聖書正典の統体的神学的理解の続きである。聖書の本質はキリスト証言であるが、著者は全体としての聖書を全体として保たせているものは何かと問い、聖書全体の構造の「縦」の関係と「横」の関係とにおいて保たれている、と答えている。縦の関係とは聖書における「救済史」であり、横の関係とは聖書における「終末観」である。終末観とは、最後に主イエス・キリストの再臨によって、黙示録における創世記(人間の堕落)の回復がなされていくことである。
ここでは「縦」についてのみ引用する。「我々の考察は、まず「縦」の方向から始められる。証言としての聖書正典は、それぞれ全く相異なる66冊の書物を、その矛盾と相克とをこえて、一つの統体たらしめているあり方をもっている。前述のごとく、このあり方の示す縦の構造が、「救済史的」である。、、、、、キリスト証言たる全体としての聖書の秩序は、縦の線と横の線とよりなると言われ、更にその縦の線とは聖書の救済史であると言われた。「救済史」とは救済信仰の現在に立って、その過去を再解釈したものである。これは小にしては個人の過去の信仰的再解釈であり、大にしては民族または教会の信仰的再解釈となる。、、、、、聖書はこの救済史においてそのキリスト証言の秩序の縦の線をもっている。したがって救済史理解とは詳しく言えば、旧約書においてはイスラエルに対する、新約聖書においては教会に対する・神の救済の恩寵について、正典自身が示しているその歴史的形態における展開を見ることである。」
救済史とは「救いの歴史」のことである。イエス・キリストの十字架と復活がその頂点である。縦と横の線によって編まれている聖書の統合について、この項目の最後で著者はこのように書いている。「ダマスコ絨毯の織られる時、その現われている面は諸種の糸が交錯した、一つの乱雑きわまる面でしかない。しかしそれが織り上げられて後、ひるがえされる時、そこには見事は一つの織模様を現わしているダマスコ絨毯の表面が現わされてくる。最初のページより最後のページまで、人の言語と人の文字と人の表現とをもって記された、聖書なる一巻の書物は、この織り上げられた瞬間において、裏返される時、そしてこの出来事からそのいっさいが見直されかつ展望される時、そこにそのいっさいが「神の言葉」となって現前することとなるのである。」