牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

12月31日(火) 「11/22/63 下」 スティーヴン・キング著

2013-12-31 09:26:05 | 日記
 
 本書は時間旅行小説である。主人公が兎の穴を通って、1958年の9月9日午前11時58分に行き、1963年の11月22日に起こるアメリカ大統領ケネディーの暗殺を食い止めようとする。

 本書に何度も出てくる言葉は、「過去は強情で、変えられることを望まない」だ。だから主人公は過去を変えるのに悪戦苦闘する。その中でセイディーという女性を愛する。しかし、彼女になかなか本当のことを話すことができない。本名と自分が2011年という未来から来たことを。ついには、彼女に真実を話し、共にケネディー大統領暗殺を食い止めようとするようになる。

 ただ個人的な感想を言えば、著者の切り口と下巻の始めまではとても面白かったが、下巻途中から、すなわち本題のセイディーとのロマンスとケネディー大統領暗殺を食い止める段階に入ってからは、物語が失速してしまったと感じた。それはもしかしたら、私が日本人であるからかもしれないし、アメリカの世界に入り込んでいけなかったからかもしれないが。

 でもそのプロジェクトが完了した後(主人公の計画通りではなかったが)、物語は勢いを取り戻し、とても面白くなっていく。すなわち結局はケネディー大統領が死んでしまった後の話だ。

 主人公は未来の世界(自分が生きていた2011年の世界)へ帰っていく。そこで待ち受けていたのは何か。これが面白いというか、こわい。その一つが大地震によって北海道を含む日本が消えてなくなっていることだ。またもともとは起こるはずではなかった原発事故がアメリカで起こってしまう。過去が変わることによって、未来が大きく変わってしまったのだ。

 彼はまた過去へ行くのだろうか?(彼がまた1958年へ行けばすべてリセットされる) セイディーとの関係は結局どうなったのだろうか。さすがにこれを書くのはやめておく。本書を読もうとする人の楽しみを奪ってしまうので。


 2013年が終わろうとしている。今年様々な本を読んだ。来年どのような本と出会えるか楽しみだ。
 

12月29日(日) 「ふしぎなキリスト教③」

2013-12-29 17:52:51 | 日記

 本書第3部のタイトルは、いかに「西洋」をつくったか、である。第3部の議論が一番まともだと感じた。それはおそらくキリスト教を社会学的に論じているからだ。これなら彼らにもできるだろう。しかし、第1部と第2部の内容を論じるには、彼らには荷が重すぎたようだ。キリスト教の歴史についてはある程度論じることができるが、「唯一神」や「イエス・キリスト」などの神学的なことは論じる力がなかった、と見るのが自然だと思う。


 彼らは聖書をユダヤ的視点で読むことが全くできていない。現代の日本に住むクリスチャンの多くもそうではないかと感じる。私も含めてもちろん誰でも完全に自分が生きている時代と文化から自由になることはできないだろう。しかし、聖書を読む上で(学ぶ上で)一番大事なことは、聖書をそのまま受け取ることである。すなわち聖書66巻はすべて神の言葉である、ということを信じることだ。それも基本的には文字通り受け取ることである。これが多くのクリスチャンという人たちには難しいようだ。これは私の牧会経験から言えることだ。

 現代の(自分の)フィルターを通して聖書を読んでしまうわけだ。例えば、癒しについて。聖書では、神は癒し主(出エジプト15:26)であると書いている。これが神の名前なのだ。またイエス・キリストは多くの人々の病を癒している。それが神の御心だからだ。なぜならイエス・キリストは父なる神の願っていること以外はしない、と言っている(ヨハネの福音書5:19)。そのイエスが弟子たちに病を癒すことを命じた(マルコの福音書16:18)。ここから分かることは、病の癒しは神の御心(神が願っていること)だということだ。しかし、多くのクリスチャンと教会がすることは何かというと、こういうことだ。現代は医者がいるから、病気の癒しは医者と病院にまかせるべきで、クリスチャンと教会は癒しに関わるべきではない、またアフリカなどの発展途上国には癒しが必要かもしれないが、日本は先進国だから必要ない、もっと心の問題を扱うべきだ、新興宗教が熱心に病の癒しをしているから、癒しをすると怪しまれるからするべきではない、といったものだ。本当にそうだろうか? 医者と病院には大いに感謝するべきだと思うが、だからといって神の計画と神の心が変わり、イエス・キリストの命令は無効になってしまったのだろうか? 答えは、ノーである。今でも癒しは神が願っていることであり、教会にして欲しいと思っているのだ。聖書は時代と文化を超越しているからだ。もちろん心の問題も大事である。だからといって病の癒しという体の領域を軽んじるわけにはいかない。

