池上道を進んできたが、子母澤を過ぎると新井宿村を出て、市野倉へと入る。その市野倉の鎮守であったのが、大田神社である。この神社は平間街道からは少し山側にはいったところにある。そして、台地の縁の段差の上に社殿が鎮座するという、神社らしい雰囲気を持っている。
「那須与一公の守本尊を御神体としてお祀りする当社は「太田神社」と称す。古くは「家運八幡宮」とも呼ばれ、那須与一公にあやかり勝負事をはじめ、良縁 . . . 本文を読む
この辺りでは池上通りは新しい道と古道が並行して走っている。池上本門寺に近い辺りは、古くから開けていたことなどが理由で、道路拡幅を諦めて海寄りに新道を建設したのだろうと思われる。現在の池上通り、環状七号線と春日橋で交叉してから先は、Wikipedeiaによれば昭和12年にできた新道であるという。歩いてみていても、確かに新道にはそれ程歴史を感じさえるものは見掛けない。
さて、春日神社から進んでくると、 . . . 本文を読む
環状七号線を過ぎて、池上道の古道を進んでいくことにする。振り返るとこんな感じ。正面に見えているのが、環状七号線の立体交差の陸橋。その向こう側が前回の二股になった道である。
ここから先、「いにしへの東海道」という石碑がところどころに建てられている。平間街道とか、鎌倉道ともいわれてきた道で、歴史のある古くからの道を偲んでということらしい。
その傍らに「明神橋」と彫り込まれた親柱が残されている。 . . . 本文を読む
さて、前回の善慶寺と一体化しているかのように隣接して、裏山にあるのが熊野神社である。木原山の縁とも言えるところだが、木原山は古来「荒藺ヶ崎」といったそうで、万葉集にも歌われていたとか。荒藺ヶ崎熊野神社というのが正式名称であるらしい。もともと、神仏混合の時代が長かったわけでもあるが、こんな風にお寺のど真ん中に参道の入口が今でもあるというのは、珍しいのではないだろうか。
村社の標柱が立っている。善 . . . 本文を読む
さて、池上道へと戻ってきたのだが、村社熊野神社鎮座と彫られた石柱が立っている。真っ直ぐに伸びる参道は、熊野神社と供にその別当であった善慶寺の参道でもある。
進んでいくと、立派な山門がある。その奥に熊野神社の鳥居が見えている。善慶寺という日蓮宗のお寺である。
門前の石柱には、「享保四年三月吉日 江戸新川施主筑前屋住右衛門」の文字が刻まれている。享保四年は1719年。徳川家八代将軍吉宗の時代で . . . 本文を読む
さて、大森駅の前の天祖神社があり、かつては八景園があった高台には、木原山と呼ばれていた。これは江戸時代に、この辺りが旗本木原氏の領地であったことからの様だ。そして、今は住宅地として家々が建ち並ぶ町になっているのだが、それでも山の名前の通り、その地形には起伏が多い。
緩く蛇行しながら下っていく道。かつてはどんな景色が周囲に広がっていたのだろうか。
その木原山を下っていったところに、弁天池があ . . . 本文を読む
さて、池上道を進むと、大森駅の前に出てくる。こちら側は線路よりも高さがあって、建物が並んでいるので線路が見えない。そして、坂道を下っていくと大森駅の駅舎がある。駅が出来たのは明治9年で、鉄道開通後少し経ってからのことだ。大森駅は、かつて日暮里駅がそうであったように京浜東北線だけではなく、長距離の列車ホームも存在していた。もっとも昭和5年には電車線のみの駅になっているのだが、私が高校生だった1970 . . . 本文を読む
さて、品川から池上道の続きを進む。そして、今回から大田区へと入る。そういえば、時々大田区の大の字は太だったか不安になることがあったのだが、大森区+蒲田区=大田区と意識する様になってから迷うことが無くなった。高校の学区エリアなので、昔から友人の多いエリアでもあった。この池上道を鹿島神社の前から下って来て、一番下りきったところが区界で大森へと入ったことになる。この区界がかつては川であったというのは、前 . . . 本文を読む