「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。やや重い内容の戦時中の話から、木場へと話題は移っていく。その名は知られていても、今では町中からその面影が姿を消しており、さらには国内で消費される木材が輸入材に圧倒されるような状況になってしまい、木場の旦那衆にとっても勝手の違う時代になっているのではないだろうか。今は移転先の新木場でも、貯木場に材木が溢れるようなというわけではないようだ。
「深川といえば木場。木場といえば、貯木場の丸太に乗って巧みに長かぎをあやつる川並たちや、彼らのうたう木遣り唄をおもいおこす。そして道路の両側いっぱいに加工材を建てかけた、どこまでもつづくあのリンガケの風景がうかんでくる。そこでは掘割の水と木と人間が不思議なほどに融けあっていて、町全体から材木の独特な香りをかもしだしていた。
行政区画のうえでの木場は、かつての木場町、島田町、入船町、鶴歩町、茂森町、扇町、平久町が合併して成り立っているが、私にはその周辺の材木商をふくむ、かなり広汎な地域が木場であった。小学校のとなりの冬木町も、仙台堀川の北の平野町、三好町、元加賀町も、大横川の東の千石町も、さらに東陽町の一部までもがその地つづきにおもえた。ほんとうにどこまで行っても材木屋ばかりである。私は子供のころから、三菱系の清住製材所(いまは清澄公園)の風景になじんできたのだが、仙台堀川筋の友人の家へ遊びに行くと、また別の世界をみるような気がした。家業を継いだ友人たちは、いまは新木場の仕事場に通勤するようになった。しかし昔の香りはのこっている、親からうげついだ職人気質もかわっていないようである。」
私は東京生まれで東京育ちだが、板橋で生まれ育ち、学校も文京区であったり、港区であったり、台地の上から神田、丸の内、銀座というラインには馴染み深いが、旧市街からの下町には疎い。まして、隅田川を越えた深川というのは、なかなか馴染みのない町だった。私に仕事上の師匠は、疎開先の茨城で生まれたそうだが、元々が木場の人であった。そんなところから、門前仲町辺りの良さを教えて貰い、初めて深川という町を知るようになった。
そして、一方では母親の幼馴染みで家族ぐるみで長い付き合いのある女性が、どこか気質が下町風で面白いと思っていたところ、彼女の父親が木場の材木商であったことを教えられたこともあった。永らく、深川や木場に縁があるとは知らなかったのだが、ある時に深川不動前の煎餅をお土産に持っていた時に、深川の文字を見て懐かしがって教えてくれたことがあった。
そんな風だから、かつての水面がそこいら中にあった木場は勿論のこと知らない。仕事の師匠からは、中学生の頃に近道をして帰ろうと、水に浮いた丸太の上をぴょんぴょんと渡っていて、丸太がクルッと回って水に落ちたことがあるという話を聞かされた。そんな時に、沢山丸太が並べて浮かべてあると、水に落ちた自分が浮かび上がるスペースが無くなってしまうことがあるので、非常に危険なものだったということも聞いた。それでも、また懲りもせずに丸太を渡っていったものだと話してくれた。
深川を歩くと、かつては材木屋であったと思われるような建物が残されている。次第に数を減らしてマンションになってしまったりするので、やがては遠い昔の話になってしまうのだろう。冬木8。

「木場の香りには三百年余の歴史かこめられている。太田道灌のつくった江戸城が徳川氏の居城となってから、城の修築、拡張、あたらしい町づくりが急速におこなわれた。そこで、主要な役割をになったのが材木商人たちであった。慶長年間、江戸城大手前の八代洲河岸につくられたのが木場の濫膓といわれるが、神田川筋や日本橋の楓川筋その他の場所に材木河岸、材木町の名がのこっていたように、建築資材供給の仕事場は各地にひろまっている。明暦三年(ニハ五七年)一月の江戸大火のあと、幕府の命令で隅田川東岸にあつめられたというが、そもそもは火災の類焼と貴重な資材の焼失をおそれたためであろう。」
