牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

12月31日(月) 「共に生きる生活②」 ボンヘッファー著  

2012-12-31 07:41:22 | 日記

 今日で2012年が終わる。今年は自分にとって変化の多い一年であった。埼玉での牧師職を辞任し(属している教団から牧師になるための按手を受けているので牧師であることには変わりがない。できれば来年の秋頃北海道で、埼玉の教会の子教会として新しい教会をスタートしたいと願っている)、埼玉から北海道へ移って来て(まだ引越しは終わっていないが)、農業の手伝いをした(本格的な農業の仕事は来年からだ)。昨日、「一年間の導きと守りを感謝します」と近隣の教会へ行って、神様に礼拝を家族で捧げてきた。牧師の説教箇所は、詩篇103編1ー2節「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」からだった。説教の中で「良いこと探しをしましょう」と勧めがなされた。


 さて「共に生きる生活」で、ボンヘッファーは交わりの大切さと一人でいることの大切さの両方を書いていた。一人でいることについて著者は続いてこのように書いている。本からの引用。「キリスト者は、一日の中で、一人でいるための一定の時間を必要とする。それは、次の三つの目的のためである。すなわち、(1)聖書を読み、思いをめぐらすこと、(2)祈ること、(3)とりなしのためである。これら三つのことは皆、キリスト者の日ごとの黙想の時間に見出されねばならない。、、、、、黙想の時は、我々を、一人でいることの空虚さと深淵の中へと沈みこませるのではなく、我々を御言葉と共に一人でおらせる。そのことによって、我々に、立つべき確かな根拠と、なすべき歩みへのはっきりした方向とを与える。、、、、我々は、神の言葉を、我々のための神の御言葉として読むのである。、、、、聖書を一人で読むことによって、我々は祈りへと導かれる。我々は既に、最も良い祈りの方法は、自分が聖書の言葉によって導かれることであり、聖書の言葉に基づいて祈ることである、ということを述べた。、、、、我々はの個人的な祈りを、聖書の言葉と関係させて祈るように、我々はまたとりなしをもって祈るべきである。」

 早朝の時間に、(1)聖書を読み、神様からの語りかけを聞き、思いをめぐらし、(2)聖書のことばと神の語りかけに正しく応答できるように聖書を用いて祈り、(3)他の人たちのためにとりなし(神とその人の中に立って仲介すること)の祈りを神様に捧げていきたい。教会開拓の前に(共同体の交わりを持つ前に)もう一度、一人でいることと一人で立つことの大切さを覚え、一人の孤独の時間が充実していくことを願う。

12月30日(日) 「共に生きる生活」 ボンヘッファー著  新教出版社

2012-12-30 07:49:41 | 日記

 10月にこのブログ(読書日記)をボンヘッファーの著書からはじめたが、この一年の締めくくりもボンヘッファーにしたいと思う。ロイドジョンズ同様ボンヘッファーも私の大好きな著者の一人である。ボンヘッファーはドイツナチス時代にドイツで牧師をしていた人物である。


 著者は本書で教会共同体について書いている。本からの引用。「キリスト者の兄弟関係(交わり)にとって、すべては、次のことが初めから明らかになっているかどうか、ということにかかっている。すなわち、第一に、キリストの兄弟関係は、理想ではなく、神的現実であるということ、第二に、キリスト者の兄弟関係は、霊的な現実であって心理的な現実ではないということである。、、、、、、、キリスト者の交わりの中へ持ち込まれる人間的な理想像はみな、真正の交わりを阻害するものであるから、真正の交わりが存続し続けるためには、それは打ち砕かれなければならない。キリスト者の交わり自身よりも、キリスト者の交わりについての自分の夢を愛する者は、たとい個人的には正直者で真面目で犠牲的な気持ちで交わりのことを考えようとしても、結局はキリスト者の交わりの破壊者となるのである。神は幻想を憎み給う。なぜなら、幻想は人を高慢にし、要求がましくするからである。一つの交わりのイメージを夢見る者は、その実現を、神に、他の人に、そして自分自身に求める。彼(彼女)は、キリスト者の交わりの中へ、要求する者として入り、自分自身の律法を立て、それによって兄弟(姉妹)と神ご自身とを裁く。彼は、他の人たちすべてに対する厳しい叱責者のように、冷然と兄弟の群れの中に存在する。、、、、」

