東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

台東区谷中~その一

2011-05-28 19:36:41 | 台東区
さて、今回からは谷中。今ではすっかり観光地になっている谷中。私にとっては、父の生まれた町であるという以上の感覚はない。私が生まれたときに、既に父の実家は西日暮里に移っていたし、父に連れられて谷中に行くということも特になかった。今は下町といわれるけど、どうにも私には違和感があって谷中が下町というのはしっくり来ない。私は板橋で生まれ育ったけど、板橋は下町とかいう以前の宿場町で、東京ではあるけど江戸ではない。谷中は根岸と並んで江戸以来の東京の田舎というか、そんなところだという感覚が強い。とはいえ、この当時でも谷中は大分撮影のしがいがあったようで、大量に撮影しているので、三回に分けていくつもり。撮影日は1982年2月2日3日と13日16日。現在の画像は2011年5月25日30日。

三丁目23番。道灌山下の夜店通りの入り口からスタート。日本石油のガソリンスタンドの隣は麻雀宏陽荘。この通りを少し行くと西日暮里の駅になる。JRの西日暮里駅は昭和46年の開業で、私が開業時を知っている唯一の山手線の駅でもある。この駅が出来るまでは、父の実家に行く時は田端駅の南口を出て一山越えて行ったものだった。夜に帰るときに山越えで駅へ行くのが嫌だった記憶がある。田端駅の上から東京球場のナイターの照明が綺麗に見えたのを覚えている。宏陽荘は今でも健在。


文京区千駄木三丁目43番。よみせ通りは元々藍染川だったところで、今は区界にもなっている。片側が谷中で、もう片側は文京区千駄木なのだが、千駄木で撮影してる分は二カットほどなので、こちらに含めることにする。日出光のうどん市、野菜果物の長谷商店、ヤマネ肉店、その向こうは第一曽我商店、テントにファイブと書かれている店、コチヅカハムと並ぶ。今も健在なのは、ヤマネ肉店にコシヅカハム。


三丁目13番。谷中銀座の入り口。この頃は観光客の来るようなところではなかったけど、充分に賑わっていた谷中銀座。角が生地と用品のはつねや、次が惣菜天ぷらの初音家、その隣は鳥肉に鰻蒲焼きとある。この三軒は今も変わらない。店名はこの辺りの旧町名が谷中初音町であることに依る。


三丁目8番。石川屋食品店、路地の奥に質玉屋、その隣はコンニャクや白滝の三陽食品。その向こうに尾張屋の看板が見える。ここも今も変わらない。これも立派なこと。


三丁目8番。ともや商店、森永牛乳、ツルヤクリーニングと並ぶが、左の二軒は一階がぶち抜かれて、裏のスペースと合わせて車庫になっているようだ。今は跡形もない。別アングルのカットがあったので追加した。(2011.6.7)


文京区千駄木三丁目38番。三崎坂の通りにぶつかる手前の辺り。のむらや酒店に山長は魚屋。山長は健在。


四丁目4番。三崎坂を少し上がり掛けた谷中小学校の上側。良い感じの出し桁造りの仕舞た屋、隣は玉喜屋肉店。今は角はコインパーキングで肉屋もない。


二丁目17番。谷中小学校の下の横の道を入ったところ。根津製餡所だが住所は谷中。今は老人ホームになっている。


二丁目9番。平屋の木造家屋。今も健在。


二丁目3番。こちらも平屋の木造家屋。旧藍染川の跡の道沿い。今も変わらない。


二丁目3番と4番の間。奥が上っていく坂道。谷中らしい景色。左側が大分変わった。赤い三角コーンの置かれているところは、東日本大震災で傷んだ様子。


二丁目4番。三軒長屋。左側は棟梁の住まいか。左側も雨樋の看板が出ている。こうした職人さんが町内にいることで、木造家屋は常に手が入れられていた訳である。ここは切り壊されていて雨樋の看板の出ているところだけが残っている。


