牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

3月31日(日) 祝イースター(復活祭)

2013-03-31 08:04:19 | 日記

 今日はハッピー・イースターで、イエス・キリストの復活をお祝いする日である。一般的にはクリスマス(イエス・キリストの誕生)の方が有名かもしれないが、イースター(イエス・キリストの復活)の方がキリスト教信仰にとって大切であり重要である。クリスマスのイエスは赤ん坊で弱々しい。十字架で死なれたイエスもある意味で弱々しい。しかし死からよみがえられたイエスは力強い。復活こそ生涯におけるハイライト、最も素晴らしい出来事だといえる。

 聖書は、イエス・キリストが十字架で死なれ、墓に葬られ、死からよみがえられた、という三つの事実をはっきりと伝えている。もしイエスが墓の中で死んだままだったら、新約聖書が書かれることも、キリスト教が全世界に広まることも決してなかった。イエスがよみがえられたからこそ、使徒たちが迫害され殺されてもその復活の事実を宣べ伝え、その結果キリスト教が全世界に広がり、新約聖書も書かれたのである。すなわち復活はイエスが神の御子であり、神ご自身である証拠である。

 使徒ペテロはイエスがよみがえられた後、50日後にこのように説教している。「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方(イエス・キリスト)を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方(イエス・キリスト)を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方(イエス・キリスト)が死につながれていることなど、ありえないからです。、、、、、神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(使徒の働き2章23節、24節、32節)

 使徒パウロもよみがえられたキリストに出会った一人であるがこのように書いている。「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(コリント人への手紙第一 15章54節、55節)

 人類の最大の敵は死である。その死に唯一打ち勝たれたのがイエス・キリストである。これから近くの開拓教会へ行き、共に礼拝をして、一緒に昼食を食べながら祝会を持つ。全世界でお祝いされているイースターの喜びをぜひ教会で味わいましょう。

3月30日(土) 「地産地消と循環的農業」 三島徳三著  コモンズ

2013-03-30 08:14:42 | 日記

 副題は「スローで持続的な社会をめざして」。著者は大学教育に携わった後、10年前から農的生活を始めた人である。本書で現代の”豊かな”社会に警鐘を鳴らしている。

 本(プロローグ)からの引用。「 ”豊かな”社会をつくりあげてきた推進力は、利潤の増大を目的とする資本主義的企業である。目的を達成するためには、より多く生産し、より多く消費してもらう一方で、コストはできるだけ少なくしていかなくてはならない。そこに大量生産・大量消費・効率最優先の論理が生まれる。こうした論理を徹底した企業のみが、競争の勝者となる。、、、、、”より大きく” ”より速く” ”より効率的に” という論理は、ファストフード業界でも徹底している。そして、それを支持する消費者があまりにも多い。商品を可能なかぎり画一化し、製造とサービスをマニュアル化し、低コストで提供すれば、企業は儲かるし、消費者も喜ぶ。こうした社会について、アメリカの社会学者ジョージ・リッツァは「マクドナルド化する社会」と喝破した。、、、、、「もう一つの日本」は可能なのだ。農業と食の世界について言うと、スローフードや地産地消の運動、循環的農業の実践が、「もう一つの道」と本当の豊かさを教えてくれる。」

 第Ⅰ部が「地産地消とスローフード運動」について書かれ、第Ⅱ部が「農民的技術による自然循環的農業」について書かれている。

 第一部で著者は、地元で生産されたものをその土地で消費する地産地消(直売もこれに関連している)を推奨している。インスタント化された食によって健康が害され、家族が共に食事をするという共食が崩れていると指摘している。続いて「マクドナルド化する社会」に対抗する形でイタリアから世界に広がったスローフード運動について説明がなされている。一言で言えば、近代化の中で失われつつあるその土地伝来の食文化と農漁業を守る運動を進めることによって、ファストフードに対抗しようとしている運動、現代の効率最優先の社会に替わる、スローながら人間あふれる社会を取り戻そうとする、壮大な目的を持った社会運動である、と言えよう。