 さすがボンヘッファー。この指摘は非常に鋭い。誰もがこれほど明解に説明できるものではない。交わりについての理想を愛する幻想的な信徒(教会員)が残念ながらおそらくどこの教会にもいるであろう。このような人は、牧師を苦しめ、教会の人々を裁き、教会の交わりを破壊していく。でもそのような人々は自分たちが良いことをしていると大いなる勘違いをして、教会には牧師には他の信徒には愛がないと言って裁くことをやめない。本当に哀れである。私が埼玉で牧会をしていた時にもこのようなタイプの人が何人かいた。最後には教会を出て行ったが。他の教会に行ったがうまくいかない。なぜなら問題は教会にあるのではなく(もちろん教会は完全ではない)、問題は彼(彼女)にあるのだから。そのような人は教会を移っても同様のことをする。実際に私たちの教会をその問題で去った人たちは、他の教会でもうまく行かず出て行っている。それでも教会を裁き、自分たちを正当化しているようだ。自分たちが教会を建て上げる側ではなく、破壊している側にいることに気づかないのだ。その鈍感さには驚かされる。クリスチャンとして恥ずかしい行為だ。願わくはすべてのクリスチャンがこの本を読み、自分自身を点検してみて欲しい。そうするならば教会は教会の交わりは絶対に良くなっていくはずだ。それこそ神様が考えている理想の交わりと教会共同体に近づいていくであろう。


 著者は交わりのことについて書いた後、一人でいることの大切さを書いている。本からの引用。「多くの人は、一人でいることを恐れて、交わりを求める。彼らは、もはや一人でいることに耐えられなくて、その焦燥感が彼らを人々の中へと駆り立てるのである。自分一人でいることのできないキリスト者は、他の人たちの交わりの中で、助けを与えられたいと願うのである。たいていの場合、彼らは幻想を砕かれ、そこで本当は自分自身の責任であるのに、非難の矛先は交わりへと向けられるのである。キリスト者の交わりは、決して何か精神的療養所のようなものではない。自分自身から逃避して交わりに入ってくる者は、そこをおしゃべりと気晴らしの場所として誤って用いているのであり、しかもそのおしゃべりや気晴らしは、なお一見非常に精神的なものであるように見えるかもしれないのである。しかし彼(彼女)は本当は、もはや交わりを求めているのではなくて、しばらくの間孤独を忘れさせてくれるが、しかしまさにそのことによって人間の恐るべき孤独を造り出すところの陶酔状態を求めているのである。、、、、、、「一人でいることのできない者は、交わりに入ることを用心しなさい。」彼は、自分自身と交わりとを、ただ傷つけるだけである。神があなたを呼び給うた時、あなたはただ一人で神の前に立った。一人であなたはその召しに従わねばならなかった。一人であなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らねばならなかった。そして一人であなたは死に、神に弁明するであろう。あなたは、自分自身から逃れることはできない。、、、、、しかし、その逆の命題もまた真である。「交わりの中にいない者は、一人でいることを用心しなさい。」あなたは教会の中へと召されたのである。召しはあなたにのみ向けられているのではなく、あなたは、召された者の教会の中で、自分の十字架を負い、戦い、祈るのである。あなたは一人ではない。たとい死の時においても、あなたは一人ではない。最後の裁きの日に、あなたはイエス・キリストの教会の一つの肢となるであろう。、、、」

 一人でいることのできないクリスチャンは大いに問題である。誰かに依存したがるのである。牧師に依存したがる人もいる。他のクリスチャンに依存する場合は、共依存の状態に陥る可能性があるので注意する必要がある。ただ一人になることのできないという問題は、現代日本の病かもしれない。それは若者の間にも見られるものだろう。また結婚の問題も起こってくる。一人になることができない者同士(自立できていない者同士、孤独を愛することができない者同士)が結婚をしても、うまくいく可能性は低いであろう。教会の中にいない(教会に行かない)クリスチャンも大いに問題である。ますます自分勝手になり、聖書を自分の都合の良いように解釈するからである。

 結局人間は一人であると思う。孤独を愛することができなればダメだ。でも同時に教会共同体を愛することができなければ、自分勝手なクリスチャン生活になってしまう。教会を通して一人でないことも感謝だ。