 あともう一つ例をあげよう。平等について。神から特別に愛され選ばれている国があるか。現代の考えから言えば、人間皆平等ということになるかもしれない。しかし、聖書の主張は明らかに違う。神はアメリカ人よりも日本人よりもヨーロッパ人よりも特別扱いしている国があるのだ。それはイスラエルであり、ユダヤ人だ。現代の考えから言えば、それは違う、ということになり、パレスチナを擁護したくなるだろう。でも聖書は疑うことができないほどイスラエルを特別に扱っているのだ。それは変わってしまったのだろうか?答えは、ノーだ。神の心と計画は全く変わっていないのだ。

 思いつくままに二つの例を挙げたが、考えればいくらでも例を出すことができると思う。クリスチャンでない人ならそれを信じなくて別に良いのだ。私が念頭においているのは、クリスチャンと自分で思っている人たちだ。クリスチャンとは、聖書が神の言葉である、と信じている人のことだ。こういう人もいる。聖書をすべて信じていないが、イエス・キリストを信じています。このような考えが成り立つと信じているクリスチャンは論理というものを全くといってよいほど理解できていない。

 聖書を信じるから、聖書に書いてあるイエス・キリストの言葉と行動を信じることができるのだ。これが順番だ。逆はあり得ない。今の時代に生きている限り、それ以外の理解の仕方はできないだろう。今は2000年前なのではないから。実際にイエス・キリストをこの目で見ることができないのだから。なぜイエス・キリストを信じることができるかというと、イエス・キリストに近くいた使徒たちのキリスト証言である福音書、または復活のキリストと出会ったパウロが書いた書簡(手紙)が、聖霊に導かれて書かれ、同じ聖霊が特別に働いた教父たちの教会会議によって、聖書に残る福音書や手紙が選ばれたと信じることによってである。もしこれを抜きにして、使徒たちによって書かれた自分が理解できない箇所を信じないが、イエスだけを信じます、というなら、その人はそのイエスの言葉と行動も使徒たちによって書かれたものでことを覚えなければならない。私が言いたいことは聖書に優先順位をつけることはできない、という事実だ。もし聖書の一箇所を否定するなら(信じないなら)、他の聖書箇所も正しいかどうか疑わしい、ということだ。

 すなわち、聖書の一部分を信じるが、一部分を信じないという道はないのだ。100パーセント信じるか、信じないか(一部分しか信じないということは、実はその信じている一部分も正しいかどうか分からないということになる)の道しかない。だからイエスだけを信じます、というのは成り立たない論理なのだ。このように表現することが許されるのであればそれはイエス教であり、キリスト教ではない。私が願っていることはクリスチャンと自称する人たちが三位一体の神(父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神)を信じることができるように、また聖書をすべて神の言葉と信じることができるようになることだ。そうでないなら、自分がクリスチャンであることを疑うことが必要になってくる。それが論理というものだ。その上で信じるか、信じないかは各個人の自由である。しかし、聖書の一部分だけを信じることができるという、愚かな考えだけはやめた方がよい。何がふしぎと言えば、そのように考えることが可能だと思っているクリスチャンがいることが、一番ふしぎである。




12月28日(土) 「ふしぎなキリスト教②」 

2013-12-28 10:02:58 | 日記

 第2部のタイトルは、イエス・キリストとは何か、である。著者たちは、キリスト教のふしぎさとしての(ユダヤ教とキリスト教の決定的な違いとしての)、核心であるイエス・キリストについて議論する。まずイエス・キリストが歴史的な人物として実在したことを認めていく。

 その上でこのように書いている。これはまともな意見である。「イエスについての出来事とは独立に、イエスの言ったことだけを信じる、というわけにはいかないのです。キリスト教の信仰とは、イエスについての歴史的な出来事にコミットすることですし、イエスの真理は彼の語ったことの中にのみあるわけではなく、彼が関わった出来事全体の内にある。イエスが生まれ、いろいろなことがあった後に死んで、そして復活したという出来事は、キリスト教の真理の中心です。だからこそ、イエスの存在が歴史的な事実であるかどうかというのはすごく重要なことなんですね。」


