牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

3月16日(土) 「リバイバル④」 D・M・ロイドジョンズ著

2013-03-16 07:31:47 | 日記

 続いて本からの引用である。「我々はリバイバルを、神の栄光が通り過ぎること、つまり、神の現れであると形容してきた。、、、、私は時々思うのだが、この神の主権の問題ほど、リバイバルの時に目立って出てくる特徴はない。リバイバルは神の主権の現れの絶頂なのであるとも私は思う。それから、我々が学んできたように、神は無名の場所でそれをなさる。どこでリバイバルが突発するか、あなたは決して分からない。次のリバイバルは、大集会ではきっと起こらず、どこかのたった二人か、三人の小さな村で起こるのかもしれない。」

 私と私たちの場所は無名であるが、無限の可能性があることが分かる。なぜなら人間にはできないことが神にはできるからである。神が訪れてくださったら、驚くべきことが起こることは間違いない。これは大きな励ましである。


 「リバイバルは、神が特別な時と環境で、その民にご自身を現されるということだ。さて、我々がリバイバルを渇望し、祈り求める究極の動機は、神の栄光のためだということを見てきた。私はこのことを強調する。というのは、リバイバルを渇望する第一の理由は、たくさんの人々が回心することではないからだ。、、、、、リバイバルとは何か。リバイバルとは、私が今述べてきたことが、神の民にとって、この世で一番素晴らしい現実となる、教会のある一時期を言う。、、、、リバイバルとは、これらのことが聖霊によって非常に明白になり、教会全体がその栄光のかすかな現れに満たされる一時期を言う。すなわち、イエス・キリストの御顔により、神の栄光を知ることができる光で満たされる時である。」


 「これは教会を奮起させ、リバイバルに導くために、神に用いられたどの人にも起こったことである。それはマルティン・ルターの心を突然燃え立たせたものである。彼は自分が育ち、かつ、所属していた教会を見た。教会はお粗末なものになっていた。彼は言った。「これは荒廃だ。これは悲劇だ」。次に、彼は新約聖書の中に、本来あるべき姿の教会、黄金のように燃えるたいまつとして、国々の前に光を掲げる神の教会を見た。彼は感動した。このようにして、あのことが起こったのである。あなたも私も、教会のあるべき姿をとらえなければならない。我々にできる言い訳はない。聖書の中にこのことが書かれているのだから。、、、、リバイバルは常にこのようにして始まる。神はこのように、誰か、つまり、一人の人または多くの人に(数は問題ではないが)重荷を負わせてきた。」

 自分自身の働きにおいて、真のリバイバルを見ることが、私の人生における一番の夢である。神に信頼される人物となりたい。