牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

2月28日(木) 「下町ロケット」 池井戸潤著  小学館

2013-02-28 10:04:34 | 日記

 本書は2011年の直木賞作品である。横暴な大企業に振り回され、存亡の危機に陥った町工場を描いたビジネス小説である。本当に素晴らしい作品であった。働いている人、特に中小企業で働いている人に、勇気と希望を与える本だと思う。ここに出てくる町工場の人たちのように自分の会社が好きで自分の仕事に誇りを持てる人は本当に幸いだ。一般的な経営書よりも質の高い物語を通して会社経営に関して多くのことを教えられた。

 主人公は宇宙ロケットの研究者だったが、打ち上げに失敗し責任を取らされ、お父さんから町工場を引き継ぎ経営者になった。小さい会社だが技術はとてもしっかりしている。しかし特許のことで、大企業に難癖をつけられ、裁判を起こされる。そのことで融資を受けていた銀行からも冷たくあしらわれ、契約先の仕事がなくなり、社内の人間関係も混乱していく。次々と問題が発生していく。その時の主人公たちの「会社と仕事」に対する情熱が素晴らしい。会社が一つにまとまって困難と危機に立ち向かっていく。でも理解できず最後まで協力しない社員もいる、、、、 社員と経営者の距離感。経営者のロケットに対する夢と現実のバランス。いろいろなテーマがある。

 大企業からけなされたことによって、皆が卑屈になり、意気消沈し、希望を失いかけ、ボロボロになっている時に、一人の社員がこのように言う。「とにかく、ウチはいい会社なんです。私がいいたいのはそれだけです。」 この言葉が社員から発せられた第5章の「佃ブランド」が私は一番感動した。

2月27日(水) 「牧師 その神学と実践⑦」 ウィリアム・ウィリモン著

2013-02-27 08:59:59 | 日記

 「教師としての牧師」に続くのが、「伝道者としての牧師」である。教師として教える前に、その人がイエス・キリストを信じていなければ、教えることはできない。道であり真理であるイエス・キリストを伝えることが最初の大事な仕事である。それは個人的な会話を通してできるし、特に説教を通してもできる。

 次は「預言者としての牧師」である。これは未来のことをあてるといった予言とは全く違う。言葉の通り、言葉を預かる者しての働きである。言葉とはすなわち神の言葉である聖書の言葉である。著者は牧師が預言者であることが難しくなっていく例としてラインホルド・ニーバーをあげている。

 本からの引用。「ラインホルド・ニーバーは、彼がまだ青年牧師だった時代に、自分が牧者(牧師)と預言者という二つの役割を負うことについて、二律背反する矛盾を感じていた。」 
 ニーバーの言葉。「ほとんどの預言者が一つの土地に定住せず、各地を巡り歩く説教者だったということは驚くにはあたらない。(中略) 私が思うに、説教者が物分かりのいい柔弱な存在に成り果ててしまう現実的な端緒とは、自分が仲良くなってしまった人々に向かって不愉快な真理を語ることに大きな困惑を感じるということから生まれてくるのである。(中略) ひとたび個人的な付き合いが始まるならば、会衆に向かって厳しい風を送るというあなたの仕事は大いに手加減されたものとなっていくことだろう。人情があって、しかも同時に正直であるということは、確かに難しいことである。それゆえに、芽を出しかけた多くの預言者たちが、やがて無害な教会の牧師へと飼い慣らされていくというのも、驚くにはあたらないことなのである。」

 「ニーバー自身は、特定の教会の牧師として長く留まることはなかったが、それはおそらく、まことの「預言者」が実にたやすく一般の会衆によって制約を加えられていくという事実を、彼が知っていたからであろう。」

 私も経験してきたことだが、確かに教会に集ってくる人たちに対して、時には耳に痛く苦痛を与えると思われる内容(聖書のメッセージ)を、真っ直ぐに伝えることは勇気のいることである。会衆を恐れて説教内容をうすめ、聖書の解釈を曲げ妥協していくなら、人々から嫌われることはないだろうが、人々の人生が本当に変わることもないだろう。私は説教者は必然的に預言者的であるべきだと思っている。もし全く預言者的でない説教者、牧師であるなら、そもそも神の召しが本当にあるのかどうかを疑うべきだろう。でもニーバーが書いているように、教会員や会衆と個人的な付き合いが始まり仲良くなっていくと、「預言者としての牧師」の立ち位置を守ることは本当に難しいのである。預言者的であり続けることも大きな課題の一つである。