徳川氏の江戸城の建設資材は、鎌倉河岸が陸揚げ場所として著名である。現在は鎌倉橋にその名を残しているが、伊豆など石の切り出し地や材木などは、一度鎌倉に集積されて、そこから運ばれてきたという。鎌倉の材木座という地名は、そういった歴史を持っている。そして、その鎌倉からの荷を揚げるところだったので、鎌倉河岸の名が付けられた。そして、そこに鎌倉から呼び寄せられた材木商が店を構えていた。その店は今日まで代々続いており、関東大震災後に建てられた蔵造りの家は、「神田の家」として、神田明神となりに移築され保存されている。この家の歴史は、江戸の町の歴史と言える。
仙台堀川の末広橋より西側を望んだ景色。

「畑市次郎の『東京災害史』(昭和二十七年、都政通信社)には、その歴史的な概観とともに消防と防火対策、治水対策、そして疫病、飢鐘、戦災などが記されているが、おわりのほうにつぎの一節がある。
「江戸の一般市民はもとより、文化十一年に出た小川顕道の『塵塚談』にも『春夏秋冬一日として火事なき日はなし。冬春は一日に三四ケ所もある日あり』と誇称しているなど、火災の防止を不可能なものとし、江戸に住む以上は、甘受せねぼならぬ宿命かのように諦観していた感さえ抱かせる。
市街のほとんどが焦土と化し、その災害におのゝいても、忽ち自力で更生する。江戸市民の一種楽天的な気質は、いくたびか火事にあってこそ鍛えられたものであろう。この諦観主義は、一方では『宵ごしの金は使わぬ』『財を積んでも甲斐なし』という考えを植えつけさせ、享楽的なものへの関心をたかめると共に、都市生活を楽しむのを自慢にするようにしたともいえる。火災のあとなどすぐに、皮肉ではあるがどこか明るさのある落首のはやったのも、悲惨な現実を茶化すだけの心のゆとりがあったからである。その生活力の強さは、幕府当局さえ驚くほどで、江戸っ子気質の長所でもあった。」
そこで彼は武士階級への諷刺と皮肉をこめた落首、狂歌をとりだしている。そのなかに「安政二年十月二日地震出火後日角力」というものを紹介している。災害によって富を得たものと一時休業になったものの相撲番附見立てである。
大まうけの方 大おあいだの方
大関(ざいもく)材木問屋 大関(しばい)三町休座
関脇(存命)諸方仮宅 関脇(焼死)花街煙中
小結(あみもの)苫縄菰莚 小結(小間物)鼈甲蒔絵
前頭(どかた)土方請負 前頭(ぜいたく)賛沢諸品
同(御救)貧家潤沢 同(施し)持丸長者
同(延金)証文寄日 同(官金)日為高利
同(かりだて)板葺平屋 同(本建)本建造作
同(名ぐら)骨継治療 同(御無用)御免勧化
同(つぶし)古銅古鉄 同(上品)象牙銀錺
同(つみぶね)運送通船 同(ふね)家根猪牙
同(めんるい)古着綿類 同(にしき)京機織物
同(てがる)立場焚木 同(本しき)会席料理
同(ふる木)湯屋焚木 同(こっぽ)唐木細工
差添(大儲)家作職人 勧進元(大休)遊芸諸流
安政二年(一八五五年)の大地震というと、小石川の水戸藩邸で藤田東湖、戸田蓬軒が圧死した事件として記憶される。いわゆる直下型の地震で、江戸市中は漬滅、ことに深川・本所・下谷・浅草の被害がはなはだしかった。死者は武家・町方、あわせて七千人から一万人にのぼると推定されている。前年の十一月から日本列島は無気味な地震におそわれていて、東海道(震源は遠州灘)、南海道(震源は土佐沖)にも大きな被害をあたえたが、江戸にきて最大の惨状をみせる結果となった。」
火事と喧嘩は江戸の華と言われてきただけに、凄まじい頻度で江戸の町は火災に襲われている。そして、当時の木造家屋は呆気なく焼けていく訳である。その有様からの話になっているのだが、この安政の地震というのは、本当に凄まじいものであった様だ。というのも、上記の通りに東海道、南海道とさらに江戸という三つの巨大地震が相次いで起きた、昨今話題になっている巨大地震の連動が現実になっていたものだからなのだ。さらには、黒船が来航して、開国を迫られている最中でのことでもあった。正に社会不安という状況の中で、安政の大獄という恐怖政治での弾圧、そして桜田門外の変での井伊直弼暗殺というテロを呼び、維新の動乱へと大きく時代が転換していく、その契機とも言える様な災害だった。
