牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

11月29日(金) 「聖書的説教とは?」 渡辺善太著  日本基督教団出版局

2013-11-29 15:31:30 | 日記

 「聖書論」に続いて本書を読み始めた。

 本(序文)からの引用。「本書の著者はさきに『聖書論』三巻を書いて、自分の聖書に対する信仰と態度と研究の方法と、その立場とを論じた。したがって、そこには、この聖書論に立脚して語られる「説教」は、どんな説教になるだろう、という問いが、自問としても、また他問としても、問われてきた。、、、、この問いに対する答えとして、書かれたものが、本書である。」

 次は緒論からの引用。「福音主義教会における説教は、「聖書的説教」を、その中心としなければならないし、また中心とせられていると思われる。」

 著者はこのように記したあと、「説教とは何か」「説教するとは何か」「説教者とは誰か」という根源的な問いかけをする大切さを書いている。

 また説教を料理と比較して以下のように書いている。「これもやはり教会の説教にあてはまる。あまり最初に濃厚な「おいしさ」を感じさせる説教は、長続きしない。毎日曜の朝、おいしさがここに言われているように、「後ろの方にあるように」する説教こそ、長続きする。これはやはり巡回伝道者のように、「一晩で勝負する」人でない牧師の場合、極めて大事なことである。」

 緒論の最後で先輩方の説教から学んだこととして、「話し方のうまさ(技巧)」と「聖霊の働きの大切さ」の二つを挙げている。

 私は20代の時に非常な熱心さを持って様々な説教者(日本人と外国人の両方)の話を聞きに行った。それらを通して説教について多くを学ぶことができた。また毎週日曜日に聞く礼拝説教に比較的恵まれてきたと思う。確かに著者が言うように感動し心を揺り動かされた説教には二つの要素があった。それは聖霊の働きがあったことと話しが上手で個性的であったという点である。

11月27日(水) 「渡辺善太全集6<聖書神学論⑯>」

2013-11-27 06:19:08 | 日記

 著者は結論部分で以下のように書いている。

 本からの引用。「本書は「教会内」の学としての、聖書の正典信仰に立脚する、聖書神学建設に対する基礎的条件の究明(第一章)と、その発見(第二章)とを目的として書かれた。これがためにまず第一章において「聖書神学」なる学名がはじめて用いられてから今日に至るまでのこの学の変遷の跡をたどった。そしてそれが理論的決定が欠けていたために、ついにこの学建設が、「失敗」に終わっていることをみた。」

 「これを成し遂げるのが、「旧約聖書のキリスト教化」である。これがそれに先行する問題であり、したがって、聖書神学建設の基礎的条件である。だがこの旧約聖書は、どうしたら「キリスト教化」することができるか。これをなすべき唯一の方法がそこにある。それこそ、本書第二章がその主題としている、「新約聖書における旧約聖書解釈」の論理と方法の探究によってである。しかるに生命は生命を引く。この「新約聖書における旧約聖書解釈」は、次の重要なことを発見させる。すなわち新約著者らは、旧約聖書から言葉を引用し、これを再解釈することによって、「旧約聖書をキリスト教化しながら」、それによって彼ら自身の信仰的神学的表現に対する「枠」と「論理」とを与えられたのであった。」

 最後の文章を読んで、マタイの福音書が思い浮かんできた。マタイは旧約聖書から多くを引用して福音書を書いている。開拓教会で私は一番短くてシンプルなマルコの福音書から説教をしようと思っていたのだが、もしかしたらマタイの福音書の方が自分と集まってくる会衆にとって良いのかもしれないと感じた。仕事がもう少し落ち着いてきたら祈りつつ思索し、決断し、準備のための研究と勉強に入ろうと思う。

11月26日(火) 「渡辺善太全集6<聖書神学論⑮>」

2013-11-26 05:58:17 | 日記

 前回の続きである。著者はヨハネの10章を引用しながら説明している。 

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。、、、、、わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。」(ヨハネ10:1、8)

 本からの引用。「 「門から入らないで他の所を乗り越えて来る」「わたしの前に来た者」というのは、「受肉」せる神の子イエスを「経ずして」来たりし選民の指導者、すなわち「ユダヤ人の解したかぎりにおける」旧約聖書とその指導者全体をさしている。換言すれば単に「十字架なきメシヤ」を預言するものと見られた旧約聖書全体と、その著者全体とを意味した言葉である。しかしこれら旧約の人々が、すべて「イエスの日を見て喜」んだ人々であると解される時、旧約聖書「全体」は神の啓示の書であり、神の言葉であるということになる。このとき初めて、「その聖書が、わたしについて証言しているのです」(ヨハネ5:39)と言われているごとく、「キリスト証言の書」となるのである。、、、、、叙上の理解をもって見る時、ユダヤ人の聖書なる旧約聖書が、キリスト教会の聖書となるのは、「イエス・キリストの御霊」によって再解釈せられるからである、という言葉の意義が明瞭になってくる。 」

