前回に引き続き、「日本橋魚河岸物語」尾村幸三郎著青蛙房刊を紹介してきたい。描かれている町の姿と本の内容を合わせてというのも、なかなか難しい。本の中身については、是非一読されることをお勧めしたい。都内の区立図書館ならば蔵書されている可能性が高い様に思う。
本書の内容は以下の通り。
日本橋魚河岸物語目次
序章 魚河岸小史
一、魚河岸誕生まで 二、魚問屋発生記 三、魚問屋発達の経路 四、魚河岸反抗伝 五、頼りになる魚河岸 六、魚河岸の近代化
第一章 魚河岸界隈
一、本小田原町 二、本船町 三、安針町、長浜町 四、納屋裏通り 五、ドブ板通り 六、わが魚河岸一族
第二章 魚河岸をとりまく町
一、瀬戸物町 二、室町 三、品川町 四、日本橋 五、四日市町 六、伊勢町
第三章 魚河岸の仕事
一、魚問屋、問屋兼仲買、仲買 二、小揚、軽子、荷捌所、荷扱所 三、潮待茶屋、買出し人 四、魚河岸の休み、講中 五、喧嘩用語、賭博連想 六、履物、計量、運送 七、帳簿と帳場さん
第四章 魚河岸歳時記
一、春の巻 二、夏の巻 三、秋の巻 四、冬の巻
第五章 魚河岸と俳句
上、元禄時代の巻 元禄文化~芭蕉の魚河岸入り~杉山杉風について~宝井其角
下、大正時代の巻 碧童と碧梧桐~碧童周辺~碧童の俳句~小泉迂外~迂外の俳句
第六章 尾寅年代記
一、大江戸風流名物くらべ 二、勘弥相続騒動と尾寅 三、河竹黙阿弥寸伝 四、奇人伝と隈なき影 五、愛猫太郎挿話 六、柳下亭種員と尾寅 七、黙阿弥逝去の日まで 八、黙阿弥の逝去と尾寅 九、尾寅の斜陽事態勃発
第七章 とういち会~幼き日われらここに学ぶ
第八章 魚河岸は消えた
一、震災前の魚河岸 二、魚河岸全焼 三、丸の内脱出記その他 四、魚河岸は消えた
終章 中央卸売市場開設まで
一、震災後の市場探し 二、芝浦臨時市場までの動き 三、芝浦臨時市場 四、市議会の市場問題討議 五、組合総会で開業決定 六、築地界隈の歴史 七、市場開設権をめぐって 八、中央市場開業・結語
日本橋魚河岸略年表
参考書目 あとがき
これを見て頂ければ、この本が日本橋魚河岸の歴史を網羅しており、その成り立ちから有り様までを俯瞰している書物であることが分かる。その一方で、この日本橋魚河岸で生まれ育った愛着を持って語られており、古き良き魚河岸と日本橋の様子を知る上では、好適な一冊だと思う。
維新の際に、魚河岸の衆に幕府より沙汰があって、官軍が江戸へ攻め入った際には戦う覚悟を決めていたという話などは、勝海舟と西郷隆盛による談判で無血開城となったので無事だったが、彰義隊が上野の山で無惨な戦死を遂げている辺りを思うと、万が一の事態になっていたら明治維新も相当違ったものになっていただろうと思わされる。
また、日本橋魚河岸時代には、大晦日に掛け取りに行く様などが詳しく書かれていて、商習慣の変化も併せて、大正の頃の商人のあり方なども興味深いところ。
さらには、「とういち会」というのは、常盤小学校の同窓の集いについて書かれた一節で、日本橋界隈が町として機能していた時代のよき人間関係の有り様とも言える。今となっては、登場人物の多くが鬼籍に入られていることと思うのだが、日本橋の魚河岸というものがとんでもない大昔の話ではなく、我々の祖父、曾祖父の時代まで存在して、その空気を知った人がつい最近までおられたものだということを改めて確かめた思いがした。
この本では、関東大震災に被災する様子。そして、そこから命からがら脱出して助かったことだけではなく、市場が再建に向けて移転派と非移転派に別れて混乱しながら、芝浦に仮市場が置かれ、その後に築地に移転していったことなど、今日に繋がる事柄の詳細も記されている。その中での経緯なども明快に書かれていて、やはり資料的な価値の高いものにもなっている。単なる綺麗事ではなく、その時に起きたことを冷徹に記録したことで、魚河岸の歩みの重みが増している。これからも豊洲への移転が進展していくのかもしれないが、その記録もこのように残していけるのだろうか。
ここからは、この本に描かれていた町の現在の姿を見て頂こうと思う。
といち会というのは、大正11年卒業ということから付けられた名だと、本書には書かれている。明治末の生まれの方が経験されてきたことをこうして形にされていることは、本当に貴重な記録になっている。そんな日本橋で暮らす人々の学舎であった中央区立常盤小学校。日本橋本石町四丁目4。