12月29日(土) 「教会とは何か?」 D・M・ロイドジョンズ著  いのちのことば社

2012-12-29 07:37:15 | 日記

 私と同世代の大リーガー松井秀喜選手が引退した。残念だ。個人的には日本のプロ野球でプレーして欲しかった。

 
 さて、著者のロイドジョンズは、ロンドンのウェストミンスターチャペルで長年牧師をしていた。20世紀最大の説教者の一人と言われている。
 著者は、本書で「教会の本質」、「教会論」について説教をしている。「教会とは何か」という問いの答えを真に発見できる場所は新約聖書(特に使徒の働き2章)であるとしている。
 
 使徒の働き2章40-48節にはこのように書かれている。
 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
 
 

 本からの引用。「教会とは何か。第一に、それは明らかに人々の集まりである。、、、、この世も人々の集まりである。この世も様々な目的で集う。、、、、一体、ここに集まった人々の大きな特徴は何だったのか。それは、明らかにこの人々が「非常に重大な変化」を経験していたということである。それゆえに彼らは一緒に集まった。、、、、彼らに起こったことは、聖霊の御力の下にあった使徒ペテロの説教の直接的結果である。、、、、この人々に何が起こったのか。彼らは、このメッセージが自分に直接語られていることに気がついた。、、、彼らは神によって召された人々である。、、、、教会は、神が自分を召したということを自覚している人々の集まりである。、、、、皆さん、もしあなたが罪人しての明確な自覚がないなら、クリスチャンであることはできないし、教会員であることはできない。、、、、、彼らは単に罪を自覚しただけではない。彼らは悔い改めた。神を信じ、告白することを認めた。彼らは主イエス・キリストに関するメッセージを信じた。。、、、、そこで彼らは教会に加わった。、、、、、彼らはこの世から分離され、福音と教会に属すようになったのである。、、、、そしてそれ以後、教会は、彼らの生活の中で重大な比重を占め、生活の中心となり、最大の関心事となった。ここに、人々の偉大な一致の理想図を見ることができる。」

 イエス・キリストの弟子であるペテロがイエス・キリストの十字架と復活の説教をした。すると人々はペテロの説教に応答し、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを自分の救い主と信じ、罪の赦しのためにバプテスマ(水の洗礼)を受けた。そして弟子の集まりである教会に加えられた。


 続いて本からの引用。「 彼らはどのようにして、新しい与えられた生命を表明したのだろうか。その答えは、彼らがしたように一緒に集まることによってであった。聖書が記録しているように彼らは「毎日」集まった。彼らは「心を一つにして集まり続けた。」 これが真の教会の特徴であった。彼らは「一緒に集まった」「毎日」「心を一つにして」「継続的に」。、、、、彼らは教会の中で全時間を費やしたいと願った。心を一つにして「継続的に」集まった。彼らはそれを「毎日」行った。教会は彼らの中心であり、最大の関心事であったからである。彼らを教会から切り離すことはできなかった。、、、、では何のために彼らは集まったのか。答えは聖書の中にある。彼らは、使徒たちの教理を堅く守り続け、そして交わりをし、パンを裂き、祈るために集まったのである。ここに、もちろん、私たちが強調しなければならないことがある。ここで非常に重大なことは、これらの事柄が並べられている順序である。最初に述べられているのは、「教理、教え」であって、「交わり」ではないことに気づくだろう。、、、、「教理」は「交わり」に先行する。そして私たちの交わりが教理に基づいていたものでないならば、それはクリスチャンの交わりではない。それはこの世の交わりであり、人間的交わりである。、、、、、そういうわけで、私たちは使徒の教え、教理への探求を第一としなければならない。そして後、ただその後に、それを土台として交わりが来る。 」

 教会の集まりは、教理と教えが何より最初に来なければならない。すなわち神のみことばである聖書が中心である。人間の考えではなく、まず神の考えを聞くのである。人間的な交わりはその後だ。これは「信徒を目覚めさせよう」の著者オク・ハンフム牧師も書いていたことだ。弟子訓練の三つの要素(神のみことば、ご自身の模範、弟子たちの実践)のうち最初に来るのは、神様のみことばである。



 「交わりは、必然的に、使徒の教えの後から生じてくるものである。「類は友を呼ぶ」と言うように、交わりが生まれるのは、当然のことである。、、、、さて次は、パンを裂くことである。それは主の聖餐を意味する。彼らは、キリストが再び来られるまで、キリストの死を宣言しようとした。」

 著者は、教えの後に、交わりと聖餐(パンとぶどうジュースにあずかる。イエスキリストが十字架上で裂かれた体と流された血を覚える)が続き、そして祈り、喜びや賛美と他の人々の救いが続くと説教をしている。


