東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

古老がつづる台東区の明治、大正、昭和~根岸

2012-05-30 22:24:50 | 台東区
さて、引き続き、台東区教育委員会発行の「古老がつづる台東区の明治、大正、昭和」から、根岸辺りを描いた分を紹介する。この小冊子には、台東区内各エリアのこういった話が収録されているので、とても参考になる。

渡辺 松太郎氏
台東区竜泉三丁目

「指物師に弟子入り
 私がいまの指物の仕事に弟子入りしたのは、十二歳ですから、大正九年です。小学校を中退してなんです。現在で考えればお恥ずかしいんだけれども、家庭の事情で。たしかその時分でも、すでに小学校六年は、義務教育ということだったんですよ。当時私の父親が、後添えをもらうために、そういうことへの考慮もあったんでしょう。おやじもおんなじ職業だったんです。私はそんなわけで、小さいときに弟子入りしてしまったんですから。ま、親の仕事は見てることは見てますけれどもね。

御徒町から坂本へ
 私は明治四十三年三月に、新潟で生まれて、一歳のとき、東京へきたんです。御徒町ですね。松坂屋の東側に電語局があるでしょう。あの中ほどに線路が一本。あの引込線のとこにいたんですよ。よく子ども時分に汽車が通るのを、あの引込線のとこでもって、こうしてばかな顔して眺めてたんですよ。
 小学校は植物園の前の、白山御殿町小学校ていうとこです。小学校入る頃、御徒町から越したんですね。弟子入りしたのは、下谷坂本の清水辰五郎ていう人ですけれども、その人の友だちがね、やはり指物師が、御徒町にいたんで、その人と私の父親とおつきあいがあったもんですから。そこは、もとは箪笥町って、現在の根岸の通りに柿本病院がありますね。あのまん前だったんです。あの角の市川という本屋からずっと並んで、柿本病院の前までの十軒、表通りだけ約十軒ぐらいのところで箪笥町っていう町があった、そこに弟子入りしたわけです。昔は静かなところでしたが、おとむらいばかりが通るところでしてね。大正十年頃ですか、矢野源吉という人が運動を起こして、あそこに根岸の花柳界ができましてね。それから派手やかな町になりましたよ。芸者が始終人力に乗って通ってね。というのは、鶯谷の現在の坂の下には、何軒も料理屋があったんですよ。踏切になってましてね。その時分には道で通るわけにいかなくて、電車が通るたんびに遮断機がおりて、だから警報器が鳴って、田舎とおんなじですよ。で、その両側に料亭があったんですよ。そこへ芸者が入るんですね。
 ヤッチャバというのがあってね。私どものいた並びで、小松屋と百足屋という二軒があったんです、その時分は寝てますとね、牛車の音がきこえてくるんです。近在の農家があすこへ持ってくるわけですね。朝鮮牛といって、小さい牛で車を引っばって。私も、ま、ほとんど台東区に縁があって、そしてまた、あの世へ行くのも台東区に決まったんですよ。お寺がなんせ、自分で谷中へ求めましたのでね。ですから、台東区でおしまいになることは、まちがいない。台東区で修行して、台東区でおしまいになるっていうふうですから、ま、できるだけ頑張って、台東区のために、何かつくしたいとそんなふうにも考えてますけどね。
 今、明治の古い建物が並んでいるといわれる、あの金杉通りにいる五十嵐という古い提灯屋さんですね。その時分には、あすこにいたんじゃなくて、今いられるとこの前の方でした。でも、あのへんは、今とくらべてもほとんど変ってませんね。道脈もあのまんまです。あすこ、電車通りだったんですけどね。カマボコ崖さんがありますが、あの横が箪笥町の通り抜けの通りなんです。ですからあの横町は、始終通ったもんです。狭い通りですけどね。で、朝も四時頃になりますと、今は何か、こう機械でひねり出すんでしょうけど、昔はみんな、まな板の上でたたくわけ。それで、鮫やなんかをあの横町へ、いっぱい投げてあったんですよ。


