東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(43)永代寺門前

2013-05-24 22:19:18 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は富岡八幡宮の話。深川の神様であり、今も門前仲町という町の賑わいの中心に位置する神社である。そして、今は消えてしまった永代寺という寺のこと、伊能忠敬のこと、そして祭りの話と移っていく。

「深川八幡、正式の名は富岡八幡宮、草分けは永代嶋の別当、永代寺の長盛である。そこには徳川家康の江戸入城(天正十八年、一五九〇年)以来の海辺埋立ての歴史がきざまれている。いわば隅田川河口部に形成された江戸湊の、宗教文化のあらわれであった。承応二年(一六五三年)には永代寺に門前町かできた。そんな時間の流れをみつめると、葦の生い茂る海辺も、六、七十年で変化したということができる。
 永代嶋にはだれが建てたとも知れぬ小さな祠があった。土木工事に祈りをこめたものだったのであろうか。寛永年間、京都の公卿の出で菅原道真の子孫の憎長盛が、そこに先祖伝来の八幡神像をまつったといわれる。」

 現在の門前仲町辺りが、江戸開府以来の家康による埋め立ての成果として出来上がってきた土地であり、その工事の最中に祀られたであろう小さな祠が、富岡八幡宮のそもそもの起源ということのようだ。
 幕府による江戸の埋立地開発は、埋立地が出来ると寺を造り、参拝客が訪れるようにして土地を踏み固めさせて、というスタイルがあったようだ。霊岸島などは、寺はその後に移転している。

「永井荷風の深川随筆のひとつ「元八まん」では、砂村新田(いまの南砂)の富賀岡八幡宮の存在が強烈な印象をあたえている。『江戸名所花暦』の元八幡宮の項の「深川八幡宮、むかしこの処にありしを、寛永のころ、今の地に移しまつる」、『絵本江戸土産』にいう「富ケ岡八幡宮 この宮居、始めは砂村の海浜俚俗元八幡と唱ふる地にありしを、寛永のころ長盛法師といふもの示現によりてここに移す」といふ記述が信じられていたが、江東区の歴史研究者によると、元八幡を深川八幡の原型、八幡神像の旧地とすることは完全な誤まりだというのだ。その誤解のもとは、伊奈の家臣興津角左衛門寄進の八幡神像(弘法大師の作とつたえられる)が移動したことによる。はじめ深川におかれ、二躰になったため、のち砂村の八幡に移されている。それがまた深川にもどっている。八幡神像の一往復によってもたらされた、めずらしい伝聞であったらしい。再輿という言葉がどのようにうけとられたのか、という点についても興味がわいてくるのであった。」

 富岡八幡宮の起源について、こういった説があるということだけでも興味深いが、それが誤りであるという話が出てくるのもより面白い。八幡神像は、それにしても何故また深川に戻ったのだろうか。この一往復の裏側にどんな事情が隠されているのかということも、ドラマとして面白そうに思える。

「永代寺についても「社寺資料」の富岡八幡宮の項のうち、「永代寺畧縁起」「開山長盛」「武州深川大栄山永代寺九景詩並序」その他にくわしい。~中略~こちらの神体とは先祖よりつたわる弘法大師手造りの八幡大菩薩である。いずれにしても国家の安全、武門の繁栄を願っての八幡宮建立であった。八幡宮の別当となった長盛の住居には、京都仁和寺の末寺として永代寺の名を与えられた。」

 現在の門前仲町では、富岡八幡宮と並んで深川不動尊が目立っており、多くの参詣者を集めている。だが、深川不動尊は明治維新後に出来たもので、元々は辺り一帯が富岡八幡宮の別当であった永代寺の敷地であったところなのだという。
 私も深川不動尊の辺りには時々訪れることがあって、参道には美味しいものを売る店が軒を並べている。私の仕事の師が木場育ちで、この界隈のことを教えて貰った。そんな意味でも、私にとっては思い出深い町である。