 「皆さん、これこそが、いつも真の教会の特徴であった。教会がこのようになるとき、教会は、外部の人々を引きつける磁石となるのである。私たちが御霊の喜びと歓喜を持っているのを人々が目撃する時、彼らは、私たちに聞くために教会へ押し寄せて来るのである。」

 ロイドジョンズ師の本はいつ読んでも本当に分かりやすく素晴らしい。私が大好きな著者の一人だ。



 

12月28日(金) 「商売で大事なことは全部セブン・イレブンで学んだ②」 岩本浩治著

2012-12-28 09:07:28 | 日記

 本書をすべて読み終えた。昨日は第1章~5章から引用したが、今日は第6章~10章である。

 本からの引用。「 「絞込み」とは、政策的にあえて商品アイテム数を減らしていく行為です。草創期のセブン・イレブンの品数はおよそ3400アイテムでした。それが3000アイテムとなり、2800アイテムとなり、今では2500アイテム前後です。一方、競合コンビニのアイテム数はおおむね2800~3000アイテムといったところですから、彼らの品数がいかに少ないか、理解していただけるものと思います。、、、、、「絞り込むと選ぶ楽しさがなくなってしまう」という人がいます。確かに一理あります。しかし、「欲しいものがある」は「選べる楽しさ」に勝ります。そう考えると、絞込みとは「小さな売上を捨てて、大きな売上を拾う作戦」と言えるかもしれません。、、、、、売れない時代には皆が売ることに夢中になります。けれども、売れない時代にこそ、「売ること」よりも「取り除くこと」が重要です。カテゴリー管理でも「売ること」はできます。しかし、単品でも管理しなければ「取り除くこと」はできません。 」

 アイテム数を減らす「絞込み」「取り除き」は大事だと思う。著者が言うように小さな売上を捨てて大きな売上を得るためである。そのためには一つ一つの野菜と果物の単品管理をもっと厳密にやっていく必要があるだろう。



 「要は、お客様が足を止めてくれるのは、欲しい商品があった場合と、新しい商品を見つけた場合の2回だけです。」

 「単品量販とは、一つの商品をドカンと取って売りまくることです。単品量販とは、「この一品、誰よりたくさん売ってみたい」という思いから出発し、高い販売目標を掲げ、それに挑戦することです。、、、、単品量販の効果について補足します。第一に、この手法には潜在ニーズを超えた販売実績を作り出す力があります。たかが一品に破格の販売スペースを割り当てるというその異常性が、空間の注目度を高め、そこに置かれた商品の魅力を実力以上に増加させます。第2に、波及効果として単品量販は、対象商品のみならず、その周辺に位置する類似商品の売上までアップさせてしまう場合があります。」

 「 「売れる」のではなく、「売ってしまう」のです。「商品の魅力に応じて」ではなく「狙いを定めた商品に対しては例外なく大量に」です。それ故に、ここが大切です。だからこそ、「売り切る力」を身につけた店ないし集団には、売り切る力が強大になればなるほど、売り込む商品の選定に関しては慎重にならねばなりません。 」

 欲しいと思われる価値がある生産物、季節に出てくる新しい生産物を用意することが大切である。そして自分たちが生産している主力生産物に大きなスペースを割り当て(自分たちが作る生産物も常に検討する必要がある)、大量に、売り切る力が必要である。

 

 「単品管理サイクル(仮説、実施、検証)とよく似た概念に、「経営管理サイクル(PLAN、DO、SEE)」があります。しかし、この二つのサイクルには決定的な違いがあります。回転のスピードです。PLAN、DO、SEEの一回転は通常1年。これに対して仮説、実施、検証の一回転は長くても一週間です。、、、、、52回も工夫すれば、52回も挑戦すれば、、、どんな商品だってうまくなります。どんなに下手な演出だって上達します。誰だって賢くなります。「取り除く力」と「売り切る力」が単品管理の車の両輪であるとするなら、「単品管理サイクル」は両輪を駆動するエンジンに該当します。」

 「 「30坪の売り場が売上を上げている」と考えるのではなく、「一品一品の売上の集積が日商である」、そう考えてお客さまの変化に小さく、素早く、しつこく、食らいついていくのが単品管理です。 」