話に出てくる五十嵐提灯店。



小僧時代
 私が小僧に入った頃は、なにしろ師匠はまだ若かったしね。昔は四十近いと、かなり年寄りみたいに見えましたからね。人生五十年っていってね。五十過ぎると、今の七十越したのと同じでしたよ。小憎に入って、最初は子守りしたり、掃除したり、飯炊きしたり。師匠にすればね。お前たちの親からは、仕事仕込んでも、何ももらってねえんだ。だから、できることはやってくんなくちゃだめだって。それでね、師匠が教えてくんないんですよ。大体見覚えするんですよ。まず、見てて覚えるってことが第一条件なんです。今の踊りの世界の内弟子と同じですわ。それでやりだすのは、引出しといって、まず入れるものが某本なんですよ。いろんな戸がついたりなんかしたものは、全然やりません。ウツ木といって、薪をとっておいて、どうにかなりそうなやつをね。二年間ぐらいは、売れるようなものつくれませんから。材料が無駄になってもったいないからって、それで化粧箱つくるんですよ。うっかり教わった作法を忘れようものなら、もう大変おこられましてね。師匠は、桑物が得意だったんですが、でも何でもやったんで、私も何でも党えられたんです。師匠は、京物をかなりやって、繊細な仕事では有名でしたね。その頃は給金は十銭。休みは一日と十五日の月二回で、それも、仕事がいくらかできるようになってからくれました。くれましたが、何時には帰ってこいって。兵隊と同じで、五時までに帰ってこいといわれた。だから、時間を心配する。時間を守らないでくると、長時間お説教をきかされちゃうんですよ。


旧中根岸町。



西洋料理
 そのかわり、やかましいことばかりでもなかったんですよ。私の師匠は、ほんとうの江戸っ子でしたから、京橋の八丁堀で育ったんだから。食いものはうんとぜいたくでした。休みの日は、大概、外のものをとってくれたんです。うなぎ、すしといったものをごちそうしたもんですよ。その時分に、根岸に洋食屋がありまして、西洋料理といってそういうとこからも、トンカツをとったりしてね。普通の人はたべたことないよ、トンカツなんか。場所は、今の花柳界の隣りのとこですがね。のれんにも酉洋料理と書いてあった。普通にたべるのはおでん。それと精進揚げ、煮しめ、煮豆の類。煮豆は安かった。


旧箪笥町あたり。現在の根岸三丁目。



職人気質
 うちの師匠というのは、将棋好きで、暇さえあればやってました。道楽じゃ、その頃の職人は、ばくちするのが多かったね。例えば、塗師屋の職人なんかみるとね。一回こう塗るでしょう、するとうるしっていうのは、室へ入れないと乾かない、で、いったん室へ入れて、すると次の仕箏するまで問があるわけ。今はそんなことやる職人はいません。すぐ他の仕事にかかるけど、音の職人は一つやるというと、あとの仕事にかかれないんです。そいで乾く問待ってる。だからつい、ばくちしちゃう。ですからね、仕事場だか、ばくち場だかわからなかった。金の貸し借りもあたり前、稼いだ金なんかうっかり持ってると、悪口いわれるようでしたからね。吉原へ遊びに行っちゃ、翌日はつけ馬連れてくる。そのたんび親方に払ってもらってたようで。指物職人じゃ、上ものの遭具やる奴ほど道楽者でね。職人てえのは、もう道楽考にきまってたんです。だからって、金なんか持ってるわけないんです。取るより先、使う方が早いんだから、できる時分には使っちゃってんだから。

