牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

2月28日(金) 「初期キリスト教の礼拝」  ポール・ブラッドショー著  日本キリスト教団出版局

2014-02-28 07:11:12 | 日記
 
 著者は現代の礼拝学の分野で第一人者と言われるほど著名な学者であるようだ。内容はといえば、私としては少し退屈してしまった。理由はおそらく著者が聖公会出身で、扱っている(取り上げている)礼拝の内容が、洗礼式と聖餐式だけだったことに起因していると思う。聖公会はプロテスタントなのだが、カトリックに非常に近く、儀式が重んじられる傾向にある。

 印象に残っているのは、初期キリスト教の洗礼式の時に、サタン(悪魔)と悪霊との絶縁が行なわれていたことである。洗礼志願者が「サタンよ、私はお前を、そしてお前の一切の奉仕と一切の業を捨てる」と告白していたとのことである。初期キリスト教に力があった一つの理由はここにあると思う。これは現代において弱いところである。教会とクリスチャンたちが、またイエス・キリストを信じ洗礼を受ける者が、救いというのは悪魔の支配から神の支配へ移るのだ、という認識と理解が弱いのである。

 洗礼の項目での結論としてこのように書いている。「洗礼志願者は象徴的にそれを共にするのである。すなわち、悪の世を否み、水の中へとくだってそこで信仰を言い表し、上がってきて神の祭司の民として油注ぎを受け、キリストのものとして十字架のしるしを帯び、復活の主の霊を受け、約束の地へと入るのである。」

 本来的には洗礼にキリスト教のすべてが入っているといっても過言ではない。洗礼を本当に理解すればである。残念ながら、多くのクリスチャンたちにとって洗礼が救いの体験で終わってしまっていて、クリスチャン生活・教会生活と人生を歩んでいく上での深い体験とはなっていない。もし洗礼が初期キリスト教徒のように理解されれば、教会に大きな改革が起こるであろう。実はそれがイエス・キリストが意図したことであり、使徒パウロが神学的に表明していることなのだ。

2月27日(木) 「新約聖書の中心的使信」 ヨアヒム・エレミアス著  新教出版社

2014-02-27 08:07:49 | 日記

 著者は、新約神学が専門の優れた学者の一人である。

 史的イエスの問題において、イエスの福音と初代教会の信仰証言とは密接に結びついていると説明している。イエスの福音だけで初代教会の証言がなければ死んだ史実になってしまうし、初代教会の証言だけでイエスの福音がなければ実体のない一つの理念を宣べ伝えていることになってしまう。著者の一番の関心は、史的イエスの問題にあったようだ。要するに、イエスという人物を歴史学的な手法を用いて探究することである。


 また「主の祈り」と「山上の説教」についても説明をしているが、山上の説教は律法ではなく福音であると書いている。


 そして新約聖書の中心的使信として、4つを挙げている。
1.アバ(父)と呼べる特権  これはイエス・キリストと聖霊の働きによる。
2.犠牲の死 イエス・キリストの十字架での死
3.信仰による義 イエス・キリストを信じることによって義と認められ、罪が赦される
4.啓示の言葉 イエス・キリストはロゴス(言葉)として来られた。すなわち、神が沈  黙を破られた言葉なのである


 この4つが新約聖書の中心であると書いている。神の言葉であるイエス・キリストが沈黙を破られて受肉(神が人間の姿をとった)され、十字架上で犠牲として死なれ、イエス・キリストの十字架が自分の罪の身代わりであったことを信じる信仰によって神から義と認められ、罪が赦され、神の子とされ、神のことを「アバ(お父さん)」と呼ぶことができるようになる。これらのことが新約聖書において一番大事なことであるということだろう。

 著者はこれら4つのことに関しても、史的イエスの問題を意識しながら論じている。

2月26日(水) 「教会論③」 ハンス・キュンク著

2014-02-26 08:17:25 | 日記

 著者は「教会」の基本構造として3つを挙げている。

 第一は「神の民」としての教会である。旧約時代に神の民と言えば、「イスラエル」であった。現代における神の民は教会である。しかし、神の選びは変わらないので、今でもイスラエルは神の民である。