 ここまで読んで私はこの本は駄作であると感じているが、時々まともな議論もある。イエスの言葉が特に大事で、イエスの行動よりも価値がある、とするクリスチャンがいるようだ。それはかなり危うい聖書観である。なぜなら私たちは聖書の正典性を信じている。それが大前提である。渡辺善太師もそのことに言及している。すなわちイエス・キリストの使徒たちがイエスの言葉と行動の両方を記したのである。例えばイエスの言葉だけ、イエス本人が書いたというのであれば話は変わってくるかもしれない。しかし、事実は違う。聖書は聖霊の導きのもと、使徒たちが書いたのである。もしイエスの言葉が重要でイエスの行動は重要でないというように、自分たちで聖書にランク付けをしていくなら、すべてが神のことばであるということにはならなくなる。なぜならイエスの行動についての記述はイエスの言葉より劣っているわけだから。ということは、それは人間の言葉に近づいていく。このような人たちは、神論についても似たようなことをする。どういうことか。神を高くあげ、もしくはイエス・キリストを高くあげ、聖霊を軽んじ、聖霊を貶める。その結果、信仰告白では聖霊を信じるというのだが、いったい聖霊の何を信じているのか。聖霊の存在を信じているだけで、聖霊の神性を信じなくなる。信じるとしても父なる神とイエスに劣る神性である。それでは多神教と同じでその段階で聖霊は神ではなくなる。このような論理がどうも分からないクリスチャンが多い。当然その結果どうなるかといえば、三位一体論がくずれていく。場合によっては異端に走っていく。


 「奇蹟。大澤さんの言うように、奇蹟にも、ありえない荒唐無稽なものと、まあありそうなものとがある。いちばんありえないのは、「復活」ですね。」

 ここも更に突っ込んだ議論とはなっていかない。普通ありえないですね、で終わり。彼らは本当の意味で学問をやっているのか大いに疑問。C・S・ルイスの本やキリスト教弁証論の本を読んでもう少し真剣に勉強してもらいたい。

 橋爪師はこのようにも書いている。「イエスは、自分が「神の子」だとは、思っていなかったと思う。イエス・キリストが神の子だと決めたのは、パウロです。」

 確かにパウロは大事な仕事をしたが、福音書を読む限り、イエスは自分を「神の子」「神」と思っていたのは明らか。でも彼は福音書を読んでもそのようには読めない、と言う。「ユダの福音書」の解釈も弱い。「ユダの福音書」が書かれたのは、明らかに四つの福音書よりも後のものである。そこに権威を与えてイエスを解釈しようとしているのには無理がある。書けばきりがないほど、論理と議論の展開に矛盾(問題)がある。この本が日本のインテリに絶賛されているということだから、本当にふしぎである。本書を読んでキリスト教が分かった気になったら大間違いである。この本はキリスト教にかすっているだけで、中心(本質)には全く行き着いていない。



12月27日(金) 「ふしぎなキリスト教」 橋爪大三郎×大澤真幸著  講談社現代新書

2013-12-27 14:05:50 | 日記

 昨年から本書のことを知っていたが、今まで読む気がしなかった。でも今回読む気持ちが出てきて今読んでいるところだ。これは2012年の新書大賞に選ばれ、20万部を突破しているようだ。

 これは対談の形の本である。二人とも東京大学大学院社会学研究科の博士課程で学んだ大学教授(社会学者)だ。いわゆるインテリだ。本書は3つに分かれている。第一部のタイトルは、一神教を理解する(起源としてのユダヤ教)である。

 まだ第一部しか読んでいないので、はっきりと言うことはできないが、ここまで読んだ感想は二人とも浅い思考力しか持っていないなということです。彼らはインテリだと思うが(おそらく社会学者としては優れているのかもしれないが)、キリスト教を語るには(キリスト教について対談するには)、思考が徹底されていない。日本のインテリに多いと感じるのは、読書量は多く知識はあるのだが、一つのことを考えるのに思考が徹底していない、ということだ。これなら徹底された無神論者の本の方がまだマシだといえるかもしれない。

 本書が売れたことが「ふしぎ」だ。多くのベストセラーがそうであるように、この本もその例にもれることなく、「軽い」本だ。そして一番の問題は、記述の中が間違いだらけということだ。これは思想が間違いという意味ではなく、理解(事実)の間違いという意味だ。聖書に書いているのに、書いていないという具合に。

 その点、真のインテリは思考が徹底されている。例えばC・S・ルイスはオックスフォード大学で学び、オックスフォード大学とケンブリッジ大学の教授であったが、彼の本を読むと思考が徹底されていて論理的で、真のインテリジェンス(知性)を感じる。著者の二人が引用する書物もショボイので、この二人にC・S・ルイスの『キリスト教の精髄』を勧めたい。