 この冬に来年のための大きな経営管理サイクルを考える必要がある。また来年直売をしながら週ごとに検証していく必要もある。その際に大事なことは「何を取り除くべきか」と「どのように売り切るか」であることを学んだ。特にどのように大量に売り切るかである。今年の直売所は3つ(自分たちが主体でやっているホームセンター内での直売所が2箇所、秋頃私が交渉して参入した地域の直売所が一箇所)だったが、来年は5つになる予定。一つは札幌のホームセンター内での直売所。もう一つは見学に行き私が先日交渉したアウトレット内の直売所。来年スタートするこの2つはとても大きく確実に人々が集まってくるのでスゴイ可能性があると思っている。この5つの直売所での販売を成功させたい。今後も売る場所(販路)は増やしていきたいと考えている。その意味でセブン・イレブン式の単品管理はとても勉強になった。

 

12月27日(木) 「商売で大事なことは全部セブン・イレブンで学んだ」 岩本浩治著  商業界

2012-12-27 08:43:21 | 日記

 著者はセブンイレブンで働いたことのあるコンサルタントだ。本書の副題は「単品管理」である。

 本からの引用。「タンピンカンリの真骨頂は、過去の情報の流れから妥当な数量を導くのではなく、根拠(これを仮説と言いますが)をもって異常な数値に挑戦し、それを達成することにある。」

 「売れる商品だけを売って、売れない商品は取らないこと。そのためには今、何が、幾つ売れているのか、単品ごとにチェックすること。、、、、、売れない商品は売り場から排除、空いたスペースには新しい商品を置いて様子を探る。駄目ならまた別の商品に入れ替える。ニーズの大きい売り場は広げて、ニーズの小さい売り場は縮める。それをひたすら繰り返しました。果たして、売上は上がりました。在庫は減りました。」

 「売れる店、売れる棚には共通点があります。それは、お薦め商品が一発で分かるということです。今日、「いろいろなものを取り揃えておりますから、ご自由にお選びください」というような売り場では、お客様は何も選びません。お客様が興味を持つのは「ちょっと待って!この商品だけは見てって!なぜならば、、、」と語りかけてくるような商品です。買い手が欲しいと思うのは「売り手自身がほれこんでいる商品」「その一品に対する絶対的な自信が伝わってくるよう商品」です。、、、、10種類のおにぎりがあるとします。その中に、3個ほどまずいおにぎりが交じっているとします。どうなると思いますか?その店のおにぎりの売上げは確実に落ちます。間違ってまずいおにぎりを選んでしまったお客様は、非常に高い確率で、もうその店でおにぎりを買わなくなるからです。まずいおにぎりだけが売れなくなるのではありません。その店のおにぎり全体が売れなくなるのです。」 

 「 ”価値ある商品”だけで売り場を満たすこと。すなわち「価値訴求」です。「価値」とは、完璧な品質です。食品では、抜群の鮮度であり、絶対的なうまさです。、、、、確かに、奇抜なパッケージや値頃感のある商品は売りやすいし、少し目立たせただけでもポンと反応が返ってきます。しかし、価値がなければ一回売れて終わりです。これに対して、価値ある商品の訴求に投じた販売スペースと労力は、短期的に見れば割に合わないように思えるかもしれませんが長続きします。それがきっかけとなって固定客がつき、アピールし終えた後でもリピート購入される場合が多いのです。、、、、価値なき商品の混入はボディブローのように効いてきます。出来の悪い商品は、売れば売るほど足にきます。特に、チェーンストアではその影響は個店にとどまりません。だから「価格訴求」でも「売れ筋訴求」でもなく、「価値訴求」なのです。」
 

 以上の文章は本当にその通りだと思う。一品に対する自信が大切だ。農業の直売で考えると、私たちが自信を持って売ることのできるものを生産しなければならないし、そのようなものだけを店頭に並べなければならない。また協力してもらっている農家さんたちも同じで、彼らが自信を持っている生産物を持ってきてもらわなければ困る。まずいものや品質の悪いものがあると、買い手は離れてしまう。気をつけなければならない。それは今年気をつけてきたつもりだが、来年は更に自信を持って売ることのできる美味しく新鮮な農産物(野菜や果物、加工品)だけを並べていくようにしよう。今、どの野菜と果物を消費者は買いたいと思っているのかをよく考えて、それらの生産物を揃えていくようにしたい。また売れないものは取り除く必要もあるだろう。売り場全体(直売所全体)で考えるのも大切だと思うのだが、まずは一品ごとにしっかり管理していきたいと思わされた。