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視野が狭い  

2021-09-04 17:42:03 | 文化

>370137        視野が狭い人の特徴って?①~特徴と生じるデメリット~  >前野将克 ( 23 会社員 )  21/08/29 PM07

>「視野が狭い」。>自分が言われたら嫌な言葉ですよね。 >視野が狭いことで生じる問題も、大人になるとたくさん出てきます。>そこで今回は、そんな視野が狭い人の特徴やデメリット、視野を広げるための方法をまとめました。  

 

役に立つ方法だと良いですね。      

 

>「集中力がある」「物事を深掘りできる」など、決して悪いことだけではありませんが、「視野が狭い」のを改善したいと悩んでいる方は、ぜひ参考にしてみてください。  

 

集中力がある深堀出来るは日本人の特徴ですね。お陰様で我が国の製品の仕上がりが良く、日本は輸出大国となりました。視野が狭いは日本人の政治音痴にもつながっていますね。     

 

>■視野が狭い人の特徴とは

>・固定観念が強い >視野が狭い人は、固定観念が強い人が多いようです。 >考えが固定化されているので、状況が変わっても普段のやり方にこだわって手段を変えないなど、臨機応変さにかける部分があるよう。

 

思考停止によるものでしょうね。変える余地がないのですね。      

 

>・自分に絶対的自信がある >自分の考えや行動に、絶対的自信がある自信過剰な人は視野が狭くなりがち。  

 

視野の狭い人には雑念がないですからね。立ち止まることを知らないですね。      

 

>自分に自信があるので他人の意見を聞き入れなかったり、自分の間違いを認められなかったりするよう。  

 

思慮ある人は「現実を直視して考察する」が、凡人は「自分の期待したもの」しか見ようとしないですね。思い込みが強いですね。       

 

>結果的に間違っていたことを修正したり、もっと良い方向に成長したりする機会を失うので、どんどん視野が狭くなっていく悪循環に陥ってしまうことも…。

 

それは思考を停止しているためでしょうね。   

 

>・こだわりが人一倍強い >視野が狭い人は、こだわりが人一倍強い傾向に。>こだわりが強いことは悪いことではありませんが、時にはその猪突猛進な姿勢が視野を狭くしてしまう可能性もあるようです。 

 

こだわりが問題ですね。リーズン (理性・理由・適当) が必要ですね。リーズナブルな答えを出すように努力しましょう。           

 

>■視野が狭いことで生じるデメリット

>・ミスを何度も起こしやすい >視野が狭い人は自分のやり方に自信を持っている人が多いので、ミスを起こした際、一体何がいけなかったのか、どういった部分に問題があったのかなど、次に同じようなミスをしないようにするための改善点を見出しにくいと言われます。 >自分から周囲へアドバイスを求めることも少なく、助言があっても聞き入れないことがあるので、ミスを何度も起こしやすくなってしまうようです。

 

そうですね。 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)     

 

>・トラブルに対処できない  >視野が狭い人は柔軟性に欠ける人が多く、「突発的なトラブルに対処できない」「普段と違う作業に戸惑いやすい」など、気持ちに余裕がなくなる場面が増えてきます。 >いつもと違うことが起きるとパニックになってしまい、その焦りが余計に状況を悪化させてしまうことも…。    

 

そうですね。発想の転換が難しいですね。    

 

>・先を見据えた行動ができない  >視野が狭い人は、目の前にある物事だけに集中してしまいがち。  

 

フランク・ギブニー氏の著書 <人は城、人は石垣> には、以下のような指摘があります。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には to be に当る適当な動詞がない。”being とか reality のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。

 

>こういった集中力が大切なときもありますが、目の前のことをこなすことに精一杯で、俯瞰して物事を見ることができなくなってしまうことも。 >前に進むためには何が必要なのか先を見据えて取り組めないと、後々ミスが発覚したり自分を追い込んでしまったりすることに繋がってしまいます。 

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。     

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

>リンクより引用   

 

 

 

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価値観の転換  

2021-09-04 13:38:44 | 文化

 