 第二部で著者は、農民がその営農を行なう地域の自然条件、資源付与条件などを最大限に活かしながら、可能な限り経費節約的、省力的な方法で農業生産を行なう農民的技術による自然循環的農業を推奨している。特に自然循環的畜産の事例を紹介している。主には ①飼料の経営内あるいは地域内での調達、②糞尿の経営内あるいは地域内での還元、の二過程のようで、放牧の良さを記し、小規模の家族経営を理想としている。それが時間的ゆとりをもたらし、家族と地域社会の崩壊を防ぐ手立てになるのではないかと説明している。

 エピローグでこのように書いて本を締めくくっている、「すなわち、地球上の自然資源を収奪し、人間労働からギリギリ搾り取るような利潤と効率優先の経済システムを変革し、自然と人間が共生し、弱い者、小さい者が大事にされる、スローで持続的な社会、本当の豊かさを実感できる社会を作り出していかなくてはならない。」

 著者の推奨している「スローな社会」は魅力があると思う。私は招かれて宣教旅行のためパプアニューギニアへ三度行ったことがあるが、まさにそこにはスローな社会があった。日本人の私からすればスロー過ぎる社会があった。とても魅力的であったのは事実だ。ここなら人間らしさがあふれる社会になるのだと感じた。同時にスロー過ぎて日本人の私には合わない部分があった。例えばバスが数時間遅れても誰も文句を言わないなど、、、、ひどい時は飛行機が遅れても誰も文句を言わなかった。文句を言っていたのは私だけであったと思う、、、、おかげで予定通り日本に帰れず、イースター礼拝の説教に間に合わなかった。また彼らは自給自足的な生活をしていて、現代日本とは正反対の生活をしていた。だから自然と家族と過ごす時間も多かった。おそらく自殺とかひきこもりというような問題は皆無ではないだろうか。

 著者は昔に戻ろうと言っている訳ではないし、むしろ近代技術の成果であるパソコン、インターネット、携帯電話を使っていると書いている。今日本は資本主義社会の限界に来ているのだと思う。それは原発事故でも立証された。また経済重視で家庭がギスギスし、その結果であろうか多くのひきこもりなども生まれ、このままでは取り返しのつかない社会になってしまうかもしれない。本書はそれに対しての警鐘であると思う。

 私は著者の言っていることに基本的に賛成なのだが、しかし著者の主張と説明は弱いと感じた。あまり心に響いてこないというか、具体的な方策に乏しいのではないかと言うのが実感である。だからと言って私にもどうしたら良いのかわからないのだが。現実の農業(仕事)は厳しいし、お金を稼ぐのは厳しいことである、という視点が著者には欠けているのではないだろうか。スロー(ゆとり)とファスト(急ぎ)の落としどころをどこに置いたら良いか、本当の豊かさとは何かを一人ひとりが考えるところから始まるのかもしれない。

3月29日(金) 「聖書教理がわかる94章 キリスト教神学入門」 J・I・パッカー著  いのちのことば社

2013-03-29 07:38:13 | 日記

 今日は、受難日である。すなわち、神の御子イエス・キリストが十字架に架かり、私たち人類の罪の身代わりに死なれたことを記念し覚える日である。聖書のコリント人への手紙第二 5章21節にはこのように書かれている。「神は、罪を知らない方(イエス・キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方(イエス・キリスト)にあって、神の義となるためです。」


 さて本書は世界的な神学者であるパッカー博士が書いた本で、書名通り聖書の教理94が簡潔に説明されているキリスト教の神学入門書である。その94の単元が大きく言うと4つに分けられている。創造主として啓示された神、救い主として啓示された神、恵みの主として掲示された神、運命の主として啓示された神である。

 著者は「まえがき」でこのように書いている。「神学は神賛美と献身のためのものである。すなわち、神を賛美し敬虔な生き方を実践するためのものである。したがって神学は神の臨在に私たちの目を開かせるような方法で提供されなければならない。神学が最も健全であるのは、神学が自ら語っている神のまなざしの下に意識的にとどまる時であり、そして神の栄光をほめたたえる歌を歌うときである。」