二丁目4番。林畳店。先の並びにあった畳屋さん。年季は入っているが、生活感が溢れていて良い感じだった。今は綺麗なギャラリーが建っている。


二丁目6番。少し坂を上り掛けた次のブロックの角にあった上野米穀。こちらは倉庫だったのかも知れない。


二丁目3番。再び旧藍染川沿いに戻る。向かい側に染物の丁字屋のある辺り。丸い飾り窓が印象的で、昭和モダンな感じの建物で好ましく思っていた。つい最近まであったのだが、気が付いたら建て替えられていた。


二丁目3番。その並びを進んでいったところにあった総二階の長屋。今は駐車場になっている。


一丁目3番。言問通り沿い。大黒屋せんべい。そして、続けて隣の中野パン店。大黒屋せんべいは、今も変わらずに続いている。



一丁目2番。松露鮨、丹頂マイコームのおしゃれコーナー、ソバ屋の新ふじ。午前7時マイコーム整髪!のコピーに痺れる。新ふじは健在。


一丁目2番。そのまま旧藍染川の通りを進んだところ。何か商売をやっているようにも見えるが、よく分からない。隣にはクリーニングの川島ハイクリーナー。その向こうには販売買い入れのいとうという看板が見える。クリーニングの川島ハイクリーナーは今も盛業中。


というところで、まずは第一弾。旧藍染川沿いの道筋を中心に谷中の低い方をまとめてみた。都内の基準でいえば、昔の雰囲気がかなり残っているとも言えるが、急速に姿を変えつつあるとも言える。観光地化していることで、この町の変化がどうなっていくのか興味深い。

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (まさそり)
2011-05-28 20:20:12
日曜日ともなると、夜店通りの人出はすごいですね。
もう完全に観光地。
そういう意味からも、古い建物はそのまま雰囲気を残して欲しいです。
今も残っている古い建物、昔有った物干し台が消えてる物件が多いですねぇ。
周りのビルのおかげで物干し台に日光が当たらなくなってしまったからでしょうか、痛んだら修理せずに撤去されちゃうんですね。
美代ちゃんが辛くて泣いて、マチャアキが慰めるなんてのは図は、若い世代には全然わからないだろうなぁ。汗。

【下町】に関しては、全国的には葛飾柴又も含まれてますから、いわゆる谷根千も下町にしておいてあげた方が何かとアレですね。(笑)
Unknown (kenmatsu)
2011-05-28 20:53:24
物干し台、だんだん無くなってますね。家そのものはもちろんだけど、そういうところまでパリッとしている家はほんとに数少なくなってきてます。この辺りは、まだ、高層化に関してはマシな方なんだから、その辺りまで含めてがんばって欲しいところですね。

下町のことを書いてるのは、この辺りの認識が世間的にもあんまり分からなくなってるんだなと思う事が多いからです。谷根千で言えば、根津だけが江戸の市中で、後は北豊島郡ですからね。江戸時代なら町奉行じゃなくて、郡代のお裁きになるところというわけです。

下町というと、佃島に西田敏行が住んでいて、世話好きの口うるさい爺みたいなステレオタイプが大間違いというのも言っておきたい気がします。人のことにむやみに干渉せず、シャイで、打ち解ければ口は悪いけど、そうでなければきちんとした言葉で話すのが東京の人という気がします。職人さんばかりが町人ではないわけで、ちょっと前までの東京の普通の家庭で育った人って、そんな感じだったなと思います。
Unknown (津布久静緒)
2013-07-19 15:01:10
はじめまして。谷中の昔の写真を探していてこちらにたどり着きました。
私は<art-Link上野ー谷中>というアートイベントの事務局をしております。
お写真の件でご相談したいことがございますので、
下記アドレスに空メールをいただけないでしょうか?
折り返し詳細なメールを差し上げますので、どうぞよろしくお願いいたします。
artlink97@yhoo.co.jp
Unknown (津布久静緒)
2013-07-19 15:02:45
<art-Link上野ー谷中>というアートイベントです。

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