>もはや学校は終っている  >370238   なぜ学校という組織はコロナによる「価値観の転換」に対応できないのか  >伊達政宗 ( 会社員 )21/09/02 AM10

>以下引用 >リンク

>学校教育にパラダイムシフト [発想の転換] が起きない理由  >学習会で話題になったことのシェア。

>学校にある既存のルールや慣習を変えられない理由と対策について。 >首都圏の学校では、一昨年度末より常に感染症対策を迫られ続けている。 >その後押しもあって、オンライン学習可能な環境がどこでも整いつつある。 >一方で、オンライン学習の環境や実践が一向に進まない地域もある。 >感染者が少ないことをはじめ、諸事情あるのだが、そもそもの要因として「みんな何も言わないから」「差し迫って必要でないから」あたりのことが推測される。>それがなくても何とかなってしまっているから、声が上がらないのである。

 

そうですね。意思がなければ変更も無しですね。 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)   

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

 

>しかし実際、事が起きてからでは遅い。 >予想外の新型ウィルスの登場で、初期対応が遅れた頃はまだ理解される。 >今は違う。 >もうわかり切っていることである。 >「予想外」ではないのだから、平時の予防行為としての対策が必要である。 >新しいものがどうしても必要になり、現場も拒否できない状況にいれば、否が応でも改革が進む。 >逆にそうでない状態、「何とかなっている」という状態が危ない。 >そこに潜む危険が目に見えないからである。

 

そうですね。思慮のある人は「現実直視をして考察する」が、凡人は「自分の期待したもの」しか見ようとしない。

 

>つまり「今までそうだったから」は実際には通用しなくなっているが、それに気付けない。  

 

そうですね。見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の頭の中にある非現実の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

現実と非現実 (考え) は区別して語らなければならない。そうでなければ、現実の内容は白昼夢と区別できない。これはキチガイ沙汰に違いない。しかし、日本語には時制がない。非現実の内容を語る為の時制のある構文がない。だから、日本人は自分の持つ非現実 (考え) を語らない。これは子供と同じ状態である。日本人の考えの内容は哲学 (非現実) にはならずして、支離滅裂な空想・妄想の類になる。これらは雑念だからわが国では英米式の高等教育が成り立たない。お陰様で、わが国は '漫画・アニメ' の大国になった。 

 

>今まで通りでも大丈夫だ、最善だと、錯覚してしまう可能性がある。

 

それは未来の内容を想定できないからでしょうね。    

 

>今回の学習会で「宿題」も話題に上がったが、これもその一つであると考える。

>宿題というものの根本は変わっていないが、その価値はかつてとは全く変わっている。

>社会では、未だかつてないペースでパラダイムシフトが起きている。

>「パラダイム」とは何かであるが、次の動画がわかりやすい。 >リンク  

 

そうですね。既存の環境に熟達した人ほど、未知の環境に戸惑いますね。   

 

>日本にはかつて、敗戦のどん底から立ち直り、人口も経済成長も右肩上がりの時代があったという。>モノを作れば売れる、ビルを建て、土地をひたすら転がして儲かる時代があったという。>この時代に最も必要な人材とは何か。>「決められたことをきちんとやりとげる」「無茶な命令にも素直に従う」「無理してでも頑張り続ける」こういった人材が大切である。>一人の人間から提供される労働時間の長さが、ダイレクトに企業の利益の大きさにつながるからである。>キャッチフレーズが「24時間戦えますか」だった時代である。>残業拒否や家庭を顧みて育児を優先する行為など、「企業戦士」にあるまじき行為である。>上司の命令に逆らうようなことがあればまず昇進はなくなるが、黙って従っていれば終身雇用で一生豊かで安泰が約束される。

>ある意味、イケイケである。>先の時代の人材の条件に最も当てはまるのは、現在の優秀なロボットたちである。>今の時代でこの勝負をしたら、人間はロボットに全く勝ち目がない。

 

そうですね。日本人はロボットに取って代わられましたね。        

 