 深川不動尊。


 明治29年に永代寺の名前を引き継いだ、吉祥院。深川不動尊の参道にひっそりと佇んでいる。


 永代寺の扁額が掛けられている。


「富岡といい、富賀岡という。富賀岡の名称は深川八幡にもあてはめられたことがあるし、「元八まん」もその名を冠している。元来おなじものであったと推察されるが、確固たる根拠はない。横浜市金沢区富岡町の富岡八幡宮の分霊をまつったことに由来するとの説もあるが、地名の語呂合せのようで、はなはだおぼつかない。しかし「社寺資料」の「富岡八幡宮」を読んでゆくと、「按ずるに」とあって「富岡の地名いまた古書には所見なし、何の頃よりか富賀岡富ケ岡なと書来し、今もとミかをかと唱へり」と書かれている。しかしその筆者は、深川に由来するのではないかと推論して、つぎのように書いているところがおもしろい。深川とは、この土地の開発者深川八郎右衛門にちなんだ地名である。
「或云、深字万葉訓には富加とかけり、富加岡ハ富加川岡の中略なるへし、富加の字訓たまたま吉祥なるにより、後人転してとミか岡と唱へ始めしならんと、此説牽強に似たれども他の地名をもて証するに、新堀を仮借して日暮里と書しに、後又転して日くらしの里なといふ類ひなれハ、その理なしとせず、古き地図によりて見れハ、次第に岡も広まりしさまなれハ、おそらくハ始めにもいふことく、深川の岡といふへきを、唱へもよからぬまゝに、後人改めてトミか岡といひしにあらすや」
 按ずるに、と言いながらもかなり説得力のある論旨である。宛て字からの転化、省略とか書きかえによる地名表記(なかには誤記、誤聞による表記の一般化もある)などは各地でよくみかけるが、深川が富賀岡、富岡になったのだとしたら、深川八幡という呼び方は、あながち俗称とばかりはいいきれない。」

 富岡という名称についての考察だが、面白い。こういった名称が転訛していく様というのも、時間が経過していくことでオリジナルの痕跡が消えていき、何故のその名が付いたのかが分からなくなっていくという辺り、あちらこちらでよくあるケースだろう。本文中の日暮里というのも、正にこの新堀から来ていることが今では想像することすら難しい。
 また、明治頃までは地名の漢字について、あまり厳密に正確な文字を決めてあるという意識が薄く、同じ地名に幾通りもの漢字が書かれていたりというのも、日本橋蛎殻町について調べた時にあったことが分かった。
 そういう視点から見れば、深川を富賀川岡とかいて、川が抜け落ちてしまい、読みもとみがおかに変わっていったというのは、ありそうな話に思える。あまり無理のない論理ではないだろうか。

「いま、その開祖長盛の永代寺の跡地は深川不動尊のにぎやかな参道の脇にあって、「富岡八幡宮別当永代寺跡」の碑は静かなたたずまいをみせている。あたりはひっそりとして、ほとんど人の訪う気配もない。永代寺は明治初年の神仏分離令によって、廃寺になった。二十九年、吉祥院に名称がひきつがれて今日にいたっている。(「社寺資料」には「吉祥院開山某元光明院と申人宝永之頃迄佳持仕候、後洲崎増福院開山之由申伝候」とある。)明治政府は神杜のなかの仏教的色彩を排除して、別当や社憎に還俗を命じている。あるいは神道に転向することを強制した。永代寺別当は初代長盛以来、十六代におよんでいたが、この時期の神道国教化政策のために、十六代周徹は富岡栄と改名して、富岡八幡宮の神官となった。永代寺は完全に歴史のなかに埋没してしまうのである。」

 明治の神仏分離令が、それまで神仏が一体となり、ある意味混沌を取り込んでいる華のようにやってきた我が国の宗教界に大きな衝撃をもたらし、仏教側が被った被害も極めて大きなものであった。富岡八幡宮が再興されたといわれる時から、別当として共に歩んできた永代寺がこうして姿を消してしまったわけで、残念な事だったと思う。神社と寺がセットになっているというのが、それまでのあり方で、日本的なスタイルであったと思う。

「富岡八幡宮と別当永代寺の所有地はかなり広大なものだった。六万五百八坪(約二十万平方メートル)と記録されている。当時の境内図をみても、歌川広重の描く「富ケ岡八幡宮境内全図」をみても、壮大なありさまがわかる。庭園もみごとなものだった。参詣人はあとをたたず、その風光は四季おりおりに江戸庶民の眼をたのしませてきた。江戸の寺社地の発展の歴史のなかでも、上野寛永寺、目黒不動堂、芝愛宕社とならんで、深川八幡宮は江戸鎮護の重要な拠点だったとおもわれる。」