 本からの引用。「考えてみれば、神様はたくさんいるほうがふつうですよね。」

 本当にそれが普通でしょうか。本当に真剣に時間をかけて考えたのでしょうか。神様が一人より多いなら、その存在はもはや神様ではないでしょう。他の神がいなければ成り立たないような神ならそれは不完全な神で、神とはいえないでしょう。彼らの対談の特徴は、これは普通違うでしょう、と言ってそのままその考えのもと進んでいくことだ。それが普通ではないのではないか(それは日本人の普通で世界の普通ではないのではないか)、と疑って考えていない。またはその領域における優れた著作を引いてこない。明らかな勉強不足である。自分の及ぶところ(感情的にも知識的にも)だけで簡単に判断し、決めつけてしまっている。これでは真の学問をしているとはいえない。


 ただ時々まともと思える(一理あるかなという)指摘をしていることもある。例えばこの指摘である。「一神教の奇蹟の考え方を、よくあるオカルト信仰と勘違いをしてはいけない。むしろ、オカルト信仰とは正反対です。世界は、Godが創造したあと、規則正しく自然法則に従って動いている。誰も、自然法則を1ミリでも動かすことはできない。その意味で、世界はすみずみまで合理的である。でも必要があれば、たとえば預言者が預言者であることを人々に示す必要があれば、Godは自然法則を一時停止できる。これが、奇蹟です。、、、よく、この科学の時代に奇蹟を信じるなんて、という人がいますが、一神教に対する無理解もはなはだしい。」

 橋爪氏はこのようなことも書いている。「キリスト教の多数派の人々は、科学を尊重し、科学に矛盾しない限りで、聖書を正しいと考える。キリスト教の少数派の福音派の人々は、聖書を尊重し、聖書に矛盾しない限りで、科学の結論を正しいと考える。日本では、科学を信じない福音派を馬鹿にする傾向がありますが、私に言わせれば福音派の考え方は、多数派のキリスト教徒とある意味そっくりです。こうすれば、やはり、宗教も科学も、矛盾なく信じることができます。、、、、多数派は、聖書を話半分と考える。福音派は科学を話半分と考える。」


 彼らのキリスト教知識と現代の日本人のいわゆるクリスチャンと言われている人々の多くが似たような知識(信仰)を共有できるだろう。その意味は何かというと、現代のクリスチャンと言われている多くの人たちの信仰は、本当の意味で信仰を持っているといえるか分からない、ということだ。すなわち「聖書」を信じていないのだ。聖書から学び、使徒信条を告白するが、信じていない。信じているかもしれないが、その信じているのは聖書が主張していることではなく、彼らが信じているキリスト教を信じているのだ。特に日本基督教団系や同志社系などに多い(私は全部とは言っていない。なかには本当に聖書を信じている人がいると思う。私はあくまで全体的な傾向を言っているのである)。著者は多数派と言っているし、私の友人によるとこの割合は7割くらいかもしれない、と言っていた。聖書をすべて信じているのは、クリスチャンと言われている人々の中の、実は3割くらいしかいないということだ。野球のバッターならいいが、この数字はかなりマズイ。

 橋爪氏は日本福音ルーテル教会の教会員だそうだ。もしこれが本当ならルーテル教会はかなり危機的な状況だ。教団をあげて本書を読んでいるそうだ。またリベラルのキリスト教系大学で課題図書として読まれているらしい。私はルターを尊敬しているが、ルターがこの本を読んだらびっくり仰天するだろう。聖書学的にも神学的にも混乱している。今やルーテル教会は多数派ということになるだろう。悲しい限りだ。他には何といっても日本基督教団があげられる。彼らは部分的にしか聖書を信じていない。聖書の一部しか信じていない。聖書の中に神の言葉があると信じている。その意味は、結局のところ突き詰めていけば、聖書は人間の言葉であるということだ。ひどい教会になるとイエス・キリストの山上の垂訓しか信じていない。これではただの道徳的宗教になってしまう。いわゆるトルストイ的キリスト教というか、ヒューマニズム的キリスト教である。聖書的キリスト教とは全く違うものになってしまっている。