 第二は「霊の被造物」としての教会である。クリスチャン一人ひとりにカリスマ(賜物)が与えられていて、その賜物を用いて奉仕し、建て上げていくカリスマ的構造としての教会のことを言っている。その賜物は聖霊によるものである。

 第三は「キリストのからだ」としての教会である。頭(かしら)はキリストであり、体は教会である。人間の体は頭の支持に従うのが自然である。すなわち、教会はキリストに従うのである。また頭とからだは一体である。分離されていたら気持ちが悪い。

 本からの引用。「キリストは教会のうちに現存する。十字架にかけられたイエスは、復活の主として教会のうちに現存する。キリストは教会なしではありえず、教会はキリストなしではありえない。、、、、キリストは教会の全活動のうちに現存する。しかし特に優れた形で、キリストは礼拝集会に現存する者として働く。われわれは、彼の福音によってこの礼拝集会に呼び招かれるのであり、洗礼によってこれに受け入れられ、そこにおいて聖餐式を祝い、そこから世界に対する奉仕のために派遣されるのである。」

 「このようにしてキリストは、すべての礼拝集会に完全に現存するのであり、そのゆえに地域教会におけるすべての礼拝集会は完全な意味で神の教会であり、キリストのからだである。」

 
 この3つの構造において分かるのは、三位一体の神が教会に関わっているということである。教会は神の民としての役割があり、父なる神の計画の中心にある。教会を建て上げるのは聖霊の働きであり、教会の頭(かしら)はキリストである。この三位一体の神がご臨在されるから地域教会も完全な意味で神の教会なのである。

 非常に優れた教会論ではないだろうか。この教会論を霊の深い領域で正しく理解し悟ることができれば、クリスチャンたちが礼拝を重んじるようになるだろう。クリスチャンでありながら礼拝を軽んじるとしたら、理由は2つあるだろう。正しい神観(三位一体論)と教会観の欠如であると思う。正しい神学と思想がないところに、正しい行動と実践は起こってこないのである。その意味で聖書研究や神学の学びは重要である。

2月25日(火) 「2020」 ロバート・シャピロ著  光文社

2014-02-25 08:24:06 | 日記

 本書の副題は、「10年後の世界秩序を予測する」。本書の原書が出版されたのは、2008年。著者は今まで何度かアメリカ大統領候補たちの経済顧問を担当してきた人物である。

 著者は3つの大きな流れが世界の近未来を塗り替えるであろうと指摘している。

 一つ目は、人口構造の変化が世界中で驚くべき規模で進んでいることである。高齢化が進み、労働人口の割合が低くなっていくのである。

 二つ目は、グローバリゼーションの進展である。世界的なネットワーク化が急激に進行していくことである。

 三つ目は、東欧を従えたソビエト連邦とその政治的イデオロギーの崩壊である。これに関しては、現在ウクライナの問題をみても分かる。

 
 米国国家情報会議編の『2030年世界はこう変わる』よりも、本書は自国アメリカの力を評価し、中国の力を弱く見ている。また『フラット化する世界』同様、アイディア(想像力)こそが経済活動にとってますます大事になってくると書いている。

 また上に挙げた著書同様、ヨーロッパと日本が没落することを指摘している。その理由は、古い体質を持った企業の既得権益を国が守ろうとするからである。これはまさに東電に起こっていることである。国は絶対に援助するべきではない。国が特定の企業を援助してはいけないのである。どの企業も必死に頑張っている。腐敗した大企業のために税金を使うのは間違っている。そのような愚かなことをやっている限り、この国に未来はない。その代わりに起業家精神を持っている人たちが自由に闘うことのできる環境を整えることが大事なのである。すなわち、日本がするべきは、公的資金の投入ではなく、規制緩和である。

 著者は日本の閉鎖性をも指摘している。日本は閉鎖的な国であり、もっと言えば、世界的な感覚が明らかに鈍く欠如している国である。まずそのこと自体に気づくことが必要になってくるであろう。2020年、2030年、日本はどのような国になっているであろうか。器が小さい政治家や役人たちにはこのような本を読んで勉強してもらいたい。本当の意味で国の未来のことを考えることのできる器の大きい人物がでてくれば、日本にも少ないかもしれないが可能性はあると思っている。   
 



