著者は現代の礼拝学の分野で第一人者と言われるほど著名な学者であるようだ。内容はといえば、私としては少し退屈してしまった。理由はおそらく著者が聖公会出身で、扱っている(取り上げている)礼拝の内容が、洗礼式と聖餐式だけだったことに起因していると思う。聖公会はプロテスタントなのだが、カトリックに非常に近く、儀式が重んじられる傾向にある。
印象に残っているのは、初期キリスト教の洗礼式の時に、サタン(悪魔)と悪霊との絶縁が行なわれていたことである。洗礼志願者が「サタンよ、私はお前を、そしてお前の一切の奉仕と一切の業を捨てる」と告白していたとのことである。初期キリスト教に力があった一つの理由はここにあると思う。これは現代において弱いところである。教会とクリスチャンたちが、またイエス・キリストを信じ洗礼を受ける者が、救いというのは悪魔の支配から神の支配へ移るのだ、という認識と理解が弱いのである。
洗礼の項目での結論としてこのように書いている。「洗礼志願者は象徴的にそれを共にするのである。すなわち、悪の世を否み、水の中へとくだってそこで信仰を言い表し、上がってきて神の祭司の民として油注ぎを受け、キリストのものとして十字架のしるしを帯び、復活の主の霊を受け、約束の地へと入るのである。」
本来的には洗礼にキリスト教のすべてが入っているといっても過言ではない。洗礼を本当に理解すればである。残念ながら、多くのクリスチャンたちにとって洗礼が救いの体験で終わってしまっていて、クリスチャン生活・教会生活と人生を歩んでいく上での深い体験とはなっていない。もし洗礼が初期キリスト教徒のように理解されれば、教会に大きな改革が起こるであろう。実はそれがイエス・キリストが意図したことであり、使徒パウロが神学的に表明していることなのだ。