 今日でも、深川不動尊の周囲には、深川公園が広々と存在している。門前仲町の建て込んだ町並からは意外なほどの広さだが、この敷地が全て永代寺のあった後であると思うと、どれほどのスケールの寺であったのかが想像できる。深川不動尊自体が、元々は江戸時代からの成田山の出開帳から始まったもので、永代寺の境内で行われていたという由来があるそうだ。その為、永代寺が廃寺になった後も、成田山にお参りしたいという要望に応えるために、その跡地の一部に出来たのが現在の深川不動尊ということになる。

深川公園に建つ日露戦争戦没者鎮魂碑。


「最近、伊能忠敬の『大日本沿海実測図伊能中図』の縮尺復刻版が刊行されたのを機会に、忠敬の深川生活を調べてみた。彼が黒江町四十六番地(いまの門前仲町一丁目のうち、伊能忠敬往居跡の碑がある)に住んだのは、寛政七年(一七九五年)から文化十一年(一八一四年)までの二十年間である。その全国測量事業は十次におよんだが、いくつかの日記にあたると、旅立ちのとき、彼は深川八幡への参詣を欠かさなかったことがわかる。
 黒江町というと、永代寺の西隣りに位置している。私たちの小学生のころ、伊能忠敬は国語教科書にとりあげられていた。担任の先生は等倍法による地図の模写を教えてくれて、地図を読むたのしみと旅へのあこがれをかきたててくれたのだが、そのとき、忠敬は黒亀橋のむこうに住んでいたと言われたのをかすかにおぼえている。学校は深川万年町にあったから、そこは目と鼻の先であった。」

 日本全国を測量のためにくまなく歩き、そして正確な地図を書き遺した伊能忠敬は、偉大な功績により敬意を払われている人物である。江戸時代という中世に、あれほどに正確な地図を書くことがどれほど大変な事であったのか、想像を絶するものがある。基本的に自らの足で行かなければならない旅を続け、全国を巡るということだけでも、今からは想像も付かないほどのことである。
 その過酷な旅に出る時に、深川八幡へ詣でていたということは、忠敬が無事に帰る度に、八幡様の霊験があらたかである、という評判を呼んだのではないかとすら思える。

富岡八幡宮境内には、伊能忠敬の像が建てられている。


「伊能忠敬が深川に住んだ寛政から文化のころというと、深川八幡・永代寺のもっとも繁栄した時代だった。十一代周勝恵純房(寛政六年寂)、十二代周有(文化七年寂)が別当職をうけついでいる。たびかさなる江戸の地震や大火をのりこえて、永代寺は発展をとげてきた。文化四年、富岡八幡宮祭礼のとき、参詣人・見物人の雑踏で永代橋崩落という惨事にみまわれている。そのような事件は起るべくして起こったのかもしれない。しかし深川八幡があればこそ、大川左岸の住人はもとより市中の人々は続々と八幡と永代寺にあつまってきたにちがいない。そんなとき、忠敬は八幡宮に敬慶な祈りをささげ、困難な旅から帰ってからも「一日の病もあらで無事に帰府しぬけるは誠に台命の辱と祖神の霊にあらずんば何すれぞ如何ならんと難有感じ得る」と書いた。」

 江戸時代には、隅田川に架かる橋はもちろん、木橋だった。そこに予想を超える人々が押し寄せることがあれば、当然危険な事態ということになる。当時の技術水準を思えば、老朽化に対しての備えというのも、今日とは違ったものであったと思われる。そういった不幸な偶然が重なれば、橋の崩落事故という悲劇が起きることになる。私は橋の崩落事故というと、明治30年に川開きの花火で賑わっていた両国橋での欄干の崩落事故を思い出す。明治30年の夏の宵の惨事で、今と違って夜の暗い時代であったわけでもあり、さぞや怖ろしいものであったろうと思う。永代橋の崩落は昼間だったようだが、その事故の恐ろしさの記憶として、古典落語にも「永代橋」というのがある。
 それにしても、この伊能忠敬と富岡八幡宮の取り上げ方というのも、著者の深川に対する郷土愛を感じさせる。