娯楽は芝居、寄席、映画
 娯楽の方は、十三ぐらいから浅草の金車亭なんか行って、よく講談をききました。芝居もその頃からの習慣でね。歌舞伎座は三階ばっかり。三階にいるのはね、みんな私らみたいに金の使えない奴ばっかり。それから一階席にいる上客はね、みんな花柳界の人が多いの。普通の堅気のおじさんだのおばさんなんかね、一階席なんか見てませんよ。今はだめだよ、東京見物のつもりでくるんだもんね。役者の名前だって、ハネザェモンなんていうんだから。こういう人じゃ、とっても役者がやりきれないよ。
 あの時分は、映画館というといつでも満員だったし、六区の通りも凄く混んでました。浅草はもう遊びの中心でしたからね。浅草しかないんですから。ここから浅草へは、坂本からまっすぐ観音裏へ行って、それから六区へ入ったもんです。電車は八銭でしたが、電車なんかうっかり乗ると、師匠に叱られちゃうわけよ。親からもらった足があるんだから歩けって。その頃映画は十五銭です。まあ、十二で入門して、二年ぐらいは盆、暮に親の家へやられるてえと、いそいで映画館へ行くんですよ。で、いっぺんに欲ばって、二つも三つも見てきちゃう。だから、頭がくらくら。関東大震災のときも、ちょうど一日で、めずらしく映画の許可がでて、遊びに行って、とたんにあれにあったんです。主人公の伜と富士館に入ったらすぐガタガタときた。十二階が崩れちゃっててね。入ったばかりだから、まだよかったんです。すぐ飛び出せた。奥じゃ大変だった。

~中略~

伝統ものの用向き
 私どもでは、あわせることを仕込むというんですけど、こうやって削りながら押しつけていくわけですよ。今、家具も、地方から量産的なのが出てますが、そういうのは値段も安いが、内容は粗雑で、材料も悪い。だが売れるんですよ。そんなこんなで、私どもはだんだん干上ってきている。もう都内でも、職と名のつくものは、何の職でも少くなっているでしょう。組紐なんかでも職人というのじゃなくて、教室ができちゃって、職人のものが売れなくなってきちゃう。指物も、技術は低下してくるが、ものによっては用途がありま丁から、結構保つと思いますね。でも、数百万という工芸的なのは、なくなっていくでしょうね。
 私の師匠が何でもやったんで、私も何でも覚えました。大きいものでタンス、飾棚、小もので文箱、硯箱。道楽くらい仕事が好きなんで、何でもやろうという気になったんです。若い頃は、酒飲んでた方がいいし、遊んでた方がよかったが、この頃じゃ、仕事を一つでも残してくてのが、一番の楽しみになっちゃった。趣味の小唄をやりながらね。税金にしたって、昔は若い衆がいてもかくせたんですよ。ほらきたぞといって、便所へ入れちゃうんですよ。そのくらい悠長だった。いまは大変です。でも私らの仕事は、東京のお客さんが一番理解してくれるんじゃないですか。それでつながってるようなもんですよ。」


御行の松。松は既に枯れてしまっているが、お堂がある。



職人の世界へどんな風に奉公に出て、そして一人前の職人へと育っていくのか、どんな生活をしているのか、そんな話が面白い。いわゆる分かりやすい人情話の世界というのも、実は職人さんの世界の話だというのも雰囲気が伝わるだろうか。宵越しの金は持たないと言われた江戸っ子の雰囲気など、どこかこの話から感じ取れるように思う。こういった世界もあり、今は消滅してしまった商家の下町というのも知らないことには、江戸、東京を知ることにはならないと思う。


岡崎 平次郎氏
台東区根岸二丁目

「根岸の寮
 明治三十五年三月二十九日神田佐久間町で生まれ、根岸に寮があったので、そこで育ちました。普通、寮は山茶花と寒竹の生垣をまわし、平屋が多く、中には中二階の家もあり、屋根はほとんどカヤぷきでした。私が小学校の頃、警察からやかましく言われて、柿籔きの屋根もみんなトタンにはり替えた。でも、明治四十二年頃まではまだまだカヤぷきの家が点点としてありましたよ。寮は静かなところというんで、殆んどが下町の連中のね、神田、日本橘とかの商売屋が隠居所を建てたんです。上根岸、中根岸が静かで、下根岸は幾分にぎやかでした。

