牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

5月30日(木) 「渡辺善太全集6<聖書論> ⑨」 渡辺善太著

2013-05-30 22:37:05 | 日記

 聖書正典の統体的神学的理解の続きである。聖書の本質はキリスト証言であるが、著者は全体としての聖書を全体として保たせているものは何かと問い、聖書全体の構造の「縦」の関係と「横」の関係とにおいて保たれている、と答えている。縦の関係とは聖書における「救済史」であり、横の関係とは聖書における「終末観」である。終末観とは、最後に主イエス・キリストの再臨によって、黙示録における創世記(人間の堕落)の回復がなされていくことである。

 
 ここでは「縦」についてのみ引用する。「我々の考察は、まず「縦」の方向から始められる。証言としての聖書正典は、それぞれ全く相異なる66冊の書物を、その矛盾と相克とをこえて、一つの統体たらしめているあり方をもっている。前述のごとく、このあり方の示す縦の構造が、「救済史的」である。、、、、、キリスト証言たる全体としての聖書の秩序は、縦の線と横の線とよりなると言われ、更にその縦の線とは聖書の救済史であると言われた。「救済史」とは救済信仰の現在に立って、その過去を再解釈したものである。これは小にしては個人の過去の信仰的再解釈であり、大にしては民族または教会の信仰的再解釈となる。、、、、、聖書はこの救済史においてそのキリスト証言の秩序の縦の線をもっている。したがって救済史理解とは詳しく言えば、旧約書においてはイスラエルに対する、新約聖書においては教会に対する・神の救済の恩寵について、正典自身が示しているその歴史的形態における展開を見ることである。」

 救済史とは「救いの歴史」のことである。イエス・キリストの十字架と復活がその頂点である。縦と横の線によって編まれている聖書の統合について、この項目の最後で著者はこのように書いている。「ダマスコ絨毯の織られる時、その現われている面は諸種の糸が交錯した、一つの乱雑きわまる面でしかない。しかしそれが織り上げられて後、ひるがえされる時、そこには見事は一つの織模様を現わしているダマスコ絨毯の表面が現わされてくる。最初のページより最後のページまで、人の言語と人の文字と人の表現とをもって記された、聖書なる一巻の書物は、この織り上げられた瞬間において、裏返される時、そしてこの出来事からそのいっさいが見直されかつ展望される時、そこにそのいっさいが「神の言葉」となって現前することとなるのである。」

 

5月29日(水) 「渡辺善太全集6<聖書論> ⑧」 渡辺善太著

2013-05-29 16:11:26 | 日記

 著者は続いて聖書正典の統体的神学的理解について論じている。ここでは「この聖書は何によって統べられているか」という問いに答えようとしている。別の言葉で言えば「聖書とは何か」という問いになるであろう。

 本からの引用。「聖書はそこに現存している一つの書物である。我々がこの聖書を見る時、そこに見るのはそれが一つの書物であり、一つの全体であるということで、我々は何よりも先にこの書物において全体的なものあるいは統一的なものを見るのである。」

 著者は「聖書とは何か」という問いに対してこのように書いている。「 「この聖書は我につきて証するものなり」という、ヨハネの福音書5章39節の言葉は、キリストにつきて「証言するもの」という一句をもって我々の問いに答え、旧約書の聖書としての本質をとらえている。この表現は新約書中の他の著者らの、この一点を表現せんとして用いているそれぞれの特殊の部分的表現を、最終的に一つに総合したものである。、、、、アブラハムと我々とは、十字架を中にして、これより二千年ずつを隔てて相対しつつ、信仰において、聖霊によって、「同時的」にキリストを見ているのである。、、、、、ヨハネ伝著者は旧約書の本質を「キリスト証言」という一句をもって把握していることは、同時に新約書全体がこの信仰と意図とにおいて記されたものであることを示している。 」

 著者は聖書において示されている「キリスト像」を大きく四つに分けている。
 1.福音書におけるキリスト像
 2.書簡におけるキリスト像
 3.黙示録におけるキリスト像
 4.旧約書におけるキリスト像


 著者は、聖書の本質はキリスト証言である、と述べている。

5月27日(月) 「渡辺善太全集6<聖書論> ⑦」 渡辺善太著

2013-05-27 20:34:28 | 日記

 著者は聖書正典の発生的歴史的理解に続いて場所的論理的理解について述べている。

 本からの引用。「聖書はそこに置かれている一巻の書物であり、一つのまとまったものとしての姿を持っている。この一巻の書物であり、一つのまとまったものとしての姿を持つ聖書について、我々は前章において、「この聖書はどうしてできたか」という問いに答えんとした。この問いはしかしこの一巻の書物としての聖書について問われるべき、すべての問いを尽くしてはいない。これに対して当然問われるべき次の問いは、「聖書はいかに組み立てられているか」という問いである。この二つの問いは厳密に区別せられなくてはならない。、、、、、「この聖書はどうしてできたか」という問いを問う者の全関心は、この書物内容となっている「材料」としての66冊と、それらが結集せられるまでの「過程」とに対する解明に向けられる。従ってこの問いはもっぱら「過去」的に考察せられ、かつ答えられるよう努められる。、、、「この聖書はどう組み立てられているか」という問いを問う者の全関心は、もっぱら一巻の書物としての「形態」とその「組成」とに対する解明に向けられる。従って、この問いは、もっぱら「現在」的に考察せられ、かつ答えられるべきである。、、、、、第一の問いは発生過程へのそれとして、それは当然発生的歴史的なる答えを予想したが、第二の問いは現形組成への問いとして、それは当然場所的論理的なる答えを予想するもので、両者は厳密にそして明瞭に区別せられる必要がある。」