この小学校の設立は明治6年で、東京でも有数の歴史を持つ小学校である。本書の中でも、同じ中央区の泰明小学校、文京区立誠之小学校といった歴史ある小学校よりもさらに古い歴史を持つことが触れられている。校舎は、関東大震災後に建てられた復校建築。日本橋本石町四丁目4。

現在の生徒数は、平成21年のデータで139名とのこと。ほとんどの生徒が学区外から通学しているという。これも今の日本橋という町の姿だろう。日本橋本石町四丁目4。

震災復興で建てられた校舎は、復興小学校として東京都選定歴史的建造物に選ばれている。日本橋本石町四丁目4。

室町三丁目の交差点に近い一角の角に、店終いした小さな二階屋が蔦に絡まれている。日本橋室町三丁目4。

周囲は大きなビルになっており、一軒だけ取り残されているのが不自然なほどだが、この家も在りし日のこの町の姿を辛うじて伝えてくれている。江戸の中心であり、東京の中心地であったこの辺りも、人の暮らす息遣いのある町だった。日本橋室町三丁目4。

外壁にレンガを使った洒落た雰囲気の建物で、喫茶店だったのだろうか。数多くの人が一時の憩いを得たのだろう。日本橋室町三丁目4。

裏手に至るまで、建物の表面を蔦が覆っていて、元々の姿が次第に見えなくなっていく。日本橋室町三丁目4。

旧魚河岸エリアの中に建つ中華料理大勝軒。このお店は、大正十一年の震災前の地図にも同じ場所に「大勝」と書かれているのだが、関係があるのだろうか?以前、「ブラタモリ」の日本橋編で取材されていた。日本橋本町一丁目3。

見たところ、屋根裏部屋ではなく、三階建てになっているので、コンクリート造りの三階建てのように思える。壁面はタイル貼りになっているようだが、薄緑はあまり見掛けない。三階の窓は伝統的な虫篭窓になっていたり、和洋折衷で新旧混合といった風情なところが面白い。日本橋本町一丁目3。

屋上の縁にはスペイン瓦が使われており彩りを添えている。側面にタイルで「大勝軒」という屋号も入れられている。ネットで調べてみると、どうやらこの建物は昭和30年代のものらしい。日本橋本町一丁目3。

屋上にはペントハウスが見える。屋上の物干しへの上り口になっているのではなかろうか。日本橋本町一丁目3。

その角を挟んだ向かいが鳥問屋の鳥萬。このお店も震災後に開業されたお店らしい。モルタル仕上げの二階家。三階部分は屋根裏部屋という形になる。物干し台が屋上にある。日本橋本町一丁目4。

