牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

10月29日(火) 「渡辺善太全集6<聖書神学論⑥>」 渡辺善太著

2013-10-29 06:49:14 | 日記

 聖書の「預言」的構造論に続いて論じられているのは、聖書の「契約」的構造論である。

 本からの引用。「聖書全体を一貫して見ると、そこには神と人間の「契約」が、重要な点になっていることが分かる。すなわち旧約聖書においては「神とイスラエル」との間、新約聖書においては「神と教会」との間におけるそれである。このことはすでに「旧約」および「新約」という名称において現れている。言うまでもなく前者は「古き(旧き)」契約であり、後者は「新しき」契約である。」

 「旧新両約聖書を一貫して現わされている「契約」は、次のように性格づけられている。第一は神の自己開示に対する「行為」的表現としてのそれである。この性格は聖書的神信仰の基礎となっているもので、旧約においてはもちろん、新約においても、全体的神経験の基礎となっている。すなわち神の自己開示が、思弁的過程にもよらず、といって教義としての形式をも採らず、反対に神ご自身がその民の生活にあずかり、ご自身の意志によって、その民を形成なしたまい、彼ご自身の本質を知らしめたもうということが、この「契約」において示されている。」

 著者は契約は神聖なもので、これを破る時、呪いが契約を破った者に下ることについても言及している。

10月28日(月) 直売所の営業が終了

2013-10-28 06:57:37 | 日記

 8月中旬からスタートした自分たちの直売所の営業が昨日で終了した。当初予定していたよりも人が多く来なかったが、毎日お客さんが来てくださり、その中からリピーターの人も与えられたので、とりあえず成功と言えると思う。総括すれば、始めたことが一番大きな収穫であった。頭だけでなく、またただの話し合いだけでなく、実際にスタートさせたことによって、見えてきたものがある。一番の課題は、前の地主が建てたプレハブを使ってしてきた直売だが、建物(外枠)を拡張してもっと目立つようにするかどうか。もう一つは駐車場をもっと広くするためにどのような土地利用をしたらよいか。これらをゆっくりと冬考えて、来年更に良い直売所にしていきたい。

 生産面だが、品質(美味しさと安全面)には自信を持っている。品揃えは八百屋のようにすべてが揃っているわけではないが、主な(旬の)地元の野菜と果物を揃えているのでそれなりに自信がある。であるから、やはり課題は中身(内枠)というよりも(もちろん改善は必要であると思っているが)、広告、宣伝、営業面であると思う。これがなかなか農家ができないことであると感じる。地域にたくさんの直売所があるが、本当に成功しているのは一握りである。彼らの直売所を見ると、共通しているのはやはりある程度の外枠を最初に用意しているということである。直売の分野では少しずつ成功していくというのはかなり難しいと思う。そのようにしているうちに経営が行き詰ってしまうだろう。ただ経済的な問題があり、用意できるお金が限られていて外枠が簡単にできるわけでないので、そこが悩みどころである。さてどうしたものか、、、

 昨日思いがけなく最後のお客さんが何とタイ(バンコク)からの観光客だった。20~25人ぐらいいただろうか、レンタカーを使って北海道を旅行しているようだったが、彼らが来てくださり、とても喜んでくれた。賑やかで楽しいひと時であった。外国の人が来てくださったのは始めてだったので、私たちにとっては来年に向けて大きな励まし(励み)となった。

10月25日(金) ノルウェーの宣教師との再会

2013-10-24 06:45:55 | 日記

 21日(月)~23日(水)までノルウェーの宣教師が私たちのところ(北海道)へ来られた。今回の日本訪問は3週間弱だったが、私たちのところへも来てくださった。埼玉の教会を共に開拓した長い付き合いである。この宣教師から私は洗礼を授けていただき、また結婚式の司式もしていただいた。恩師である。先生は都合があって17、18年前にノルウェーの故郷に戻られた。そしてそこでも新しい教会を開拓した。3年前の10周年記念礼拝で私が招かれて説教をし、ノルウェーを観光した。フィヨルドの美しさがとても印象的だった。

 今回、農場や直売所を見てもらい、北海道での教会開拓について話し合い祈り合うことができ良かった。2年前に来られた時には埼玉から北海道へ移ってくることについて相談した。