2月24日(月) 「礼拝②」 レイモンド・アバ著

2014-02-24 07:29:42 | 日記

 ソチ冬季オリンピックが閉幕した。彼らは金メダル(朽ちる冠)を目指して努力し、全力を尽くした。その姿に感動した。日本選手も残念な結果もあったが、全体として健闘したと思う。健闘をたたえ拍手を送りたい。4年後が楽しみである。私たちキリスト者も彼らを倣って全力を尽くして、クリスチャン生活と教会生活を送るべきである。パウロはそのことをこのように書いている。コリント人への手紙第一 9章24-25節 「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」

 自制できない、歩いたり止まったりして走らないクリスチャンがあまりにも多すぎる。初代のクリスチャンたちと何と違うことだろうか。パウロが考えていたクリスチャンの姿と何と違うことだろうか。

 オリンピックと礼拝の関係で言えば、1981年だと思うがアカデミー賞の作品賞を受賞した「炎のランナー」が思い出される。これは実話を元にしている。感動的な映画で、礼拝の大切さを教えてくれる。私が今まで観た映画(DVD)で一番印象に残り、影響を受けた作品だ。様々な(正当的に見える)理由をつけて礼拝を休むクリスチャンが多くいるが、私は彼らは結局のところ神を第一としていないだけだと思っている。自分が第一で、神は第二、第三もしくはそれ以下の存在でしかないのである。一言で言えば、礼拝の心が欠如しているのである。私は基本的に礼拝を第一としないクリスチャンを信用していない。


 さて本書である。著者は礼拝は神への応答であるし、そのためには神の言葉(聖書朗読、説教)が先行しなければならないと書いていた。聖書の言葉に対する応答として、祈りがあり献金があり、様々な礼拝の行為があると。

 初期の教会は聖書朗読が重んじられていたようだ。旧約聖書から読まれ、詩篇から読まれ、福音書から読まれ、使徒たちの手紙から読まれ、というように多くの箇所から読まれ、会衆はそれらの言葉に真剣に耳を傾けたようだ。これには教えられた。現代は聖書朗読が少ないように感じる。だからバランスに欠いているのであろう。日本の多くの教会では新約聖書から説教がなされているようだ。それ自体は良いと思うのだが、しかし、旧約聖書からの言葉を全く教会で聞くことがないと、強いクリスチャンは生み出されないのである。弱いというか、根が張らないのである。なぜならキリスト教のルーツは旧約聖書にあるのだから。旧約新約の両方からバランスのとれた聖書朗読と説教がなされることが求められているであろう。礼拝ですべてをカバーできないなら他の手段を用いることも大切になってくるであろう。例えば平日の集会で共に旧約聖書を学ぶなど。

 具体的な説教の準備として、4段階を挙げている。
1.素材を集める段階。学びメモをする段階。
2.素材が集められた後、それが有効に活用される前に、一定期間置く段階。
  熟成させ、黙想する段階。
3.説教を書き、仕上げる段階。
4.仕上げた説教を手直しする段階。


 また礼拝の順序についても述べている。大きく3段階に分けて構成するのが良いだろうと勧めている。
1.賛美と祈りによって、神に接近する時。
2.聖書と説教によって、神からの言葉を聞く時。
3.祈り、献金、感謝と礼典(聖餐)によって、神へ応答する時。


 礼拝にとって、賛美と祈りは非常に大切な要素である。絶対に欠かすことはできない。しかし、「礼拝」において、初代の教会と宗教改革時代の教会によって重んじられたのは、「説教」と「聖餐式」であり、現代においてもこの二つが特に重んじられるべきである、というのが著者の主張である。私は賛成である。本書を通して、礼拝の流れが重要であること、礼拝の行為ひとつひとつがなぜ行われているかを吟味することが大事であると思わされた。早速、開拓教会において礼拝の順番をどのようにすればよいのかを再検討していきたい。そのことを通して、神へ真実な礼拝を捧げたい、礼拝の行為ひとつひとつに意味を持たせたい、新しく来られる方々に礼拝を分かりやすいものにしたい。