 著者は福音派というように書いているが、これは正確には福音主義(大きく分けると福音派、聖霊派、あえてもう一つあげればカリスマ派(福音派と聖霊派の中間)に分かれる)の意味であろう。これには、長老派(改革派)、バプテスト系、ホーリネス系、ペンテコステ派、カリスマ派(第三の波)などがある。私はこの福音主義教会に属する牧師の一人であり、自分を広く言えばカリスマ派(福音派と聖霊派の中間)の牧師だと位置づけている。私は福音派よりも聖霊の働きを信じているし、いわゆる伝統的な聖霊派(ペンテコステ派)よりも聖霊の働きを限定していないというかもう少し広く捉えている。それぞれに良いところ、悪いところがあるだろう。基本的には福音主義の信仰(すなわち聖書がすべて神の言葉であると信じている)を持っている教会となら一致できると思っている。しかし、自由主義(リベラル)神学の教会とは一致できそうもない。なぜなら彼らが聖書と神(唯一の神、一神教の神、ヤハウェなる神)を本当に信じているとは思えないからである。


 
 

12月26日(木) 「聖書的説教とは?⑯」 渡辺善太著

2013-12-26 09:25:06 | 日記
 
 結論の最後の部分(前回の続き)で著者はこのように書いている。「上記述べきたった聖書的説教の「両極的福音宣教の確信」の有無は実に、この説教者の説教に対する「動因」であり、そしてその説教構成に対する「動力」なのである。もし我々が、我々の説教する聖書的十字架のメッセージが、「個人救済」を目標とするだけでなく、「悪霊打倒」もその目標とするということは、我々の「個人的確信」となった場合を考えれば、上述の意味は直ちに分かる。我々が高壇に立って、いざ説教するという時、見えざる天的悪霊に「挑戦する」のだと確信する時、それは実に、我々を「戦慄させる」力を持つ動員となり、動力となるのである。」

 「これを本気で信仰的に受け取るのと、しからざるのとでは、説教者としての「確信」において、驚異的な差異を持つ。パウロがローマ教会に宛てた手紙に、その結語として、「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」(ローマ人への手紙16章20節)と書いたのは、単なる辞令としてであったろうか?」

 イエス・キリストは悪霊を打倒することを使命としてこの地上に来られたが、イエス・キリストの使徒パウロも同様に悪霊を強く意識して、説教を語り、宣教し、教会を形成していった。しかし残念ながら現代の日本教会の多くは、悪霊がいないかのように説教し、宣教し、教会を形成してしまっている。それは主イエス・キリストが意図した(ご計画された)教会とどれほどずれてしまっていることか。イエス・キリストはこのように語っている。「わたしはこの岩の上に教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイの福音書16章18節) 分かりやすく言えば、サタンは教会に打ち勝てません、と言っているのである。すなわち教会はサタンに打ち勝ちます、ということだ。これほど明確に打倒サタン&悪霊のことが聖書に出て来るのにそれを無視している教会は何かがおかしい。霊的に鈍感である。

 著者はC・S・ルイスの『悪魔の手紙』から引用している。「悪魔に関して人間は二つの誤謬に陥る可能性がある。その二つは、同じ誤りであり、しかも相反するものでもある。すなわちその一つは、悪魔の存在を信じないことであり、他はこれを信じて、過度のそして不健全な興味を覚えることである。悪魔どもはこの二つを同じくらいに喜んで歓迎する。即ち唯物主義者と魔法使いとを同じように喜んで歓迎する。」

 クリスチャンでない人はいいとして、クリスチャンで悪魔の存在を信じない霊的鈍感な人々が大勢いる。彼らは目に見えるものしか信じないのである。それではノンクリスチャンと同じではないか。また悪魔の存在を何か比喩的なこととして理解しようとする。このような人たちは聖書(の本質)をほとんど何も理解できていない。また福音派の教会でもあまりにもヒューマニズムに陥ると悪霊の存在を無視して説教し、宣教する。それでは主イエス・キリストの説教と宣教とは全く違うものになる。もう一方で聖霊派の教会で異常に悪霊を強調するグループがある。これも不健全だ。何が不健全かと言うと、悪魔の方が主イエス・キリストよりも力があるような錯覚に陥るからである。私たちはC・S・ルイスが指摘しているようにバランスを保って悪霊の働きを聖霊の助けによって霊的に洞察していかなければならない。

C・S・ルイスは『ナルニア国物語』(最近映画化もされている)の著者として有名だが、私はC・S・ルイスは文学者としても優れているが、むしろ神学者としての方が優れているのではないかと思っている。彼は20世紀を代表する非常に優れた神学者の一人だ。「悪魔の手紙」は視点(切り口)が面白い本である。


 「本書の最後に私が願っていることは、聖書を正典とする信仰に、「神学的」に耐えうる説教者たらんことであり、そして正典としての聖書が語っている「両極挑戦」の確信に生きる説教者たらんことである。」