明治以降も火災は起きていて、明治になったばかりの時期に銀座で起きた火災の復興策として煉瓦街が建設されていたり、神田の火災の後に火除け地に鎮火社が祀られ、そこを人々が秋葉様と呼び習わして、秋葉原という俗名が出来上がっていったり、その後の東京に残るような出来事の契機になったりもしている。それでも、その後に関東大震災によって全てが焼き尽くされてしまうということは、江戸、東京の歴史の中でも大きな打撃であったと言えるだろう。
仙台堀川に架かる亀久橋に近い辺りにて。冬木20。

「折口信夫は震災後の木場の情景をつぎのようにうたったことがあった。第二歌集『春のことぶれ』(昭和五年、梓書房)におさめられた「東京詠物集」冒頭の四首である。
木場
木場の水
わたればきしむ 橋いくつ。
こえて 来にしを
いづこか 行かむ
橋づめの木納屋の 木挽き
音 やめよ。
大鋸の粉 光る
風のつめたさ
冬木
燈ともさぬ弁財天女堂
庭白し
近みちししつつ
人行き とほる
深川の 冬木の池に、
青みどろ 浮きてひそけき
このゆふべなり
木場をおもうたびにおもいおこす歌である。」
往時の木場の情景が浮かび上がってくるような歌だ。昭和30年代までの深川の地図を見れば、現在とはまるで違う様相に驚かされる。まるで、陸地よりも水色に塗られた部分の方が多いのではないかと思われるほどに、水路と貯木場は深川の多くの部分を占めていた。今ではそのほとんどが埋め立てられてしまい、材木商は新木場へと移って行ってしまったので、なかなか往時の雰囲気をと思っても、見出すことが難しい。
歌にも出てきている冬木に今も残る材木商。冬木16。

「昨年の秋、私は友人の紹介で新木場に木材商工協同組合理事長の佐藤正徳氏を訪ねたことがある。加藤昌志氏の『深川の木場郷愁の下町』という写真集(昭和五十六年)のなかに「木場今昔」という座談会があり、木場の古老にまじって語っておられたので、その本を持って行ったところ、はじめの話題は、御自身が育ち、いまなお住んでいるかつての島田町(現在、木場二丁目あたり)のことであった。そこは四方を堀にかこまれた真四角の島のような町であった。
「橋といえば僕のうちの堀に鹿島橋というのがあったでしょう。この橋の名前をつける時、丁度黒田さんが店をやめて、黒田橋だけが残った。そこで区役所が、うちの橋を佐藤橋にするかと言って来たが、うちの親父が黒田さんのところのように、橋の名前だけ残っちゃったんじゃ具合が悪いから、鹿島建設、当時は鹿島組といっていましたが、鹿島さんがここで一番大屋敷だから、鹿島橋ってつけるのが一番いいだろうてんで、鹿島橋という名をつけたんです。おれんところもいつつぶれるかわからねえから、佐藤橋なんてつけて、それだけ残ったんじゃかなわねえ、というわけで」
座談会にはこんな一節があったが、橋に個人の名をつけるのは、いかにも木場らしい話である。しかしその鹿島橋もなくなってしまった。佐藤氏は橋名板をはずして鹿島家にとどけたところ、感謝状を贈られたというが、そこから回想されるのは明治十年代からこの島に大邸宅を築き、関東大震災で焼失するまで、木場に根をおろした鹿島家の話であった。」
木場二丁目辺りというのは、埋め立ての変化の大きかったところでもある。そこで、めぐっていた堀に架かる橋の名に個人の名を付けたというのは、あまり他では聞かない話だろうと思う。そして、そこに鹿島建設の鹿島家が登場してくる。この話は次回へと続くので、ここではあまり触れないでおく。とはいえ、その鹿島の名が付けられた橋も、今ではなくなってしまっているわけで、震災や戦災ばかりではなく、大きな変化に見舞われた町であることが分かる。