 著者は「神学は専門家のものではなく、普通のキリスト者のためのものである」という考えのもとに書物を書いているようだ。素晴らしいことである。

 訳者が「あとがき」で書いているように一般的にキリスト教神学書、もしくは組織神学書は大部のものが多く、ややもすると迷いやすくなりやすいのであるが、本書はうまくまとまっていて、読みやすく分かりやすい本であった。教会開拓の準備において参考になる一冊となりそうだ。

 

3月28日(木) 「神に用いられる人③」 オズワルド・スミス著

2013-03-28 08:45:58 | 日記

 本書を読み終えた。最後の章のタイトルは、本のタイトルと同じで、「神に用いられる人」。この部分は結論と言えるだろう。本からの引用。「私の半生において、私が他の何ものにもまさって神に用いられることを求めていた時期を、私は決して忘れないでしょう。、、、、これらの(神に用いられるための)条件を、今、あなたにお伝えしたいと思います。なぜなら、あなたも、また、神に用いられたいと願っておられると、私は信じるからです。」

 以下が著者が示した「神に用いられる」ための11の条件です。

 1.人間が罪の負債を支払うことができず、全くの破産状態にあるというビジョン
   人間は全く堕落している存在であるということを理解できない人は、神に用いられることはできないだろう。

 2.神の救いが適切なものであることの会得
   人間の堕落に対して神の救済手段があり、それがイエス・キリストの福音(十字架と復活のみわざ)のみであることを確信することが大切である。どの宗教にも救いがあると思っているようなら、すなわち宗教多元主義であるなら、神に用いられることは不可能である。

 3.一つの偉大な目的に明け渡された生涯
  本からの引用。「使徒パウロは、一事の人でした。福音宣教と救霊において成功するのは、他のすべてのことを除外し、一つの事柄、一つの目的の人となっている人です。」

 4.すべての妨害物が取り除かれた生活
  罪との決別、すなわち聖めがなされなければならない。

 5.無条件に神のご支配にゆだねられた生涯
  自分自身を神に捧げることです。

 6.勝利を得るまではやめない執拗な祈りの奉仕
   本からの引用。「このこと以上に重要なものはありません。、、、、神に用いられた人は、皆、祈りの人でした。、、、、もしあなたがあなたの働きのうちに神の栄光をあらわされるのを見たいと思うならば、あなたは、まず第一に、祈りの人とならねばならないのです。」

 7.神のことばに満たされた奉仕
  本からの引用。「私たちは、神のことばである聖書に精通しなければなりません。そして、精通する方法がただ一つあります。すなわち、それを読むことです。創世記からヨハネの黙示録まで、聖書を読みなさい。繰り返し繰り返し読みなさい。みことばを黙想し、みことばにしるしをつけ、みことばを学び、みことばに満たされなさい。みことばがあなたの一部となるまで、それを読みなさい。その時にのみ、神は、あなたを、みこころのままに用いることがおできになるのです。」

 8.失われた世界に対する生けるメッセージを持った奉仕
  本からの引用。「あなたは、どのように説教するかを学ぶためには、神学校へ行けば良いのです。しかし、メッセージを得るためには、神のみもとに行かねばなりません。」

 9.聖霊によって油を注がれた奉仕
  本からの引用。「私は牧会に従事していた過去の歳月を通じて、神がお用いになった人々の生涯を学びました。そして、私は、それらの人々が、皆、聖霊の油注ぎを受けていたということを発見したのです。」
  エバン・ロバーツ、チャールズ・フィニー、ドワイト・ムーディー、ジョン・ウェスレーなどです。

10.信仰の期待によって特徴づけられた奉仕
   不信仰ではなく、信仰による奉仕が必要。主イエス・キリストがおっしゃったように、「あなたがたの信仰のとおりになる」からです。