根岸小学校
 根岸幼稚園は今の千手院のうしろ、今、区の教員会館があるところです。日暮里の郡役所を建替える時に、その建物をもらつて来た瓦ぷきの平屋でした。私は根岸尋常小学校付属幼稚園から小学校へ上がったんです。父の職業は、江戸城の西の丸に薪を入れてた御用商人で、そこまでは岡崎の家も良かったが、御維新でパアになって、下町のそば屋や菓子屋を当てに薪を売ってましたが、日清戦争の頃から石炭ができて薪が売れなくなり、それで根岸の寮に引っ込んだんです。寮は最初は六百坪あったんですが、私が道楽してつぷしたわけじゃなくて、道路改正でみんななくなっていったんです。幼稚園は市立で三年制。一組は男女合わせて二十人くらいかな。私と一緒に同級で幼稚園を出て、根岸学校まできて偉くなったのは、例の日銀総裁の山際正遺ね。変わったところでは、ライカふりまわしていた木村伊兵衛。山際さんの家は石神井用水の向こう側で、今でいう越境入学。それでも用水の向こう側一側、古い絵図面に杉崎、中村とあるのは根岸と同じで、そこの連中だけはこっちへ来てましたね。あとは全部根岸の子。他の子は来ていません。根岸小学校は、最初は西蔵院の庫裡にあったといいますが、私ら通ったのは千手院の裏側の中根岸二十九番地です。今、中根岸の野口って頭のいるとこが境です。あれからこっち来て、藤寺のとこのあの道一画が根岸小学校で、前の方はレンガになってて、横のこっちの方は全部からたちの生垣でした。レンガが残っている一番奥のところに、石で明治三十四年これをつくる千手院とありますから、壊すような時にはとっておかれたらいいと思います。運動場のすぐうしろは西蔵院の庭だったんです。今のとこに移ったのは大正二年ですがね。そこにね、木造の二階建の小学校ができた。これは篠塚五郎っておもと屋の地所でした。その時に初めて雨天体操場ができて、私らその時の第一回の卒業で、だから一つ上の生徒には、雨が降っても卒業証書を雨天体操場で貰ったっていうんでうらまれたです。

根岸田んぽ
 小さい頃はお稲荷様の初午が楽しみで、みんな大挙して初午に行って、お供物もらうんです。夏は入谷の朝顔市ですね。秋になると団子坂の菊を見に行って、帰りに、面六っていうお面屋さんで金太郎のお面を買って帰ったのを党えてます。ホタルなんぞは石神井用水にいっばいいましたからね。ちょっと先行くと左側に魚スズって魚屋がありますが、そこまでは道に沿って一列ずつ家があり、それから先が田んぼでした。だから三河島の駅はまる見えでした。田んぽは稲と蓮池、畑はほんのわずかでした。

車坂車庫
 根岸に電気がつくようになって、それから今の坂本通りに初めて市電っていうのが通るっていうんで、夜、見に行きました。下車坂っていう市電の車庫が鉄遣省の跡に建ったんですが、そこは震災の時、火が止まったところです。そこに電車がみんな入っていてね。今では、車掌さんなんかが替わる時は電車止めて、車庫行って、その次の人が乗ってくるんでしょうが、私らの知ってるのは、それを止めないんですよ。電車をのろくして、車掌も運転手も飛び降りるんです。そうすると、こっちに待っているのがかけ出してパッと乗っかる。その技がうまいんですね。それをよく見に行ったもんですよ。


かつて、市電の車坂車庫があったのはこの近く。今はJR上野駅構内になっている。



花電軍、カンテラ行列
 花電車は日露戦争の凱旋の時です。それと提灯行列ね。それからカンテラ行列。きれいなのはカンテラ行列ね。慶応義塾だけがカンテラ行列です。色が違うんで、普通の提灯行列は赤いが、カンテラの火は白く、それでみんな雨含羽着てるんです。油がたれるから。このカンテラ行列は見ものでした。行列は上野へ集まって日比谷公園へ出てくんです。行く先は宮城。花電車も日露戦争までは人を乗せてました。青島攻略あたりから怪我人が出るってんで乗せなくなったんでしょう。花電車が来ると回りがパアッと明るくなったし、乗ってる方は電気で熱かったでしょうね。私の記憶ではだいたい四、五台並んでくるんですよ。そいで、何時から何時にくるというと、車坂を通って雷門に行く本線ね、それから伝通院の方へ行くやつ。それを見に行くんですよ。見物人が大変でした。

