牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

6月30日(日) 「渡辺善太全集6<聖書解釈論⑪>」 渡辺善太著

2013-06-30 09:54:56 | 日記

 著者は聖書本文の意義決定的解釈に続いて「聖書表現の意味形成的解釈」について論じている。本からの引用。「聖書表現の意味形成的解釈とは、聖書本文の意義決定的解釈の原則に則って聖書解釈を始めた解釈者が、聖書解釈というその目的に忠実である限り、かつその仕事を論理的に運びうる頭脳を有する限り、必然的にそこに至らざるを得ない聖書解釈である。この解釈が前章に述べられた解釈と異なる点は、その解釈が意味「形成的」であることに見出される。この句が厳密にいかなる内容を持つかは、自ずから後にくる本章の論述によって明らかにせられるが、今本章の冒頭においてその概観的理解のために一言記すと、それはほぼ次の一言に尽きる。すなわち意義「決定」的解釈においては、解釈者は形成的に自己の主観を活動停止の状態におき、その「決定」に対してできるだけ客観的に立つことを、その解釈者としての心的態度とした。しかしここでは、解釈者が解釈的必要に迫られて、理論的にその決定に入り込まざるを得ない解釈事態に立ち至ったために、そこでは「決定」がどうしても「形成」とならざるを得ない解釈となってきたことがこの「形成」という句において表現せられているわけである。、、、、従ってこれを端的にかつ譬喩的に言えば、「意義」は解釈者の「外」で決定せられ、「意味」は彼の「内」で形成せられる。」

 著者は再度意義決定的解釈の不十分性について述べた後、聖書表現の意味形成的解釈の可能性について述べ、序論としてこのように書いている。「かくして意義決定的聖書本文解釈において感じられた方法論的不十分性と、本質論的不完全性との二つの不満は、両者とも本章において論述せられる聖書表現の意味形成的解釈によって、越えられるはずであることが明らかにせられた。しかし等しく意味形成的解釈においてとは言いながら、この二つの不満は、この解釈においてそれぞれ相異なった方向において進められなければならないことは明らかである。まず第一の方法論的不十分性の不満は、「部分と部分」おやび「部分と全体」の意味形成が必要なのであって、その解釈は自ずから「部分と全体」への関係の解釈とならなければならない。この意味においてこの解釈は聖書の全巻の解釈を、関係の総合点のそれとする「目標的解釈」となるべきである。次に第二の本質論的不完全性の不満は、聖書の本質として規定せられている「キリスト証言性」を求むることをもってその解釈の追求すべき「目的」としなければならない。この意味においてこの方向は「目的的解釈」となるべきである。」

6月29日(土) 「渡辺善太全集6<聖書解釈論⑩>」 渡辺善太著

2013-06-29 05:25:04 | 日記

 さて聖書本文の意義決定的解釈の結論である。本からの引用。「以上聖書の意義決定的解釈を概観してきた。その結論として解釈者は、きわめて矛盾した結論にいたらざるを得ない結果に立ちいたった。すなわち聖書の意義決定的解釈は、それが徹底すればするほど、その対象たる聖書の意義を決定することができないという不十分なることの暴露である。今やこの部分の終わりに当たって、この矛盾せる結論について述べなければならない。聖書の解釈はまず何よりも先に与えられた一節の文章の語句の意義とその文法的構成とが決定せられなければならないと言われ、これこそ聖書解釈なるものの第一歩であると言われた。しかしこのことは、聖書が一巻の書物であり、六十六冊の書物の、しかしてその部分なる一節一節の文章の集合からなっているものであり、これを読むには、その一節から読み始める以外には読みようのない、また解釈しようのない書物であることを考えれば、なんら反対せられるべきことではない。しかしてこの一節または一文章の解釈は、その文章それ自身が何を言っているかを聞くことによってのみ、解釈せらるべきであり、それ以外のいかなることもそれに読み込まれてはならないと言われた。これまたきわめて当然のことであってなんら問題とせらるべきことではなかった。しかるにそれにもかかわらず、その聖書解釈における当然の出発点たるべき所与の一節または一文章の解釈が、その一節のみの解釈からでは解釈し得られないという、不思議な方法論的不十分性が感じられざるを得ないのである。

 聖書に書かれてある一文章(一語句)は文法的に解釈されるべきであるが、また聖書は一文章の解釈から始めるべきであるが、しかしあくまでその一文章は聖書全体の一部分であることによって解釈されなければならないので、その一文章のみでは解釈できない、という聖書本文の意義決定的解釈の不十分さと矛盾について著者は述べている。


