さて、続いては入船と湊の落ち穂拾いと続く。入船は最近この為に何度か歩いてみても、町に活気を感じない。湊も同様ではあるのだが...。かつてのこの町の姿を思いながら歩くから、余計にそう思うのかも知れないのだが。撮影日は、1981年9月30日、10月3日そして1982年1月29日。現在の画像は2011年5月31日撮影。
入船二丁目2番。前回も掲載した保坂医院の真正面からのカット。左側が奥まっていて、玄関になっている。プライベートスペースと言うことだろうか。それにしても、渋すぎる医院だった。今は隣の路地の側でも工事が始まっている。


入船二丁目6番。このカットは位置に確信が持てない。街路灯とマンホールくらいしか手掛かりがない。この近辺で撮影していることは間違いないのだが...。手前の家はかなり荒れていて、物干し台が崩れかけている。さらに手前の家も硝子が破れている。街灯の手前の家も硝子が破れている。まとめての開発の寸前という状況なのだろう。家の前の植物がどれもまだ元気に見えるのだが。


湊三丁目8番。ここは番地丸ごと高層マンションになってしまった区画。跡形もないので、手も足も出ないという印象。モルタル塗りの看板建築、木の引き戸も綺麗だった。


湊二丁目10番。これも前回掲載したが、正面からのカットを。一般印刷芙蓉堂という札が下げられている。震災復興期に再建された町だが、この家などは割と古い様式を踏襲しているように見える。そして、オリジナルな形態をよく保っている。


湊一丁目12番。この並びを見渡すカット。小さな町工場の並ぶ町並だった。奥は隅田川だが、空の抜けが心地良い。


湊一丁目12番。その並びの二軒目のアップ。間宮洋服店仮店舗と看板が出ている。この向かい側ではマンションの建設工事の最中だった。


湊一丁目13番。鉄砲洲の端に近い辺りの裏通り。看板建築の競演。左からミナト電子、水谷印刷と並ぶ。その右側の二階だけが左へ張り出している微妙さが面白い。


ここから後は、最近歩いた時に見掛けたものを。
湊二丁目4番。今は商売はされていない様子。でも、こんな風に歴史は残る。


なるべく撮影したカットは出しておきたいということで、落ち穂拾いを続けていこうと思う。改めて歩く事で、新しい発見をすることもある。
入船二丁目2番。前回も掲載した保坂医院の真正面からのカット。左側が奥まっていて、玄関になっている。プライベートスペースと言うことだろうか。それにしても、渋すぎる医院だった。今は隣の路地の側でも工事が始まっている。


入船二丁目6番。このカットは位置に確信が持てない。街路灯とマンホールくらいしか手掛かりがない。この近辺で撮影していることは間違いないのだが...。手前の家はかなり荒れていて、物干し台が崩れかけている。さらに手前の家も硝子が破れている。街灯の手前の家も硝子が破れている。まとめての開発の寸前という状況なのだろう。家の前の植物がどれもまだ元気に見えるのだが。


湊三丁目8番。ここは番地丸ごと高層マンションになってしまった区画。跡形もないので、手も足も出ないという印象。モルタル塗りの看板建築、木の引き戸も綺麗だった。


湊二丁目10番。これも前回掲載したが、正面からのカットを。一般印刷芙蓉堂という札が下げられている。震災復興期に再建された町だが、この家などは割と古い様式を踏襲しているように見える。そして、オリジナルな形態をよく保っている。


湊一丁目12番。この並びを見渡すカット。小さな町工場の並ぶ町並だった。奥は隅田川だが、空の抜けが心地良い。


湊一丁目12番。その並びの二軒目のアップ。間宮洋服店仮店舗と看板が出ている。この向かい側ではマンションの建設工事の最中だった。


湊一丁目13番。鉄砲洲の端に近い辺りの裏通り。看板建築の競演。左からミナト電子、水谷印刷と並ぶ。その右側の二階だけが左へ張り出している微妙さが面白い。


ここから後は、最近歩いた時に見掛けたものを。
湊二丁目4番。今は商売はされていない様子。でも、こんな風に歴史は残る。


なるべく撮影したカットは出しておきたいということで、落ち穂拾いを続けていこうと思う。改めて歩く事で、新しい発見をすることもある。
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