明かり取りの窓の具合が面白い。日本橋本町一丁目4。

この辺りには、震災復興期に建てられたらしい建物がまだ残されている。日本橋本町一丁目4。

こんないかにも個人商店の名残を感じる形の家もある。元は長屋だったのだろうが、切り取られてビルが建てられていく。日本橋本町一丁目5。

銀座も同様だが、日本橋も大通りに近いところは昭和の初めからビルが建てられていったのだろう。とはいえ、それは近代建築よりは人肌の暖かみをまだ残していた様にも思える。このビルは戦後のものだろうと思うが、辺りは再開発で高層ビルへの建て替えが進行している。日本橋という町の魅力を失わずにいて欲しい。日本橋本町二丁目1。
本書の内容は以下の通り。
日本橋魚河岸物語目次
序章 魚河岸小史
一、魚河岸誕生まで 二、魚問屋発生記 三、魚問屋発達の経路 四、魚河岸反抗伝 五、頼りになる魚河岸 六、魚河岸の近代化
第一章 魚河岸界隈
一、本小田原町 二、本船町 三、安針町、長浜町 四、納屋裏通り 五、ドブ板通り 六、わが魚河岸一族
第二章 魚河岸をとりまく町
一、瀬戸物町 二、室町 三、品川町 四、日本橋 五、四日市町 六、伊勢町
第三章 魚河岸の仕事
一、魚問屋、問屋兼仲買、仲買 二、小揚、軽子、荷捌所、荷扱所 三、潮待茶屋、買出し人 四、魚河岸の休み、講中 五、喧嘩用語、賭博連想 六、履物、計量、運送 七、帳簿と帳場さん
第四章 魚河岸歳時記
一、春の巻 二、夏の巻 三、秋の巻 四、冬の巻
第五章 魚河岸と俳句
上、元禄時代の巻 元禄文化~芭蕉の魚河岸入り~杉山杉風について~宝井其角
下、大正時代の巻 碧童と碧梧桐~碧童周辺~碧童の俳句~小泉迂外~迂外の俳句
第六章 尾寅年代記
一、大江戸風流名物くらべ 二、勘弥相続騒動と尾寅 三、河竹黙阿弥寸伝 四、奇人伝と隈なき影 五、愛猫太郎挿話 六、柳下亭種員と尾寅 七、黙阿弥逝去の日まで 八、黙阿弥の逝去と尾寅 九、尾寅の斜陽事態勃発
第七章 とういち会~幼き日われらここに学ぶ
第八章 魚河岸は消えた
一、震災前の魚河岸 二、魚河岸全焼 三、丸の内脱出記その他 四、魚河岸は消えた
終章 中央卸売市場開設まで
一、震災後の市場探し 二、芝浦臨時市場までの動き 三、芝浦臨時市場 四、市議会の市場問題討議 五、組合総会で開業決定 六、築地界隈の歴史 七、市場開設権をめぐって 八、中央市場開業・結語
日本橋魚河岸略年表
参考書目 あとがき
これを見て頂ければ、この本が日本橋魚河岸の歴史を網羅しており、その成り立ちから有り様までを俯瞰している書物であることが分かる。その一方で、この日本橋魚河岸で生まれ育った愛着を持って語られており、古き良き魚河岸と日本橋の様子を知る上では、好適な一冊だと思う。
維新の際に、魚河岸の衆に幕府より沙汰があって、官軍が江戸へ攻め入った際には戦う覚悟を決めていたという話などは、勝海舟と西郷隆盛による談判で無血開城となったので無事だったが、彰義隊が上野の山で無惨な戦死を遂げている辺りを思うと、万が一の事態になっていたら明治維新も相当違ったものになっていただろうと思わされる。
また、日本橋魚河岸時代には、大晦日に掛け取りに行く様などが詳しく書かれていて、商習慣の変化も併せて、大正の頃の商人のあり方なども興味深いところ。
さらには、「とういち会」というのは、常盤小学校の同窓の集いについて書かれた一節で、日本橋界隈が町として機能していた時代のよき人間関係の有り様とも言える。今となっては、登場人物の多くが鬼籍に入られていることと思うのだが、日本橋の魚河岸というものがとんでもない大昔の話ではなく、我々の祖父、曾祖父の時代まで存在して、その空気を知った人がつい最近までおられたものだということを改めて確かめた思いがした。
この本では、関東大震災に被災する様子。そして、そこから命からがら脱出して助かったことだけではなく、市場が再建に向けて移転派と非移転派に別れて混乱しながら、芝浦に仮市場が置かれ、その後に築地に移転していったことなど、今日に繋がる事柄の詳細も記されている。その中での経緯なども明快に書かれていて、やはり資料的な価値の高いものにもなっている。単なる綺麗事ではなく、その時に起きたことを冷徹に記録したことで、魚河岸の歩みの重みが増している。これからも豊洲への移転が進展していくのかもしれないが、その記録もこのように残していけるのだろうか。
ここからは、この本に描かれていた町の現在の姿を見て頂こうと思う。
といち会というのは、大正11年卒業ということから付けられた名だと、本書には書かれている。明治末の生まれの方が経験されてきたことをこうして形にされていることは、本当に貴重な記録になっている。そんな日本橋で暮らす人々の学舎であった中央区立常盤小学校。日本橋本石町四丁目4。

