東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

目黒を歩く~その五:新富士と別所坂

2015-04-24 19:19:34 | 目黒区
さて、観音坂を上っていくと、行き止まりかと思いきや、階段で逆落としのように下っていくところに出てくる。このあたりは渋谷区と目黒区の境界なので、行ったり来たりになるのだが、また目黒区に戻ってきた。観音坂の別称が、新富士坂であったのは、目黒新富士と呼ばれた冨士塚がこの辺りにあったからなのだ。


下っていく坂は別所坂という。その階段を少し下り掛けたところに目黒新富士の案内板が設置されている。
「目黒の“新富士”と新富士遺跡
 この辺りは、昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られたところ。江戸後期には、えぞ・千島を探検した幕臣近藤重蔵が、この付近の高台にあった自邸内に立派なミニ富士を築造。目切坂上の目黒“元富士”に対し、こちらは“新富士”の名で呼ばれ、大勢の見物人で賑わった。
 平成3年秋、この近くで新富士ゆかりの地下式遺溝が発見された。遺溝の奥からは石の祠や御神体と思われる大日如来像なども出土。調査の結果、遺溝は冨士講の信者たちが新富士を模して地下に造った物とわかり「新富士遺跡」と名付けられた。今は再び埋め戻されて、地中に静かに眠る。」
この新富士遺跡については、前に紹介しためぐろ歴史資料館に詳しい展示があり、一見の価値がある。


階段を下りたところで、道は直角に向きを変えて急坂を下っていく。その踊り場のようなスペースの突き当たりに、庚申塔が建てられている。
「庚申塔
「庚申塔」は、庚申を信仰する庚申講の仲間たちが建てたものである。仲間たちは60日に一度くる庚申の日に、眠ってしまうと、「三尸」(さんし)という虫が体から抜け出し、天の神に日頃の悪事を報告され、罪状によって寿命が縮められるので、集まってその夜は眠らずに過ごしたという。
 江戸時代には、豊作や長寿、家内安全を祈るとともに親睦会や農作業の情報交換の場ともなり盛んに集まりがもたれた。庚申講の仲間たちは3年、18回の集まりを終えると共同で庚申塔を建てた。形や図柄は様々だが、多くは病気や悪い鬼を追い払うという青面金剛像、その他に三匹の猿や日月、二羽の鶏が彫られている。
 別所坂上庚申塔の昭和51年の調査では、紀年銘、寛文五巴天~明和元年(1665~1764)である。
 平成9年七月吉日設置」


六基の庚申塔が並んでいる。庚申塔は、あちらこちらで見てきている。細工の凝った物から、素朴な物まで、これも色々有って、見飽きることがない。


別所坂の下り坂。急勾配であることが分かると思う。


もう一つ角を曲がると、曲がりくねって下っていく。


坂下に近い辺りに、別所坂児童遊園の入り口がある。急坂を下って来たと思ったら、また階段で長い登りである。


階段の途中からの景色。段差が激しいのが分かる、この左手を回り込むように下って来たわけだ。


階段を上まで上って振り返ったところ。中目黒駅周辺の超高層ビルが正面に見える。


「新富士 中目黒2-1
 江戸時代、富士山を対象にした民間信仰が広まり、各地に講が作られ、富士山をかたどった冨士塚が築かれた。
 この場所の北側、別所坂をのぼりきった右手の高台に、新富士と呼ばれた冨士塚があり、江戸名所の一つになっていた。この新富士は文政2(1819)年、幕府の役人であり、蝦夷地での探検調査で知られた近藤重蔵が自分の別邸内に築いたもので、高台にあるため見晴らしが良く、江戸時代の地誌に「是武州第一の新富士と称すべし」(『遊歴雑記』)と書かれるほどであった。
 新富士は昭和34年に取り壊され、山腹にあったとされる「南無妙法蓮華経」(「文政二巳卯年六月建立」とある)・「小御嶽」・「吉日戌辰」なども銘のある3つの石碑が、現在この公園に移されている。
 平成18年10月 目黒区教育委員会」


中目黒駅方面の眺望。高いビルが林立するようになって、かつての様な富士山の美しさを愛でる景色ではなくなってしまった。この横手に、今はマンションになっている近藤重蔵別邸跡の敷地の縁を通るようにして、公園の通路があった。坂を下らなくても、坂上から公園に入ることができる。(後で気が付いた。)


「別所坂
 この辺りの地名であった「別所」が由来といわれる。別所坂は古くから麻布方面から目黒へ入る道としてにぎわい、かつて坂の上にあった築山「新富士」は浮世絵にも描かれた江戸の名所であった。」


別所坂の一番下から、細い道を通って目黒川へ下りていくのが古道なのかもしれない。道なりに駒沢通りの方へと向かってみた。谷の底に近いので、上の方のマンションなどは見上げるような雰囲気。


フラットな道が駒沢通り方向へ伸びている。今は、学校や会社関係の建物が増えているようで、過去の面影を感じるのは難しい。


それでも、未舗装の路地が奥へ伸びているようなところもあって、住宅地として開発された頃の雰囲気も微かに残されている。


駒沢通りに近い辺りはビルだらけで、曲がりくねった道がビルの谷間を縫う。

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