ウグイスの鴫き合わせ
 私らが来た時分は、向こうの人道が根岸の本通りで、そこヘウグイスもっていって、帳面もって鳴くのを聞いて一等、二等を決めるんです。角の足立屋さんだとか大塚さんだとかあるあそこの一角に、鴬春亭っていう、本名島田っていう料理屋があって、そこがたまり場でね。ウグイスの会を明治四十三年の大水の時まではよくやってました。その後もありましたが大震災まで続いたかな。藪ウグイスをもって来て育てるんですが、捕るのは米俵を一本抜いてね、鏑をぬって、それで竹藪に置いとくと、すぐひっかかった。

関東大震災
 震災には焼けません。火は車坂の車庫のとこで止まりました。私なんぞは家にいて、父や妹たちは尾久へ行きましたけど、いいあんばいに二日の晩かな、夜中になって火が消えたっていうんで、あの時は戒厳令がしいてあったから憲兵が来て、火が消えたから安心せいって言ってね。今みたいにマイクロホンなんてないけど、あの時分の声はすごいんだな。一番最初はね、ガタガタってきた時にね、三河島の方から火が出て来て、それが南千住の方へ向かってた。その後風が変わって、上野方向に向かったんです。それも一端止まったが火が残ってたのか、松坂屋からまた始まって、それからずっと焼いてきた。それで上野駅も焼けちゃった。それが下車坂の鉄道官舎のとこきてやっと止まったんですよ。ほっとしましたよ。とにかくね、ガタッと来た時ね、私は田端の仁王様、あそこに行ってたんですよ。あの大きな仁王様がね、ガタガタ動きやがったよ。それでね家まで歩いて帰ったら、おやじにどこ行っていたんだ、このやろってどなられて。諏訪の境内から見たらね、もう十二階が上から三分の一ぐらいのとこだな、折れて燃えてました。それで、浅草の方も燃えてる。その火を見ながら帰って来ましたけどね。谷中の墓地の石塔なんか全部ぷっ倒れてましたね。それと根津の通りね、今、地下鉄が通っている、こっちが谷中の台で、向こうが団子坂でしょ。あのまん中が、あれが全部屋根瓦落としちゃった。根岸は瓦落ちた家、一軒もないですよ。だから地盤が固いんですね。

