今日で2012年が終わる。今年は自分にとって変化の多い一年であった。埼玉での牧師職を辞任し(属している教団から牧師になるための按手を受けているので牧師であることには変わりがない。できれば来年の秋頃北海道で、埼玉の教会の子教会として新しい教会をスタートしたいと願っている)、埼玉から北海道へ移って来て(まだ引越しは終わっていないが)、農業の手伝いをした(本格的な農業の仕事は来年からだ)。昨日、「一年間の導きと守りを感謝します」と近隣の教会へ行って、神様に礼拝を家族で捧げてきた。牧師の説教箇所は、詩篇103編1ー2節「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」からだった。説教の中で「良いこと探しをしましょう」と勧めがなされた。
さて「共に生きる生活」で、ボンヘッファーは交わりの大切さと一人でいることの大切さの両方を書いていた。一人でいることについて著者は続いてこのように書いている。本からの引用。「キリスト者は、一日の中で、一人でいるための一定の時間を必要とする。それは、次の三つの目的のためである。すなわち、(1)聖書を読み、思いをめぐらすこと、(2)祈ること、(3)とりなしのためである。これら三つのことは皆、キリスト者の日ごとの黙想の時間に見出されねばならない。、、、、、黙想の時は、我々を、一人でいることの空虚さと深淵の中へと沈みこませるのではなく、我々を御言葉と共に一人でおらせる。そのことによって、我々に、立つべき確かな根拠と、なすべき歩みへのはっきりした方向とを与える。、、、、我々は、神の言葉を、我々のための神の御言葉として読むのである。、、、、聖書を一人で読むことによって、我々は祈りへと導かれる。我々は既に、最も良い祈りの方法は、自分が聖書の言葉によって導かれることであり、聖書の言葉に基づいて祈ることである、ということを述べた。、、、、我々はの個人的な祈りを、聖書の言葉と関係させて祈るように、我々はまたとりなしをもって祈るべきである。」
早朝の時間に、(1)聖書を読み、神様からの語りかけを聞き、思いをめぐらし、(2)聖書のことばと神の語りかけに正しく応答できるように聖書を用いて祈り、(3)他の人たちのためにとりなし(神とその人の中に立って仲介すること)の祈りを神様に捧げていきたい。教会開拓の前に(共同体の交わりを持つ前に)もう一度、一人でいることと一人で立つことの大切さを覚え、一人の孤独の時間が充実していくことを願う。