この小学校の設立は明治6年で、東京でも有数の歴史を持つ小学校である。本書の中でも、同じ中央区の泰明小学校、文京区立誠之小学校といった歴史ある小学校よりもさらに古い歴史を持つことが触れられている。校舎は、関東大震災後に建てられた復校建築。日本橋本石町四丁目4。

現在の生徒数は、平成21年のデータで139名とのこと。ほとんどの生徒が学区外から通学しているという。これも今の日本橋という町の姿だろう。日本橋本石町四丁目4。

震災復興で建てられた校舎は、復興小学校として東京都選定歴史的建造物に選ばれている。日本橋本石町四丁目4。

室町三丁目の交差点に近い一角の角に、店終いした小さな二階屋が蔦に絡まれている。日本橋室町三丁目4。

周囲は大きなビルになっており、一軒だけ取り残されているのが不自然なほどだが、この家も在りし日のこの町の姿を辛うじて伝えてくれている。江戸の中心であり、東京の中心地であったこの辺りも、人の暮らす息遣いのある町だった。日本橋室町三丁目4。

外壁にレンガを使った洒落た雰囲気の建物で、喫茶店だったのだろうか。数多くの人が一時の憩いを得たのだろう。日本橋室町三丁目4。

裏手に至るまで、建物の表面を蔦が覆っていて、元々の姿が次第に見えなくなっていく。日本橋室町三丁目4。

旧魚河岸エリアの中に建つ中華料理大勝軒。このお店は、大正十一年の震災前の地図にも同じ場所に「大勝」と書かれているのだが、関係があるのだろうか?以前、「ブラタモリ」の日本橋編で取材されていた。日本橋本町一丁目3。

見たところ、屋根裏部屋ではなく、三階建てになっているので、コンクリート造りの三階建てのように思える。壁面はタイル貼りになっているようだが、薄緑はあまり見掛けない。三階の窓は伝統的な虫篭窓になっていたり、和洋折衷で新旧混合といった風情なところが面白い。日本橋本町一丁目3。

屋上の縁にはスペイン瓦が使われており彩りを添えている。側面にタイルで「大勝軒」という屋号も入れられている。ネットで調べてみると、どうやらこの建物は昭和30年代のものらしい。日本橋本町一丁目3。

屋上にはペントハウスが見える。屋上の物干しへの上り口になっているのではなかろうか。日本橋本町一丁目3。

その角を挟んだ向かいが鳥問屋の鳥萬。このお店も震災後に開業されたお店らしい。モルタル仕上げの二階家。三階部分は屋根裏部屋という形になる。物干し台が屋上にある。日本橋本町一丁目4。

明かり取りの窓の具合が面白い。日本橋本町一丁目4。

この辺りには、震災復興期に建てられたらしい建物がまだ残されている。日本橋本町一丁目4。

こんないかにも個人商店の名残を感じる形の家もある。元は長屋だったのだろうが、切り取られてビルが建てられていく。日本橋本町一丁目5。

銀座も同様だが、日本橋も大通りに近いところは昭和の初めからビルが建てられていったのだろう。とはいえ、それは近代建築よりは人肌の暖かみをまだ残していた様にも思える。このビルは戦後のものだろうと思うが、辺りは再開発で高層ビルへの建て替えが進行している。日本橋という町の魅力を失わずにいて欲しい。日本橋本町二丁目1。

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