 「聖書が結集せられて、そこにまとまった一巻の書物として存在する時、その「組成」または「成立」を問う場合、これに対して三つの組成的「要素」を持って答えが与えられる。その一は「結集せられたもの」で、その二は「結集したもの」である。前者は66冊の書物(旧新約聖書)で、後者はこれらを集めた「キリスト教会」たる結集者である。しかしこの二つだけでは「結集」という事実は説明せられない。そこには第三のものが既存していなければならない。書物が集められ・教会が集める・という場合、これが集められ、そしてこれを集める「場所」があるはずである。換言すれば結集という事実には、「何が」集められ、「誰が」集めるか、という問いのほかに「どこに」集められ・集めるか・という問いがあるはずである。「場所」が考えられずして、集められることもできなければ、もちろん集めることもできない。これが「組成」への問いに対する答えの第三の要素である。」

 著者はこの後、場所的論理的理解について様々な説明をしているが、分かりにくかった部分があった。また特に心に残る文章もなかったので、結論部分だけを引用する。「本章全体の論述において、一つのことが明らかになってきた。それは一巻の書としての聖書に対する十全なる理解としては、本章の組成的論理的理解を持ってしては、はなはだ不十分であるということである。すなわち聖書の場所的論理的理解は、必然的に聖書の全体的あるいは統体的理解に至らざる限り、それ自身を全うすることができないということである。すなわち聖書を場所と個物との関係において理解する理解は、これを全体と部分との関係において理解する理解に進む時、初めてそれ自身を全うするのである。場所とは一つの「匿名」的用語であり、統体とは一つの「記名」的用語である。場所を語る者は必然的に統体を語らなければならない。場所において語られつつ隠されていたことが、統体においてあらわに、その名を持って語られるのである。我々の次の課題はこの意味において、聖書正典を統体的神学的に理解するということである。

5月26日(日) 「渡辺善太全集6<聖書論> ⑥」 渡辺善太著

2013-05-26 11:53:14 | 日記

 著者は、聖書正典の発生的歴史的理解について書いている。

 本からの引用。「キリスト教会の正典としての聖書は、66冊の相互に相異なる書物をその内容とし、現にそこに一巻の書とせられている書物である。この書物に向かい、これを理解せんとするに当たり、いかなる人にも直接にそして最初に起こる問いは、その「現形」と「発生」とに対する問いである。、、、、聖書正典はその内容として66冊の相互に相異なる書物を含む一巻の書である、と言われたが、それはその66冊の個々の書物が、それぞれおのおのの発生的過程を持ち、更にそれらが聖書という一巻の書にまとめられたというその歴史的過程を持っていることを示している。このことは極めて当然なことであって、聖書正典もそれが人間の文字で、人間の言語で、人間の表現で書かれているものであり、人間の集団としての教会によって結集せられたものである以上、他の一切の文庫または双書の場合と同様、その個々の書物についてはその発生的過程を、その結集せられた形については、その歴史的過程を持っているはずである。」

 著者は旧約聖書と新約聖書の両方において発生的歴史的過程を記しているが、ここでは新約聖書について引用する。「使徒らおよびその補助者の書簡が諸教会で読まれたと共に、これらの福音書も上述のごとき関係によって教会で公読せられたのであった。これらの書物が教会で公読せられるようになったということがそこに新しく教会の公読を予想して一つの書物を記すということを発生せしめた。」


 続いて本からの引用。「第二世紀中葉になると、そこに新しい情勢が発生してきた。多くの地域に存在していた個々の教会に、徐々に連関ができてきて、そこに一つの有機的ともいうべき教会世界が形成せられてきた、そしてその世界においては秩序と慣習とが生まれてきた。ここに「正典」への信仰的積極的要請と実際的消極的必要とが意識せられるようになった。「信仰的積極的要請」とは、一言に言えば「新しき契約」に対する契約文書への要請であった。旧約聖書は教会において新しく再解釈せられ前述のごとく教会の「聖書」となり、「神の言葉」となったが、しかしその「再解釈」が理論的に徐々に考察せられるようになった。」

 著者は「実際的消極的必要」に関しては、ユダヤ人やグノーシス派やモンタヌス派の異端との戦いのために「正典」が必要となってきたと記している。そしてこのように書いている。「以上の信仰的積極的要請と実際的消極的必要とが、紀元二世紀中葉から、「使徒的」にして「公同的」なる「客観的」正典を、「新契約」に対する文書として形成せしめる機運を作ってきた。」


 この項目の結論部分からの引用。「以上聖書正典を発生的に見てきたが、その結論として我々は何を得たであろうか。ほとんどすべての正典結集史研究者の結論は一致していると言うことができる。その代表的な言葉としてグレゴリの言葉をあげることができる。「、、、、新約書中の書物の数というものはただ自然に生成したものである」とは、彼がその「新約書の正典と本文」の正典の部分における結論として記している言葉である。この意味において、第18世紀の合理主義神学者ゼムレルの「カノンとは、教会で朗読せられる為に定められた書物の目録である」という定義は、今日なお妥当性を持つという主張が成り立つ。」