根岸の有名店
 今、根岸で昔が残っているといえば庚申塚と前田さんのお庭の中にある「初音の里鴬の碑」だけです。食べ物では芋坂の団子と笹の雪さん。昔は有名な山淑屋が二軒ありました。一つはコノミ庵。それから私の家の黒い門のすぐ入口にあったのがミドリ庵。煮山淑でね、山淑の実をこすって種を取ってこれを煮つめたもの。ひとつは青ジソの葉をカリカリにして粉にして、ふりかけのようにしてね、それが名物でしたね。これが誠に結構なしゃれた入れ物に入って、ミドリ庵っていうのは藤沢さん。コノミ庵っていうのは八田さん。それから今の御行の松の前の紅梅焼屋。それは彰義隊の残党で大きな男でね。床間にミニチュアの棺桶が飾ってあるんですよ。「俺は上野で死んだんだ。今生きてるのは別なんだ」と言って、棺桶が飾ってありました。で、その方は、絵をよくお描きになるんでね、その絵が芋坂の団子屋に残ってますよ。それからもう一つ、今の郵便局の前に松風っていう菓子屋があったんです。これも根岸の名物でした。松風っていうのは、せんべいを薄く焼いて、それに飴をぬるの。それを焼いて上へ青のり粉をふりかける。あとはね、さざれ石ってね、三月のお節句に使う豆入りみたいの。それがおいしいんですよ。それから笹巻きずしは、今の柳通りへ出る角で、すしをクマ笹で一つ一つ包んであって有名でした。
 笹の雪には冠木門があってのれんがかかって、中が平屋になってて朝だけで商売なさる。売ってるものはあんかけ煮二つ、それから焼き海苔にご飯、それだけ。十二銭だったかな。このあんかけ豆腐が、輸王寺宮が、笹の上に積もった雪のように白くて柔かいなとおっしゃって、笹の雪ってお名前をいただいたんです。そいで、宮様がおかわりをなさったっていうんで、今行ってもあんかけ豆腐だけはセットで出すでしょ。それと焼き海苔ね。あれ一枚四銭ぐらいだったな。焼き海苔をきれいな奥さんが焼いて出すんです。そのかわりごはんはよそってくれない。自分でよそる。朝顔市へ来た人は、朝早いから食うもんないでしょ。だからみんな笹の雪へ行った。で、笹の雪の庭に屋台を作って、買って来た朝顔を置くようになってて。ふだんでも朝五時から十一時頃まではやってました。うちも朝お客が来た時は、みんな笹の雲で朝飯にしました。それから芋坂の団子は職人のお茶受けの時、間に合う時と合わない時とあって、あれがまず二時頃でおしまいでね。


根岸二丁目。



郵便局、自動電話
 向こうっ角が笹の雪で、こっちの角が今お話した鴬春亭。その向こうっ角にね、石倉の郵便局ができたの。立派でしたよ。入っていくといばられちゃって、今のようにあんなにかわいい女の子が、毎皮ありがとうなんて言わない。その郵便局は男の人で、一銭五厘のはがきを一枚買ったりするといい顔しなくてね。それから根岸の交番。今の八百タマさんっていう八百屋がありますけど、その向こっ角のとこにね、上根岸の交番があって、で、交番の向こう側にたった一つの自動電話があったんですよ。

庚申塚
 庚申様は東向いて、青面金剛のお営があったんです。その松に北向きになって、あの三体の石が並んでたんです。角でしたから。それで今と同じように、お一日にはおさかきやお線香をあげる。あれ神仏混交の残党ですね。

車宿、焼芋屋
 根岸には車宿屋が四軒ありました。今でいうタクシーの営業所ですよ。ダイセイっていうのと、コノハナっていうのがあって、あと小さいのが御隠殿の方に一軒、それからたった一台しかないごく小さいのが一軒。ダイセイは車が五台もあった。それを引っぱる威勢のいい奴は昔の武士でした。そのダイセイのおやじが冬は芋を売った。夏には氷を思いつくまでは、エンド豆うでて売ってました。焼芋屋で、根岸で最後まであったのは、倉田屋さんですね。とにかく当時は一つ五厘ですからね。こんなでっけえ芋が。三時頃になると方々の家からお加持ちもっていくんですよ。それがみんな店へ並ばって。で、一釜ずつできたのを入れてくれてそれを取りに行った。この辺で一番繁盛したのが倉田屋さん。最後はね、大学芋でこんなのが一つ五十円になっちゃってね、驚いた。

~後略」


今ではすっかり高級料亭といった感のある笹の雪の話など、非常に面白い。朝食を食べに行く店だったというが興味深い。こういった話を読んで、震災前の地図と現在の地図を照合しながら町を歩いてみると、かつての郊外だった長閑な根岸は今ではもうないのだが、音無川を暗渠化した道路、御行の松、そして寺院など、昔から変わらないものも数多く残されている。根岸というところの面白さは、そんなところにあるように思う。下町の根岸という文脈で語られる事が多いように思うが、やはり根岸は江戸、明治の東京の別荘地の雰囲気を未だに残しているところと言えるように思う。そんな面影を捜して根岸を散策してみるのが面白い。

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