かつては水路であったところも、今は埋め立てられ、中には公園になっているところもある。これは福富川公園というところ。平野三丁目3。
「深川といえば木場。木場といえば、貯木場の丸太に乗って巧みに長かぎをあやつる川並たちや、彼らのうたう木遣り唄をおもいおこす。そして道路の両側いっぱいに加工材を建てかけた、どこまでもつづくあのリンガケの風景がうかんでくる。そこでは掘割の水と木と人間が不思議なほどに融けあっていて、町全体から材木の独特な香りをかもしだしていた。
行政区画のうえでの木場は、かつての木場町、島田町、入船町、鶴歩町、茂森町、扇町、平久町が合併して成り立っているが、私にはその周辺の材木商をふくむ、かなり広汎な地域が木場であった。小学校のとなりの冬木町も、仙台堀川の北の平野町、三好町、元加賀町も、大横川の東の千石町も、さらに東陽町の一部までもがその地つづきにおもえた。ほんとうにどこまで行っても材木屋ばかりである。私は子供のころから、三菱系の清住製材所(いまは清澄公園)の風景になじんできたのだが、仙台堀川筋の友人の家へ遊びに行くと、また別の世界をみるような気がした。家業を継いだ友人たちは、いまは新木場の仕事場に通勤するようになった。しかし昔の香りはのこっている、親からうげついだ職人気質もかわっていないようである。」
私は東京生まれで東京育ちだが、板橋で生まれ育ち、学校も文京区であったり、港区であったり、台地の上から神田、丸の内、銀座というラインには馴染み深いが、旧市街からの下町には疎い。まして、隅田川を越えた深川というのは、なかなか馴染みのない町だった。私に仕事上の師匠は、疎開先の茨城で生まれたそうだが、元々が木場の人であった。そんなところから、門前仲町辺りの良さを教えて貰い、初めて深川という町を知るようになった。
そして、一方では母親の幼馴染みで家族ぐるみで長い付き合いのある女性が、どこか気質が下町風で面白いと思っていたところ、彼女の父親が木場の材木商であったことを教えられたこともあった。永らく、深川や木場に縁があるとは知らなかったのだが、ある時に深川不動前の煎餅をお土産に持っていた時に、深川の文字を見て懐かしがって教えてくれたことがあった。
そんな風だから、かつての水面がそこいら中にあった木場は勿論のこと知らない。仕事の師匠からは、中学生の頃に近道をして帰ろうと、水に浮いた丸太の上をぴょんぴょんと渡っていて、丸太がクルッと回って水に落ちたことがあるという話を聞かされた。そんな時に、沢山丸太が並べて浮かべてあると、水に落ちた自分が浮かび上がるスペースが無くなってしまうことがあるので、非常に危険なものだったということも聞いた。それでも、また懲りもせずに丸太を渡っていったものだと話してくれた。
深川を歩くと、かつては材木屋であったと思われるような建物が残されている。次第に数を減らしてマンションになってしまったりするので、やがては遠い昔の話になってしまうのだろう。冬木8。

「木場の香りには三百年余の歴史かこめられている。太田道灌のつくった江戸城が徳川氏の居城となってから、城の修築、拡張、あたらしい町づくりが急速におこなわれた。そこで、主要な役割をになったのが材木商人たちであった。慶長年間、江戸城大手前の八代洲河岸につくられたのが木場の濫膓といわれるが、神田川筋や日本橋の楓川筋その他の場所に材木河岸、材木町の名がのこっていたように、建築資材供給の仕事場は各地にひろまっている。明暦三年(ニハ五七年)一月の江戸大火のあと、幕府の命令で隅田川東岸にあつめられたというが、そもそもは火災の類焼と貴重な資材の焼失をおそれたためであろう。」