>ところで、今でも学校現場で広く採用されている一般的な宿題とは、どのような力を伸ばせるのか。 >恐らく、先の時代に必要とされていた力を、大いに伸ばせるのではないだろうか。 >「受動」「従順」「我慢」である。

 

日本人には意思がないから能動が無く、受動ばかりになりますね。    

指示待ち人間は従順ですね。    

意地・根性・大和魂を鍛えて我慢強くする修行が存在しますね。    

 

>夏休みや冬休みも含む日々の大量の宿題は、先の時代のニーズに最適化していたといえる。>社会が求める人材教育として、恐らく正しかったといえそうである。

 

そうですね。期待される人間像に近い人間が出来上がりますね。   

 

>一度に大量の相手に対し同質を提供できる一斉授業。 >厳密な校則、ルール。 >多様性を認めない排他的な制度とテスト学力による序列化。 >全て時代のパラダイムに沿っていたと思われる。 >望み通りの結果が得られたといえるのではないだろうか。

 

そうですね。   

 

>かつてのパラダイムを捨てるのは難しい。 >成功体験があるからである。 >長く勤めてきた人ほど、これは難しい。

 

そうですね。熟達した人には新環境に適応することが難しい。柳の下に何時も泥鰌はいない。   

 

>一方で、新しい人たちは、この成功体験がない。 >よって、先入観がないため、新しいパラダイムをすんなり受け入れられる。 >学校の教員も、そして恐らく保護者の中にも同じ感覚があるはずである。 >それぞれが自分の子ども時代を考えた時、宿題がないなんて有り得ない。 >宿題をきちんとやるのは絶対的な正義であり、それが出ない学校なんて不安で仕方ないだろう。 >かつては宿題忘れという「大罪」に対し、体罰すら容認されていた時代があったのである(かつて国民的人気アニメの主人公が「宿題忘れの罰としてバケツをもって廊下に立たされる」という描写は一般的だった。 >それが今一切なくなったのは、象徴的である)。 

 

新しいパラダイムの始まりですね。    

 

>今教育の世界で、上の立場にある多くの人たちも、同様の経験があるはずである。 >「若い頃は…」という話になれば、今ならあり得ないこともたくさんある。 >なぜなら、時代がそれを容認、あるいは求めていたからである。 >体罰すらテレビで当然のように流されていたぐらいだから、そういうことである。 >それが急激に変わってきている。

 

そうですね。わが国には世界を未来社会に導く指導力がないですね。       

 

>かつては「村」の中の比較だけで一生を終えていたのが、工業化による集団就職で都市部に比較対象が広がった。 >今では世界と容易に繋がれるようになり、グローバリゼーションが進んだ結果、比較検討の対象が世界の国々になっている。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>「宿題」一つの在り方をとっても、ICT活用を見ても、世界の先進国の教育が比較対象になるのは当然である。[ICT: Information and Communication Technology = 情報通信技術]

>パラダイムシフトが起き続けている。>シフトしようか日本が迷っている間に、その新しいパラダイムすらもさらに世界ではシフトしているというスピード感である。

 

日本の国は遅れますね。  

 

>話が広がりすぎたが、身近なところの小さな変化へ抵抗感を示している場合ではないということである。 >かつての絶対的正義は、もはや通用しなくなっている。 >そして一般的に、上の立場にいる人ほど、元々のパラダイムで生きてきたので、変化には抵抗する。  

 

老人は抵抗勢力ですね。   

 

>旧パラダイムにおける成功体験のない若い教員世代が声を上げる以外にない。>感覚の若い人たちみんなで声を上げて変えようとしない限り、既存の学校文化はいつまでも生き続ける。  

 

若い人にはその意思がない。    

 

>なくした方がいいもの。 >残しておいた方がいいもの。 >真剣な検討が必要である。  

 

日本人には世界観がないから真剣な検討は無理でしょうね。   

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。     

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

>どちらもごっちゃになっていれば、確実に「とりあえず保留」になる。>公の場で「それは必要ですか」と声を上げる人が出るかどうかである。>その声に続く人がいるかどうかである。   

 

思考停止をている日本人はとりあえず保留の状態をつづけるでしょうね。  

 

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