九段下ビルは昭和2年に、関東大震災で焼失したこの地の商店主が集まり建設されることになったという。震災復興に当たって、こういった試みは他でもなされていたのかもしれないが、実現されたのはここだけであったらしい。それ故に、旧称を今川小路共同建築というのだ。
竣工以来84年の歳月をこの地で過ごしてきたのだが、とうとう消え去ることになってしまった。取り壊しを伝える新聞記事によれば、良質な川砂を使用したコンクリートだそうで、その品質自体には問題がないというのだが...。
裏手は住居部分への増築など、権利関係の複雑さを感じさせるように気儘な状態になっている。だが、今ではアトリエを主催されている方一人がおられるだけになっているという。
この上の部分が前回のエントリに掲載したたわしが並んでている作品のあったところ。
いつも思うのだが、九段下ビルは多くの人の記憶に残っていることだろうと思う。だけど、このビルが取り壊された跡に建つビルは、人の心に残るビルになるのだろうか?建てられて年月が過ぎたときにも、その佇まいに見入る人がいるようなビルになるのだろうか?ということだ。
近代建築に感じる最大の不満が、完成した瞬間が最高で時間が経過して使われるほどのに劣化していくものでしかないことだ。日本の伝統的な木造建築は勿論のこと、昭和初期までの建物の多くは、使われて手入れをされることでより完成度を高めていく建築物であるものが多い。時間を味方に付ける建築物がほとんど見られないことは、情けないことだと思う。
この閉店した喫茶店の跡には、45年間営業してきた店を閉める心情が書かれていた。今の東京では、心情はまるで乾いた砂にまかれた水のように吸い込まれていくのだろうか?
長い年月を感じさせる玄関先。神三町会員の標識にたばこ販売店の看板。
階段を上ると、外の光が柔らかい。ビルの外壁に掛けられたネットの影が悲しい。
ドアにはかつてここで営業していた会社の名前が残る。日交社という印刷関係の会社だったらしい。
スクラッチタイルは昭和初期の流行。看板建築の銅板張りも施行されていた時期は短い。
窓に無造作に付けられたクーラーも、今となっては年代物。
この84年間で一体どれほどの悲喜こもごもが、ここで演じられてきたのだろうか?
この三階で外に出てみると、まるでオフィス街然としてしまった今の神保町にいるとは思えないような気持になる。でも、その場ももう直ぐ消え去っていく。
階段は蛍光灯の光で照らし出され、火災報知器の赤いランプが鈍く光を放っている。
ムービーで撮ってノイズを乗せたら、結構恐そうなカットになるだろうと思ったが、現実はしんと静まっていた。
建具など、やはり古いものは手触りが柔らかく、心地良い。
まだ、年内12月26日まで内部を見ることが出来る。詳細はこちらから。興味のある向きは訪問されることをお勧めする。
竣工以来84年の歳月をこの地で過ごしてきたのだが、とうとう消え去ることになってしまった。取り壊しを伝える新聞記事によれば、良質な川砂を使用したコンクリートだそうで、その品質自体には問題がないというのだが...。
裏手は住居部分への増築など、権利関係の複雑さを感じさせるように気儘な状態になっている。だが、今ではアトリエを主催されている方一人がおられるだけになっているという。
この上の部分が前回のエントリに掲載したたわしが並んでている作品のあったところ。
いつも思うのだが、九段下ビルは多くの人の記憶に残っていることだろうと思う。だけど、このビルが取り壊された跡に建つビルは、人の心に残るビルになるのだろうか?建てられて年月が過ぎたときにも、その佇まいに見入る人がいるようなビルになるのだろうか?ということだ。
近代建築に感じる最大の不満が、完成した瞬間が最高で時間が経過して使われるほどのに劣化していくものでしかないことだ。日本の伝統的な木造建築は勿論のこと、昭和初期までの建物の多くは、使われて手入れをされることでより完成度を高めていく建築物であるものが多い。時間を味方に付ける建築物がほとんど見られないことは、情けないことだと思う。
この閉店した喫茶店の跡には、45年間営業してきた店を閉める心情が書かれていた。今の東京では、心情はまるで乾いた砂にまかれた水のように吸い込まれていくのだろうか?
長い年月を感じさせる玄関先。神三町会員の標識にたばこ販売店の看板。
階段を上ると、外の光が柔らかい。ビルの外壁に掛けられたネットの影が悲しい。
ドアにはかつてここで営業していた会社の名前が残る。日交社という印刷関係の会社だったらしい。
スクラッチタイルは昭和初期の流行。看板建築の銅板張りも施行されていた時期は短い。
窓に無造作に付けられたクーラーも、今となっては年代物。
この84年間で一体どれほどの悲喜こもごもが、ここで演じられてきたのだろうか?
この三階で外に出てみると、まるでオフィス街然としてしまった今の神保町にいるとは思えないような気持になる。でも、その場ももう直ぐ消え去っていく。
階段は蛍光灯の光で照らし出され、火災報知器の赤いランプが鈍く光を放っている。
ムービーで撮ってノイズを乗せたら、結構恐そうなカットになるだろうと思ったが、現実はしんと静まっていた。
建具など、やはり古いものは手触りが柔らかく、心地良い。
まだ、年内12月26日まで内部を見ることが出来る。詳細はこちらから。興味のある向きは訪問されることをお勧めする。
でも、本文中にも書きましたが、新しいビルの施主や設計者は、このビルをも凌ぐ、これから先の長い間、この町の顔になって、人々の思い出の縁となる様なビルを建てて貰いたいものだと思います。
安っぽいガラスと金属の固まりなどは見たくもないと思います。
神保町の靖国通りの北側については、1980年頃にはあまり撮影しておらず、今となっては悔やまれるばかりです。
ここに行かれたんです。
私の幼い頃はなぜかここをバックに写真を撮ることが多かった。
お正月も、七五三も、お誕生日も、我が家を出て靖国通りまで数十歩、目の前にはいつもこの景色。
そして写真を撮ってもらう。
もう無いのですね。
ふるさとが無くなる気がします。
ここに昔々「編み物教室」があり、まだ独身で若かったお年頃の私の叔母が通っていた。
たまに一緒に連れていかれ、毛糸であやとりをして待たされていたのを思い出した。
帰りに「まるか」の鍋焼きうどんを交換条件で。
そんな叔母も60代後半のたくましい母になりけり。