 続いて本からの引用。「換言すれば、解釈者はこの解釈の論理を徹底することによって、この解釈自身の不十分性を暴露させられ、更にその暴露を徹底することによって、その不十分性を解消すべきより高き解釈へと、進ませられることになるのである。」

 

6月28日(金) 初収穫

2013-06-28 06:52:40 | 日記

 昨日、初収穫としてビニールハウス内のナスを収穫することができた。嬉しいものだ。ナスはずっと何度も何度も収穫できるので楽しみ。直売で売れることを願っている。自分たちではじめる直売の準備としてホームセンターで買ってきた板を使って自分たちで野菜や果物をのせる陳列台を昨日作った。準備が着実に進んでいる。7月中旬にオープンしようと計画している。

 農場の方は雑草がスゴイのだが、マルチとマルチの間をトラクターで(来年に備えて耕しつつ)草刈りをしている。カボチャが育ちやすい環境を作っている。農場もスッキリとするのでいいものだ。

6月27日(木) 「渡辺善太全集6<聖書解釈論⑨>」 渡辺善太著

2013-06-27 06:44:20 | 日記

 聖書本文の意義決定的解釈の第二は「聖書の象徴的解釈」である。本からの引用。「人間の言語は本来象徴的性格をもっている。、、、、聖書の語句または表現が象徴的であるということは、その本文の辞義と文意とが、その解釈によって無視または変更せられるということを意味しない。その本文の辞義と文意とは、どこまでもそれが辞義的に意味するごとく解釈せられ、しかしてその結果その文章が象徴的であるか否かが問われるのである。」

 著者は聖書の表現において発見する象徴には五種類あるとしている。1.辞句的象徴、 2.秘義的象徴 3.具体的象徴 4.思想的象徴 5.行為的象徴 の5つである。

 それぞれについて結構詳しく説明されているが、一つだけ取り上げる。秘義的象徴には「色」や「数」などが象徴として用いられていることが書かれている。「数」の秘義的使用だが、「3」(三位一体の神など)は神的完全数を意味している。「四」(西南北南など)は地的または人的完全数。「7」(7日目、安息日など)は3と4が合わされた完全数。「十」(十戒など)は7と3が合わされた全数。「十二」(十二部族、十二使徒など)は神的完全数の3と人的完全数の4を乗じたものである。「四十」(ノアの洪水、イエス・キリストの受けた誘惑など)は「試練」や「審判」などを意味している。

 ただこの「数」の解釈も気を付けないと、聖書に出てくる「数」を何でもかんでも象徴的に解釈しようとすると、強引な解釈(自分にとって都合の良い解釈)となってしまい間違うことになる。

6月26日(水) 「渡辺善太全集6<聖書解釈論⑧>」 渡辺善太著

2013-06-26 07:55:57 | 日記

 昨日の続きである。本からの引用。「この聖書本文の意義決定的解釈は、おのずから二つに分かたれる。一はその「辞義」の解釈であり、他はその「象徴」の解釈である。第一の辞義の解釈とは、聖書中の個々の一文章の辞義そのものの直接の解釈であり、その辞典的解釈とその文法的解釈とからなっている。第二の象徴の解釈とは、聖書中のこれらの個々の文章が、一文章として、あるいは一群として、その辞義的意義以外のある意味を表している時、その意味を解釈する解釈である。」

 続いて本からの引用。「聖書の意義決定的解釈は、まずその辞義の解釈に始まる。その辞義の明確にせられないところに、その意義決定はあり得ない。この辞義的解釈は、まず所与の「一文章」の解釈に始まる。、、、、個々の「文章」の解釈は、一応前述したところによって、その文章の構成すなわち文法的条件から決定せられることとなる。しかしこれはこの「文章」の基礎的または文法的解釈のみのことであって、いまだこの解釈は、この文章の「文形」の問題にはふれていない。したがって問題は次にこの「文形」の問題に進まなければならない。およそ一文章の解釈に当たって、その文章が「散文」であるか、「詩文」であるかを決定することは、その解釈に対して決定的の意義をもっている。言うまでもなく、聖書中の一文章が、散文として解釈されるのと、詩文として解釈されるのとでは、その解釈に非常な差異がある。ことにそれが神学的基礎とせられるようになると、そこから重大な問題が起こってくる。叙上の意味において聖書の辞義的な解釈は、第一「辞句的解釈」と第二「修飾的詩文的解釈」との二つに分かたれる。」

 
 著者はこのように述べ、聖書の辞句的文法的解釈と修飾的詩文的解釈の二つを説明している。