11.神の栄光のために全面的に捧げられた奉仕
   自分の栄光ではなく、神の栄光だけを求めることです。


  本からの引用。「以上において、私は、あなたを、神が私に啓示してくださった十一の条件に、直面させることに努めてきました。、、、、どうか、これらの条件を一つ一つ検討してください。、、、、神は、あなたを用いたいと願っておられます。彼はあなたの奉仕を祝福したいと切望しておられます。しかし、もしあなたが「神に用いられる人」になりたいと願っておられるならば、それらの障害を取り除くのはあなたのしなければならないことなのです。」

 「祈りとみことば」に専念することが絶対に必要であることが分かる。祈りを通して聖霊の満たし、みことばを(読むことを)通して信仰の満たしが与えられるだろう。あとは罪(憎しみ、赦せない心、苦々しさ、悪い言葉など)との決別が大きな課題である。本書を通して心を探られ、感謝であった。


3月27日(水) 「神に用いられる人②」 オズワルド・スミス著

2013-03-27 09:16:28 | 日記

 著者は、御言葉(聖書を読み学ぶ)と祈りの時間を持つことの大切さを書いている。本からの引用。「クリスチャン生活のごく初期において、私は「朝のつとめ」と呼ぶものを始めました。毎朝、来る日も来る日も私は神と共に過ごしたのです。まず神と共に過ごす時を持たなければ、とうてい事務所へ出かけて行くことなどできませんでした。また、毎朝神にお会いするのでなければ、教会の仕事をしようとはしませんでした。私は朝食後、ただちに書斎に退き、戸を閉じて最初の一時間を神と共に過ごしました。今日まで50年以上の間、私は「朝のつとめ」を守り続けています。私の今までの生涯において、少しでも神が私を用いてくださったとすれば、それは私が毎朝神にお会いしたためです。私は、いろいろな問題に出会う前に、すでにそれらの問題を解決していました。「朝のつとめ」がなかったならば、私に働きには効果がなかったことでしょう。私は弱く無力であったことでしょう。私が霊的に強くなるのは、神の御前に出る時だけです。」

 「過去幾年もの間、多かれ少なかれ、私にとってモットーとなっていた聖書の一つの箇所があります。それは使徒の働き6章4節です。そこに次のように記されています。「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」なんという理想的な召命でしょう。他のものは、すべて、第二次的なものと考えられていたのです。使徒たちが神の国のためになしえた最大のことは、まず祈り、そしてみことばの奉仕に励むことでした。そして、あなたは、祈りが説教よりも先に来ていることに、気づかれることでしょう。おお、兄弟よ。あなたの働きのこの部分に強調点を置くように、あなたに嘆願させてください。祈りのないみことばの奉仕というものはありえません。この二つは、分かつことができないまでに結合されているのです。力強い説教をしようとする者は、効果的な祈りをしなければなりません。神を動かすことは、人を動かすことです。」

 「もしあなたが霊的な結果をもたらそうとするならば、あなた自身が霊的でなければなりません。、、、、以上述べてきた事柄は、すべて、普及の名声のあるバウンズの次の燃えるような言葉の中に要約されています。「人が説教者を作る。神が人を作られねばならぬ。メッセージをする人は、メッセージより以上である。説教者は説教以上である。説教は一時間の演出ではない。それはいのちがほとばしり出たものである。人を作るには二十年を要する。真の説教はいのちである。人が成長するゆえに、説教は成長する。人が力強くあるゆえに、説教も力強い。人が聖くあるゆえに、説教も聖い。人が神の油注ぎを受けているゆえに、説教も神の油注ぎを受けている。説教はいのちを与える力において、人以上に上ることはできない。死んだ人は、死んだ説教をする。そして、死んだ説教は殺す。すべては説教者の霊的性格にかかっているのである。」

 著者の忠告は説教者として働くために本当に大事なことだと思う。毎朝、みことばと祈りの時間、すなわち神との時間を欠かさず持ち、「朝のつとめ」を守り続けるというのは大きなチャレンジである。