>370137 視野が狭い人の特徴って?①~特徴と生じるデメリット~ >前野将克 ( 23 会社員 ) 21/08/29 PM07
>「視野が狭い」。>自分が言われたら嫌な言葉ですよね。 >視野が狭いことで生じる問題も、大人になるとたくさん出てきます。>そこで今回は、そんな視野が狭い人の特徴やデメリット、視野を広げるための方法をまとめました。
役に立つ方法だと良いですね。
>「集中力がある」「物事を深掘りできる」など、決して悪いことだけではありませんが、「視野が狭い」のを改善したいと悩んでいる方は、ぜひ参考にしてみてください。
‘集中力がある’・’深堀出来る’ は日本人の特徴ですね。お陰様で我が国の製品の仕上がりが良く、日本は輸出大国となりました。視野が狭いは日本人の政治音痴にもつながっていますね。
>■視野が狭い人の特徴とは
>・固定観念が強い >視野が狭い人は、固定観念が強い人が多いようです。 >考えが固定化されているので、状況が変わっても普段のやり方にこだわって手段を変えないなど、臨機応変さにかける部分があるよう。
思考停止によるものでしょうね。変える余地がないのですね。
>・自分に絶対的自信がある >自分の考えや行動に、絶対的自信がある自信過剰な人は視野が狭くなりがち。
視野の狭い人には雑念がないですからね。立ち止まることを知らないですね。
>自分に自信があるので他人の意見を聞き入れなかったり、自分の間違いを認められなかったりするよう。
思慮ある人は「現実を直視して考察する」が、凡人は「自分の期待したもの」しか見ようとしないですね。思い込みが強いですね。
>結果的に間違っていたことを修正したり、もっと良い方向に成長したりする機会を失うので、どんどん視野が狭くなっていく悪循環に陥ってしまうことも…。
それは思考を停止しているためでしょうね。
>・こだわりが人一倍強い >視野が狭い人は、こだわりが人一倍強い傾向に。>こだわりが強いことは悪いことではありませんが、時にはその猪突猛進な姿勢が視野を狭くしてしまう可能性もあるようです。
こだわりが問題ですね。リーズン (理性・理由・適当) が必要ですね。リーズナブルな答えを出すように努力しましょう。
>■視野が狭いことで生じるデメリット
>・ミスを何度も起こしやすい >視野が狭い人は自分のやり方に自信を持っている人が多いので、ミスを起こした際、一体何がいけなかったのか、どういった部分に問題があったのかなど、次に同じようなミスをしないようにするための改善点を見出しにくいと言われます。 >自分から周囲へアドバイスを求めることも少なく、助言があっても聞き入れないことがあるので、ミスを何度も起こしやすくなってしまうようです。
そうですね。 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
>・トラブルに対処できない >視野が狭い人は柔軟性に欠ける人が多く、「突発的なトラブルに対処できない」「普段と違う作業に戸惑いやすい」など、気持ちに余裕がなくなる場面が増えてきます。 >いつもと違うことが起きるとパニックになってしまい、その焦りが余計に状況を悪化させてしまうことも…。
そうですね。発想の転換が難しいですね。
>・先を見据えた行動ができない >視野が狭い人は、目の前にある物事だけに集中してしまいがち。
フランク・ギブニー氏の著書 <人は城、人は石垣> には、以下のような指摘があります。
日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には “to be” に当る適当な動詞がない。”being” とか “reality” のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。
>こういった集中力が大切なときもありますが、目の前のことをこなすことに精一杯で、俯瞰して物事を見ることができなくなってしまうことも。 >前に進むためには何が必要なのか先を見据えて取り組めないと、後々ミスが発覚したり自分を追い込んでしまったりすることに繋がってしまいます。
言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。
非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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