2月26日(火) 「牧師 その神学と実践⑥」 ウィリアム・ウィリモン著

2013-02-26 09:21:01 | 日記

 昨日は「カウンセラーとしての牧師」だったが、今日は「教師としての牧師」だ。教師の役割はキリスト者の育成である。私は牧師の仕事の中で、説教(説教者の役割)と教え(教師の役割)はセットだと思っている。説教は宣言型だが、教えは教育型である。両方とも重要である。開拓初期は、日曜日は福音書から説教し、平日の集会(祈祷会や聖書研究会)ではパウロの手紙や教理を教えることを計画している。弟子とは、生まれつきのものではなくて、作られるものだからである。

 本からの引用。「牧会書簡の中で牧会上の指導者が勧告を行なう際、その主要な勧告は健全な教義を教えよということであった。、、、、むしろ、より伝統的な「教理問答」こそ、キリスト教教育の名にふさわしいものなのである。この「教理問答」とは、私たちが教会と呼ぶ文化の中で人々を形作るためのあらゆる方法を提示したものである。」

 「ロナルド・ハイフェッツは、『安易な答えのないリーダーシップ』の中で、「変化を引き起こすようなすべてのリーダーシップは教育である」と述べている。組織を変化させるためにリーダーがなすべき主たる行為とは、教えることである。ハイフェッツによれば、リーダーとは変化を生み出すための教育コーディネーターなのである。」

 「 「教理問答」は、対決的性格の強いものとならざるをえない。それは、彼らの主張する「自由」なるものが実は特定の文化の束縛の下にあることを、また彼らが誇る「個人主義」なるものが実は体制的順応的な性質を持っていることを、それぞれ暴くものとなるとなるだろう。それはまた、霊的消費者たちを自我の束縛から救い出し、現実とは個人が作り出すものだという考えから彼らを解放するものとなる。それは、「私たちは何者か」という問いに対して、この世が語る物語とは異なる物語を語ることだろう。 」

 「教理問答」がキリスト教教育に有益であることを教えられる。教理問答について特に宗教改革者たちから学び、少しずつ実際的に準備を進めていきたい。

2月25日(月) 「牧師 その神学と実践⑤」 ウィリアム・ウィリモン著

2013-02-25 08:02:06 | 日記

 「聖書解釈者と説教者としての牧師」の次は「カウンセラーとしての牧師」である。

 本からの引用。「私たちに求められていることは、牧会カウンセリングというものを、霊的導きの機会として再発見すること、牧会的な働きに備えて信徒たちを整えるための神学的裏付けを伴う努力として再発見すること、そしてキリスト者としての成長のための教義口授の一つの形として再発見することである。カウンセリングにおける牧師の主要な責任は、福音の物語に沿うものとして私たちの必要を整えることである。私たちの最善のカウンセリングの大半は、牧会的想像力の複雑な働きによるものであって、私たちは、キリストにあって兄弟姉妹の問題を取り上げ、その問題を福音のもとに置き、そして福音の光なしには想像もできないような、そうした問題と福音の新たな結びつきや関係、そして選択肢が示されるのを見つめるのである。」

 「牧会カウンセリングに関わる技術や方法の中には、次のようなものが含まれている。すなわち、積極的かつ批判的な傾聴。カウンセリングを受ける人物の世界の中に入っていこうとする意思。語られることに対する十分な注意、そして更に重要なこととして、語られていないかも知れないことに対する十分な注意。、、、、、、」

 私は牧会カウンセリングは、御言葉を個人レベルに適用し、キリストにあるアイデンティティを確認し再発見してもらうことだと思っている。闇の部分に福音の光を当てるのである。そのためにまず傾聴と感情の共有が必要である。難しいのは著者が書いているように、語られていないがその人の心奥底にあるものである。多くの場合そこに問題の根っこがある。目に見える実の部分だけでカウンセリングをしてもその時は良くなって帰っていくのだが、数週間もしくは数ヶ月すると前と同じ状態に戻ってしまうことが多い。すなわちカウンセリングを通して実を取ってもまたしばらくすると違う実がなるのである。しかし、目に見えない根っこの部分に光が当てられ、福音と御言葉と聖霊の力によってキリストにあるアイデンティティを再発見すると劇的な変化を遂げ、その変化は一時的なものにならないことが多い。根こそぎ取り除いたから絶大な効果がある訳である。そのお手伝いをするのが牧会カウンセリングだと私は思う。


牧師はカウンセリングに要する時間に限度を設けなければならない。セッションの最初に、その終了時間をはっきりと定めることが望ましい。牧師は、相手の問題に関して不適切な形で責任を負うことから自分自身を守る必要がある。、、、、パットンは、牧師がこうした転移に陥ることなく、適切な牧会カウンセリングの関係を維持するために必要な三つの方法を次のように示している。」
 1.「自分自身に対する明確な限度」を設けること。
 2.カウンセリングのセッションにおいて、「強い感情/激情」が表出する可能性のあることをあらかじめ予期すること。
 3.自分自身を「忍耐強く傾聴する教師」だと考えるようにすること。 