友岡八幡宮境内の忠敬像の直ぐ傍に設置されている三等三角点。これも忠敬に敬意を表してのもの。


「私が深川に住んでいたころの記憶に刻みつけられているのは、まず第一に夏の祭礼(本祭は三年に一度)であり、月々の定例の縁日であった。それはほんとうに楽しかった。戦争になると、大詔奉戴日の参拝とか出征軍人を送る行列がつらい思い出をよみがえらせる。
 各町内は大人の神輿と子供の神輿をもっていて、それぞれの分担がきめられる。山車もあった。それは幼児が綱をひき女の子も上に乗る。私がはじめにかついだのは子供神輿だった。襟と背中に町名を染めぬいた揃いのハッピを着、白足袋をはいて、ワヅショィ、ワッショィと掛け声をあげながら八幡さままで担いでいくが、そのみちみちの観衆の喝采がうれしくて、四辻などではときおり、神輿を上下に振りつづけたりする。その夜はぐったりと眠りこむのだった。
 やや大きくなると、軽量の子供神輿に飽きて、大人の伸間入りをしたくなる。こちらはちょっと荒っぽかった。見物人は若ものの熱気と汗をおもんばかって、冷水をかけてくれる。そのときの心地よい感触はいまだに忘れがたい。
~中略~
 本祭のときは、八幡宮の神官をのせた牛車の行列が出る。氏子の各町内をまわるが、一度、私の家のまえの四辻でしばらくのあいだ停止してしまったことがある。牛車の鉾先が電線にひっかかって、それを取りのぞくのに時間がかかったからであった。そんなとき、父はブロニー判のカメラをとりだして、二階で何枚かの写真を撮った。
 戦後しばらくたって(祭りが復活したころと記憶する)、私はもう一度、神輿をかつぎたくなり、祭礼の日にふるさとを訪ねたことがある。しかし知りあいの顔はどこにもみあたらなかった。そのため、神輿の仲間には入れずじまいだった。」

 やはり、大きな神社のある町の良さというのは、こういったお祭りの思い出があることだろう。古くからの東京旧市街であれば、神田明神か山王神社のどちらかの大祭には必ず参加できるし、地元の氏神様のお祭りもあって、地元意識を持ちやすいし、地元に対する愛着も湧きやすいのではないだろうか。深川なら富岡八幡宮という具合で、深川のお祭りは華やかであっただろうと思う。深川といえば、辰巳芸者であり、男勝りの気っ風の良さで知られたものだった。
 ブローニー判のカメラと言うのがお分かり頂けるだろうか?ライカ判という、パトローネに入った35mm幅のフィルムを使うのに対して、芯に裏紙と一緒に巻き付けたライカ判よりも大きなフィルムを使うのが、ブローニー判である。画面のサイズは、6X4.5、6X6、6X7、6X9などがある。単位はcmで、大きな画面サイズのカメラだが、ライカ判が普及する前には6X6の二眼レフはかなり普及していた。構造的にシンプルで、生産が容易であったことが大きいのだろうと思う。

「深川八幡の歴史をさぐっていて、少年のころのこんな情景をおもいおこしたが、門前仲町と富岡のにぎわいは、とりもなおさず永代寺門前町の形成によるものであろう。そこから文学が生まれ、芝居が生まれている。
  張りと意気地の深川や えにしもながき永代の 帰帆は
 いきな送り舟 なさけに身さへいりあひの きぬぎぬなら
 ぬやま鐘の・・・・・・
「巽八景」の一節がなんとなく思いうかぶのであった。」

 今まで、門前仲町に何度も行っていながら、深川不動尊や富岡八幡宮の町なのだと意識することはあっても、永代寺の門前町と思って見たことがなかった。ずっと昔から、深川不動尊があったかのように思えていたのだが、今の形になったのは明治になってからということを知って、今は幻になってしまった永代寺のことを思う。深川公園には、辺りが富岡八幡の境内であったという説明板があったが、永代寺の記述はなかった。別当ということで、いわば一体であったともいえるのだが。改めて、そう思って、地図を眺めても、周辺一帯を含めた広大な敷地の痕跡だけが、その面影を伝えている。


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1 コメント

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はじめまして (りひと)
2018-11-23 22:44:26
とてもその地に愛着のある方の大事な記事に思います。薄々感じていた事だったのですが永代寺はこの地にとても重要だった事もまた神仏がくっ付いている事が日本にとってもつい最近までの重要度だった事も改めて認識出来ましたよ。
その地に幼い頃から関わっているからこそ言える部分も愛情まで感じます。大変な事件があった事は仕方ないとしても今後に必ず役立つ記事になりそうですね。記事として残して頂き感謝です。
今後、違う場所の記事も拝見させて下さいね。ありがとうございました。6511
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