって運営されていた店であった。興味のある向きは、是非図書館でも荘八の全集の第七巻に収められているので、お読み頂ければと思う。町の詳細や、明治30年の欄干崩落事故についてなど、様々なことについて記されている。これを見ると、様々な店が並んでいた広小路の様子を偲ぶことが出来る。荘八の生家「第八いろは」は吉川町にあった。



さて、そしてこれが震災後の昭和12年の地図である。こうなってしまうと、元々どこがどこであったのか、それすら簡単には判別できない。


木村荘八自身も、震災後にはどこに自分の生家があったのか、現地に建ってみても皆目見当が付かないと書いている。この地図を比較するだけでも、頷かざるを得ない。 

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