さて、まだ目黒区が続くのだが、ここからは再び目黒と品川の関係性といった感じのコースになるので、分けてみることにした。訪問したのは、2015年1月のこと。東急東横線学芸大学駅がスタート地点になった。碑文谷公園を目指して行くのだが、途中には出桁造りの商家建築があった。碑文谷公園周辺は目黒が農村地帯だったことから、水源地として大事にされてきた歴史のあるところ。そんなゆかりもあるのだろうか?

学芸大学駅の方から近づいていくと、先に運動公園の側からアプローチすることになる。こちら側は2001年に目黒区に買収されたが、それ以前は第一勧業銀行のグラウンドであったそうだ。企業の福利厚生のための施設というのも、かつての時代の方が数多くあったのかもしれない。勿論、資産として持っていた側面もあるに違いないのだが、いまはそういった余力を削られる時代になっているのではないだろうか。

そして、碑文谷池がある。元々はこの辺りの地名から、「三谷の池」と呼ばれていたそうで、農村時代には今よりも大きな池であったという。やはり灌漑用水として、とても大事にされてきたそうだ。(Wikipediaより)

昭和18年に東横線の踏切事故で子供を亡くされた方が建立されたという延命地蔵尊。今は高架になり、東横線の踏切はなくなっている。(学芸大学駅周辺情報サイトより)

池の中央には島が築かれ、厳島神社が祀られている。

その参道。

手水舎。2004年に神社に放火され、ほぼ全焼してしまったそうだ。2006年に浄財を集めて再建されたのが今の社殿。

「この神社の創建は戦国時代(15、6世紀)と伝えられ、祭神は市杵嶋姫命で古来から水の神、火の神として振興されております。江戸時代に約250年間碑文谷を知行していた旗本神谷氏の信仰が厚く、1848年(嘉永元年)9月、十代神谷正庸氏(大夢)奉献の弁才天像が本殿に奉安されております。商売繁盛、子孫長久、病気平癒や開運、諸願成就の霊験あらたかで広く皆様に親しまれ信仰されています。
毎年、4月15日に例大祭を、12年に1度の巳年に大祭がとり行なわれます。
2003年(平成15年)1月吉日 厳島神社保存会建之」(案内板より)

弁天様が祀られているということで、弁天池とも呼ばれてきたのは、農村時代には正に命の水の供給源であったからといえるだろう。立会川の水源の一つである。

社殿の裏手には、大きな石灯籠が置かれている。古くから大事にされてきた証し。

訪問時には冬枯れの景色だったが、今は緑濃くなっていることだろう。水辺の心地良さが感じられる時期になってしまった。

碑文谷村の共有地であった水源地だが、昭和8年に永久に公園として整備していくことを条件に東京市に寄附され、碑文谷公園が開園した。昭和25年から目黒区の所管に移されている。

学芸大学駅の方から近づいていくと、先に運動公園の側からアプローチすることになる。こちら側は2001年に目黒区に買収されたが、それ以前は第一勧業銀行のグラウンドであったそうだ。企業の福利厚生のための施設というのも、かつての時代の方が数多くあったのかもしれない。勿論、資産として持っていた側面もあるに違いないのだが、いまはそういった余力を削られる時代になっているのではないだろうか。

そして、碑文谷池がある。元々はこの辺りの地名から、「三谷の池」と呼ばれていたそうで、農村時代には今よりも大きな池であったという。やはり灌漑用水として、とても大事にされてきたそうだ。(Wikipediaより)

昭和18年に東横線の踏切事故で子供を亡くされた方が建立されたという延命地蔵尊。今は高架になり、東横線の踏切はなくなっている。(学芸大学駅周辺情報サイトより)

池の中央には島が築かれ、厳島神社が祀られている。

その参道。

手水舎。2004年に神社に放火され、ほぼ全焼してしまったそうだ。2006年に浄財を集めて再建されたのが今の社殿。

「この神社の創建は戦国時代(15、6世紀)と伝えられ、祭神は市杵嶋姫命で古来から水の神、火の神として振興されております。江戸時代に約250年間碑文谷を知行していた旗本神谷氏の信仰が厚く、1848年(嘉永元年)9月、十代神谷正庸氏(大夢)奉献の弁才天像が本殿に奉安されております。商売繁盛、子孫長久、病気平癒や開運、諸願成就の霊験あらたかで広く皆様に親しまれ信仰されています。
毎年、4月15日に例大祭を、12年に1度の巳年に大祭がとり行なわれます。
2003年(平成15年)1月吉日 厳島神社保存会建之」(案内板より)

弁天様が祀られているということで、弁天池とも呼ばれてきたのは、農村時代には正に命の水の供給源であったからといえるだろう。立会川の水源の一つである。

社殿の裏手には、大きな石灯籠が置かれている。古くから大事にされてきた証し。

訪問時には冬枯れの景色だったが、今は緑濃くなっていることだろう。水辺の心地良さが感じられる時期になってしまった。

碑文谷村の共有地であった水源地だが、昭和8年に永久に公園として整備していくことを条件に東京市に寄附され、碑文谷公園が開園した。昭和25年から目黒区の所管に移されている。

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