 私は牧会カウンセリングに要する時間に限度を設けず、自分を守ることが欠如していたと思う。それによって自分の心と感情が疲弊してしまった。今度はしっかりと時間を決め(1時間~1時間半)、自分を守っていくようにしたい。


 「おそらく牧会カウンセリングにおいて私たちが達すべき遠大な目的とは、私たちの会衆の健康を増進することよりも、これらの人々がキリストにあって成熟できるように援助することなのである。、、、、牧会カウンセリングとは、単に傷ついた人々の面倒を見たり、悲嘆にくれる人々を慰めたりするということ以上の働きである。それはまた、健康な人、何不自由なく暮らしている人、満足している人、安心しきっている人に対して、教え、導き、警告を発する営みでもある。」
 

 牧会カウンセリングとは、教会に集ってくる人たちにキリスト教な配慮(ケア)をしていくことである。私にとって難しい課題である。

2月24日(日) 「牧師 その神学と実践④」 ウィリアム・ウィリモン著

2013-02-24 07:59:59 | 日記

 今日の項目は、「説教者としての牧師」だ。本からの引用。「ヨーロッパ大陸における宗教改革の主たる目的の一つは、聖職者をまず第一義的に説教を任務とする存在にするための徹底した変革を遂行することにあった。宗教改革は聖書の朗読と説教の重要性を再発見した。ルター、カルヴァン、そしてツヴィングリといった人々は皆、説教が牧師の主たる仕事であることを強調している。、、、、今や、牧師は第一義的に「説教者」として、すなわち「神の御言葉の奉仕者」とみなされるようになったのである。」

 私はプロテスタント教会の牧師である。広い意味でルターとカルヴァンの宗教改革に信仰の土台がある。であるから牧師の第一義的な仕事が、神の御言葉を説き明かす説教である、と私も信じている。カトリック教会は儀式的でプロテスタント教会のようには説教(神の御言葉)に重点をおいていない。それをルターは約500年前に改革したのである。今、ローマ法王が変わろうとしている。良い法王が選ばれることを願っている。


 「トム・ロングによれば、聖書的な説教者とは、会衆に奉仕するために、そこに何かを発見をすることを期待しながら聖書テキストに向かっていく存在である。そして、牧師は、説教を通じて、自分が発見したものを会衆に告げ知らせるのだという。」 ロングの言葉。「説教は聖書テキストとの出会いから始まる。、、、もし私たちが有能かつ忠実な説教者としての務めを果たそうとするならば、私たちは偉大な聞き手でなければならない]


牧師は教会全体のために聖書を開くという重荷を負う存在なのである。祭司的な意味において、「聞く」という資質を向上させたいと願うなら、説教者はおのずと、特定の文化の中で生活している人々のことをよりよく理解し、またそうした人々に語りかけるために、他の説教者たちの説教から学び、いろいろな小説を熟読し、劇場や映画館に足を運び、またその文化を表現する芸術品などを入念に観察することとなるであろう。、、、私たちが「言葉の行商人」と呼ばれるような存在であるがゆえに、言葉に対して常に注意深くあることであり、言葉を用いて自分の生活を営んでいるような人々、つまり小説家であるとか、コメディアン、劇作家といった人々に関心を寄せ、事柄をよりよく語り伝えることのできる賜物に恵まれた人々に敬意を払うことである。私たちはまさに「言葉の職人」なのである。もし説教者が良き語り手であるべきだとすれば、私たちはまず最初に良き聞き手、そして貪欲な読み手でなければならない。」

 
 良い説教(アウトプット)のためには、良い読書など(インプット)が必須である。貪欲に多くの本を読み続けていきたい。


 「 説教という使命を果たすために、生涯を通じて学びと省察を重ねて成長することは、牧師にとって本質的な課題である。、、、、こういうわけで最も優れた説教者たちは、「そのような困難で孤独な学びの課題に携わる上で、一週の間に一定の時間割を設けること」が本質的に重要だと発見した。、、、、」

 「優れた説教という課題に関して、説教者の生き方の質が本質的要素であることを強調する。こうしたすべての見解は、私たち説教者の多くを神経質な状態に追いやらざるをえない。」

 聖書研究と神学の学びは本当に大切である。これには時間がかかる。1冊の本を数ヶ月~1年ぐらいかけて読むことがある。でも知的なだけではダメだ。人格的な成熟さと霊的な鋭さも求められている。知的な学びはきりがなく骨が折れるが、品性と霊性を整えていくのは更に難しい課題である。