徳川氏の江戸城の建設資材は、鎌倉河岸が陸揚げ場所として著名である。現在は鎌倉橋にその名を残しているが、伊豆など石の切り出し地や材木などは、一度鎌倉に集積されて、そこから運ばれてきたという。鎌倉の材木座という地名は、そういった歴史を持っている。そして、その鎌倉からの荷を揚げるところだったので、鎌倉河岸の名が付けられた。そして、そこに鎌倉から呼び寄せられた材木商が店を構えていた。その店は今日まで代々続いており、関東大震災後に建てられた蔵造りの家は、「神田の家」として、神田明神となりに移築され保存されている。この家の歴史は、江戸の町の歴史と言える。
仙台堀川の末広橋より西側を望んだ景色。

「畑市次郎の『東京災害史』(昭和二十七年、都政通信社)には、その歴史的な概観とともに消防と防火対策、治水対策、そして疫病、飢鐘、戦災などが記されているが、おわりのほうにつぎの一節がある。
「江戸の一般市民はもとより、文化十一年に出た小川顕道の『塵塚談』にも『春夏秋冬一日として火事なき日はなし。冬春は一日に三四ケ所もある日あり』と誇称しているなど、火災の防止を不可能なものとし、江戸に住む以上は、甘受せねぼならぬ宿命かのように諦観していた感さえ抱かせる。
市街のほとんどが焦土と化し、その災害におのゝいても、忽ち自力で更生する。江戸市民の一種楽天的な気質は、いくたびか火事にあってこそ鍛えられたものであろう。この諦観主義は、一方では『宵ごしの金は使わぬ』『財を積んでも甲斐なし』という考えを植えつけさせ、享楽的なものへの関心をたかめると共に、都市生活を楽しむのを自慢にするようにしたともいえる。火災のあとなどすぐに、皮肉ではあるがどこか明るさのある落首のはやったのも、悲惨な現実を茶化すだけの心のゆとりがあったからである。その生活力の強さは、幕府当局さえ驚くほどで、江戸っ子気質の長所でもあった。」
そこで彼は武士階級への諷刺と皮肉をこめた落首、狂歌をとりだしている。そのなかに「安政二年十月二日地震出火後日角力」というものを紹介している。災害によって富を得たものと一時休業になったものの相撲番附見立てである。
大まうけの方 大おあいだの方
大関(ざいもく)材木問屋 大関(しばい)三町休座
関脇(存命)諸方仮宅 関脇(焼死)花街煙中
小結(あみもの)苫縄菰莚 小結(小間物)鼈甲蒔絵
前頭(どかた)土方請負 前頭(ぜいたく)賛沢諸品
同(御救)貧家潤沢 同(施し)持丸長者
同(延金)証文寄日 同(官金)日為高利
同(かりだて)板葺平屋 同(本建)本建造作
同(名ぐら)骨継治療 同(御無用)御免勧化
同(つぶし)古銅古鉄 同(上品)象牙銀錺
同(つみぶね)運送通船 同(ふね)家根猪牙
同(めんるい)古着綿類 同(にしき)京機織物
同(てがる)立場焚木 同(本しき)会席料理
同(ふる木)湯屋焚木 同(こっぽ)唐木細工
差添(大儲)家作職人 勧進元(大休)遊芸諸流
安政二年(一八五五年)の大地震というと、小石川の水戸藩邸で藤田東湖、戸田蓬軒が圧死した事件として記憶される。いわゆる直下型の地震で、江戸市中は漬滅、ことに深川・本所・下谷・浅草の被害がはなはだしかった。死者は武家・町方、あわせて七千人から一万人にのぼると推定されている。前年の十一月から日本列島は無気味な地震におそわれていて、東海道(震源は遠州灘)、南海道(震源は土佐沖)にも大きな被害をあたえたが、江戸にきて最大の惨状をみせる結果となった。」
火事と喧嘩は江戸の華と言われてきただけに、凄まじい頻度で江戸の町は火災に襲われている。そして、当時の木造家屋は呆気なく焼けていく訳である。その有様からの話になっているのだが、この安政の地震というのは、本当に凄まじいものであった様だ。というのも、上記の通りに東海道、南海道とさらに江戸という三つの巨大地震が相次いで起きた、昨今話題になっている巨大地震の連動が現実になっていたものだからなのだ。さらには、黒船が来航して、開国を迫られている最中でのことでもあった。正に社会不安という状況の中で、安政の大獄という恐怖政治での弾圧、そして桜田門外の変での井伊直弼暗殺というテロを呼び、維新の動乱へと大きく時代が転換していく、その契機とも言える様な災害だった。