 この章の最後で著者はこのように書いている。「今や我々は新約聖書解釈の輪郭を展望し、その終わりに到達した。そしてこの「キリスト証言神学」によって次の四つのことが成し遂げられたことを見ることができた。
 その一は、新約聖書の旧約聖書解釈にあらわれた四つの解釈が、それぞれこの「証言的解釈」によって再解釈され、そして深化されたことである。
 その二は、原始教会の人々が求め続けた教会とキリスト教との会堂とユダヤ教とに対する優位性、先行性、否、その絶対性が、この「証言的解釈」によって、遺憾なく立証されたということである。
 その三は、「キリスト証言」と見ることによって、旧約聖書のキリスト化が、完全に成し遂げられたということである。すなわちこれによって旧約聖書は、もはやユダヤ教の聖書ではなく、キリスト教会の聖書となったのであった。
 その四は、上述のすべてが、教会を創設なしたまいし聖霊によって成し遂げられたということである。かくしてキリスト教は教会の創設者たる聖霊によって、そのいっさいが成り立たせられているということの解明であった。
 ここにおいて初めて聖書神学ひいては旧約神学と新約神学との基礎条件が明らかにせられたのである
。」

 今まで組織神学(教理)は自分なりに学んできたつもりだが(もちろんまだまだ不十分だが)、それと比べて聖書神学はあまり学んでこなかったように思う。この1-2年を通してこれからは聖書神学(旧約神学と新約神学)の学びが大事になってくると感じている。その学びによって聖書から語る説教も深みを増していくと思う。
 

11月24日(日) 「渡辺善太全集6<聖書神学論⑭>」

2013-11-24 09:35:26 | 日記

 前回の続きである。

 本からの引用。「正典的聖書神学者とは、聖書正典の「無限なる統一性」を信じ、かつこれに立ち、その点から六十六冊の、そして旧新約の書物それぞれの差異と矛盾とを、神学的に解明するよう努力するところに、その使命を持っている。もし彼が前述の二つの見方のうち、差異面に立って、統一面を見失うとすれば、彼は単なるイスラエル宗教史または原始キリスト教の研究者にすぎなくなるし、反対に、その統一面のみにその目をうばわれて、差異面を全く見ることができないとすれば、彼は単なる一独断者に堕するのである。この意味において、ヨハネの福音書の「キリスト証言的」聖書解釈は、これら二つの誤れる道のいずれにもゆかず、そこに正しき聖書神学建設を可能ならしめるものである。」

 「ただしかしここで注意しなければならないことは、キリスト証言という場合、キリストが「主」であって、証言が「従」であるという一事である。したがってそのキリストによる聖書の「統一性」は、その証言による「差異性」よりは、次元的にはるかに高いものであるということである。そうなればこそ、統一性によって差異性が解釈または解明されるのである。この意味において初代教会の預言的、契約的、約束的および予型的解釈となってきても、なおそれでとどまることをせず、ついにこの「キリスト証言的」解釈を生み出したのであった。これひとえに証言の「まと」または証言せられる者たる「生けるキリスト」による「生命力」の発動によったものである。」

 「さらにつけ加えて言わなければならないことは、この「キリスト証言的」旧約聖書解釈は、他の預言的、契約的、約束的および予型的の四解釈を、置換しまたは否定するものではなく、かえってこれらを再解釈し、それらを深化するものである。前述の預言的解釈が、実はこの点から見れば「証言的」となると言われたのは、この意味においてである。ここにこの「キリスト証言的解釈」の総完的の意義がある。」

11月23日(土) 「死もまた我等なり 下」 ジェフリー・アーチャー著

2013-11-23 06:09:32 | 日記

 この本はクリフトン年代記の第2部で、英語の原題は、「The Sins of the Father」(父の罪)である。こちらの方が第2部のタイトルとしてふさわしいと思う。なぜなら貧乏な主人公ハリーが父の罪のために翻弄されるからだ。金持ちの親友ジャイルズのお父さんが自分のお父さんでもあるかもしれないという事態になって、親友と相続権をめぐって争う。

 以前にはその父の罪のために親友ジャイルズの妹で恋人であったエマとの結婚が兄妹かもしれないということで結婚ができなくなっている。

 その疑いに決着がつくのが第3部であろう。著者の創作する物語はその世界に人を引き込む力がある。


 人間は自分に罪がないと思っても実は先祖の罪を背負って生まれてくるのである。それがすなわちアダムの罪である。これが聖書の人間観だ。