 ノルウェーが非常に美しいのでどこへ連れて行こうか迷ったのだが、今回はニセコ(羊てい山が見れなくて残念だった。見れると非常に美しいのだが)と洞爺湖(紅葉が綺麗だった)を小旅行した。それから札幌の教会で集会を持ち、宣教師が日本での宣教の証しをした。昨日は私が牧会した埼玉の教会で先生の送別会が持たれたようだ。今日私たちの教団本部の埼玉で教団の総会に出席し、それから夜の飛行機でノルウェーへ帰国する。今度再会する時は、私たちの開拓教会で説教していただく時だと期待している。

 

10月23日(水) 「渡辺善太全集6<聖書神学論⑤> 渡辺善太著

2013-10-23 06:30:58 | 日記
 
 前回は旧約聖書における「預言と成就」であったが、今回は新約聖書における「預言と成就」である。

 本からの引用。「初代教会の信仰者たちは、一つのかたい信仰に立っていた。それはナザレのイエスこそ旧約聖書において預言されているメシヤである、という確信であった。この意味における「預言と成就」を示す旧約聖書の言葉の引照は、新約聖書中に満ちている。」

 新約聖書の中で特に、旧約聖書を信じメシヤを待ち望んでいるユダヤ人たちに、イエスがメシヤ(救い主)であることを、旧約聖書から論証することを主題としていたのがマタイの福音書であった。それはマタイの福音書冒頭に書かれている「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」という表現にその意図があらわれている。なぜならメシヤの代名詞は「ダビデの子孫」であるからだ。

 
 「マタイ伝のユダヤ人に対する弁証点は、くどくど述べてきたように、「旧約聖書に預言せられているメシヤは、ナザレのイエスなり」という点であった。そしてこれを現わす最もユダヤ的な肩書きが、「ダビデの子」であり、本書(マタイ伝)はこの肩書きをまっこうにかざして、ユダヤ人に対し、彼はこの主張を論証せんとした。」

 マタイの福音書には、旧約聖書を引用して、「この出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった」という表現が何度もでてくる。マタイは「あなたがたが待ち望んでいた約束のメシヤは来られました。旧約聖書の預言は成就したのです。それを実現させたのがイエスです」とマタイの福音書を通して教会内外の人々に伝えようとしました。そして現代の私たちにも伝えています。

 

10月18日(金) 「渡辺善太全集6<聖書神学論④>」 渡辺善太著

2013-10-18 06:48:29 | 日記

 新約聖書にあらわれている五つの旧約聖書解釈の一番目が「聖書の『預言』的構造論」である。

 本からの引用。「聖書における旧約聖書新約聖書との関係は、多面的であるが、その一面は「預言」と「成就」とのそれと見られている。そしてこの「成就」という点からみた旧約聖書の見方が、逆に旧約聖書の性格を決定している。この「預言」と「成就」とによるその構造の究明が、本節の主題である。、、、、、初代教会の人々が、ナザレのイエスこそメシヤ・キリストであるということを証明するための最も手近な方法は、この「預言」と「成就」の関係であったからである。すなわちイスラエル・ユダヤ人は、旧約聖書によって、末の日に必ずメシヤが生まれたもうということを信じていた。これに対して初代教会の人々は、彼らの主であるナザレのイエスこそ、このメシヤであると信じ、かつこれを強力に述べた。しかるにこの両者の間には全く同一の点と、全く異なった点とがあった。すなわち旧約預言のごとく、メシヤが末の日に生まれたもうという点においては、両者とも同じで、これが同一点である。しかしその約束のメシヤが、ナザレのイエスという歴史的人物であるということは、ユダヤ人は否定し、初代教会の人々は肯定した。」

 著者はこのように書いた後、聖書の預言的構造を知るためには新約聖書がイエスのメシヤたることの論証の権威としている、旧約聖書の「メシヤ預言」について知る必要があるとし、律法(モーセ五書)と預言書と諸書(詩篇など)のメシヤ預言について記している。

 旧約聖書が預言(約束)していたメシヤ(救い主)の到来は、イエス・キリストを通して完全に成就(実現)した。これが私の信仰である。旧約聖書を学べば驚くべきかたち(救い主の生まれる場所、死に方などを含む)でイエス・キリストを通して旧約聖書の預言が成就していることが分かる。そのことは哲学者であるパスカルも著書「パンセ」で書いている。これは旧約聖書の預言と成就を学ぶには大いに参考になる書物といえるであろう。

 これを真剣に学ぶ人はイエス・キリスト(キリスト教)の偉大さが分かると私は思う。