明治以降も火災は起きていて、明治になったばかりの時期に銀座で起きた火災の復興策として煉瓦街が建設されていたり、神田の火災の後に火除け地に鎮火社が祀られ、そこを人々が秋葉様と呼び習わして、秋葉原という俗名が出来上がっていったり、その後の東京に残るような出来事の契機になったりもしている。それでも、その後に関東大震災によって全てが焼き尽くされてしまうということは、江戸、東京の歴史の中でも大きな打撃であったと言えるだろう。
仙台堀川に架かる亀久橋に近い辺りにて。冬木20。

「折口信夫は震災後の木場の情景をつぎのようにうたったことがあった。第二歌集『春のことぶれ』(昭和五年、梓書房)におさめられた「東京詠物集」冒頭の四首である。
木場
木場の水
わたればきしむ 橋いくつ。
こえて 来にしを
いづこか 行かむ
橋づめの木納屋の 木挽き
音 やめよ。
大鋸の粉 光る
風のつめたさ
冬木
燈ともさぬ弁財天女堂
庭白し
近みちししつつ
人行き とほる
深川の 冬木の池に、
青みどろ 浮きてひそけき
このゆふべなり
木場をおもうたびにおもいおこす歌である。」
往時の木場の情景が浮かび上がってくるような歌だ。昭和30年代までの深川の地図を見れば、現在とはまるで違う様相に驚かされる。まるで、陸地よりも水色に塗られた部分の方が多いのではないかと思われるほどに、水路と貯木場は深川の多くの部分を占めていた。今ではそのほとんどが埋め立てられてしまい、材木商は新木場へと移って行ってしまったので、なかなか往時の雰囲気をと思っても、見出すことが難しい。
歌にも出てきている冬木に今も残る材木商。冬木16。

「昨年の秋、私は友人の紹介で新木場に木材商工協同組合理事長の佐藤正徳氏を訪ねたことがある。加藤昌志氏の『深川の木場郷愁の下町』という写真集(昭和五十六年)のなかに「木場今昔」という座談会があり、木場の古老にまじって語っておられたので、その本を持って行ったところ、はじめの話題は、御自身が育ち、いまなお住んでいるかつての島田町(現在、木場二丁目あたり)のことであった。そこは四方を堀にかこまれた真四角の島のような町であった。
「橋といえば僕のうちの堀に鹿島橋というのがあったでしょう。この橋の名前をつける時、丁度黒田さんが店をやめて、黒田橋だけが残った。そこで区役所が、うちの橋を佐藤橋にするかと言って来たが、うちの親父が黒田さんのところのように、橋の名前だけ残っちゃったんじゃ具合が悪いから、鹿島建設、当時は鹿島組といっていましたが、鹿島さんがここで一番大屋敷だから、鹿島橋ってつけるのが一番いいだろうてんで、鹿島橋という名をつけたんです。おれんところもいつつぶれるかわからねえから、佐藤橋なんてつけて、それだけ残ったんじゃかなわねえ、というわけで」
座談会にはこんな一節があったが、橋に個人の名をつけるのは、いかにも木場らしい話である。しかしその鹿島橋もなくなってしまった。佐藤氏は橋名板をはずして鹿島家にとどけたところ、感謝状を贈られたというが、そこから回想されるのは明治十年代からこの島に大邸宅を築き、関東大震災で焼失するまで、木場に根をおろした鹿島家の話であった。」
木場二丁目辺りというのは、埋め立ての変化の大きかったところでもある。そこで、めぐっていた堀に架かる橋の名に個人の名を付けたというのは、あまり他では聞かない話だろうと思う。そして、そこに鹿島建設の鹿島家が登場してくる。この話は次回へと続くので、ここではあまり触れないでおく。とはいえ、その鹿島の名が付けられた橋も、今ではなくなってしまっているわけで、震災や戦災ばかりではなく、大きな変化に見舞われた町であることが分かる。
かつては水路であったところも、今は埋め立てられ、中には公園になっているところもある。これは福富川公園というところ。平野三丁目3。

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