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外部評価  

2021-09-30 20:49:08 | 文化

 

>370931        太宰治の「人間失格」から見る、日本人の精神心理① + ② >源 浩司 ( 22 会社員 )     21/09/29 PM04

>「太宰治の人間失格に、人間のすべてが書いてあった」リンク という記事。https://suzukisanchi.com/ninngennshikkaku/

>自らの体験・感情と結びつけて読むことで見えた人間の精神心理がまとめられている。>以下、抜粋

>●外部評価に囚われておびえる生き方   

>僕の話をします。 >小学校時代に限定すれば、勉強も運動も「デキる子」でした。 >勉強に関してはオール5があたりまえ、運動でもリレーの選手、学芸会では先生に主役に指名される、といった具合です。 >正確には「デキる子」という評価を親や先生に与えられて、必死にそれを取り繕い守ろうとしていた気がします。

 

見栄と外聞の世の中ですね。    

 

>当時はもちろん言語化はできていませんが、子どもなりにこんなことを考えていました。>自分は親や先生の期待に応えてデキる子でいなければならない >デキる子でなければ誰にも気に留めてもらえない >僕は自分が特別な人間ではないと知っている >太宰は学校の苦悩をこう表現します。 

 

序列社会の傾向ですね。    

 

>「しかし、ああ、学校! >自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。 >尊敬されるという観念もまた、はなはだ自分を、おびえさせました。 >ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、あるひとりの全知全能の者に見破られ、木っ端みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかされる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。」 

 

実に居心地の悪い状態ですね。  

 

>僕を見破ったのはY君でした。 >子どもはおとなが見えないものがよく見えます。 >Y君は僕の漠然とした不安を見抜いたのでしょう、僕をからかいやイジメの対象としていきます。 >Y君は背が高く力もありました。 >小学生同士のパワーバランスは、言葉どおりパワーで、すなわち筋力で決まります。 >具体的には、足の速さだったりサッカーのうまさだったりするわけです。 >小柄な僕はY君にはかなわず、彼もそれを見抜いていました。 >僕の「困難に直面したら目を背ける。逃げる」といった性質は、この頃にはすでに萌芽し、急速に形になっていったと思います。>Y君から逃げました。

 

‘三十六計逃げるに如かず’ですね。     

 

>必死に逃げることで、僕を形作る「外部評価」の殻が割れないように守ろうとしたわけです。>なぜここまで外部評価を気にする人間になったのかというと、次に書くように、「褒められて育った」からではないかと思っています。 

 

それは他人の評価が自分の基準になっているからですね。   

 

>●褒められて育てられた、その弊害      

>心理学者のアルフレッド・アドラーは「子どもを褒めてはいけない」と言います。>太宰の書くこのような恐怖が僕にも確信的にありました。 >「人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。>想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。」 

 

化けの皮がはがれることは恐ろしい事ですね。    

 

>僕は周りに褒められることで、褒められている自分に価値を感じる人間になりました。 >自分の価値を外部評価に依存してしまったということ。 

 

そうですね。自己判断の完全な欠如ですね。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。 

 

>これは精神状態として非常に脆い。 >すぐに壊れます。 >自分の価値を外部評価に委ねるということは、裏返せば、 >褒められなければ頑張らない >褒められない自分に価値はない >評価を下げる困難に直面したら逃げる   そんな人間になってしまう、ということだからです。>自分の劣勢と不安をY君に見抜かれてえぐられたときの身の毛のよだつ感覚は、しつこく心の奥底にこびりついているような気がします。>内的な自己評価がない人間は、たったひとつの外部評価を全体化して自分に当てはめてしまうのです。

 

そうですね。日本人には世界観がありません。   

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

>本質は内向的なので、外向的に振る舞うことが苦痛でした。>自分をさらけ出すことが評価を下げることにつながると思っていたからです。  

 

かけ値のない自分を皆様方に知っていただくことが大切ですね。   

 

>ただし「社交的」にふるまうのは僕にとって簡単でした。>ここで問題が生じます。 >特に学校という組織においては、「社交的」=「外向的」という間違った等式が信じられ、先生ですらそれを押し付けてきたことです。 >例えば学芸会の主役を指名するような。 

 

俳優にもいろいろな性格の人がいるでしょうからね。   

 

>●内向的と社交的は相反しない   

>自分では内向的人間だと思っているのに、まわりからは「社交的だね」と言われる。 >「私、当てはまる」というかたもけっこういるのではないでしょうか。 

 

そうですね。   

 

>「内向的」の対義語が「外向的」であることは誰もが単語上は理解していますが、「外向的」を「社交的」の同義語をして捉えるのは大きな間違いです。 >人間失格の主人公である大庭葉蔵は陰鬱な雰囲気を纏っていますが、「非社交的」なわけではありません。 >「内向的」で「社交的」、上図で示す★の領域に属します。 

 

そうでしょうね。   

 

>太宰治もそうでしょう。>自分もそうだと思います。 >実はこの領域は自己矛盾と社会的ジレンマを抱えやすいんです。 

 

そうでしょうね。

 

>前述の通り、現代社会において「社交的」であることは「外向的」な人間だ、と判断されがちなので。>他者を演じることについて太宰は、あるタイプの人間にとっては容易なことであると表現します。 >「俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷の劇場であって、しかも六親眷属全部そろって坐っている一部屋の中にあっては、いかなる名優も演技どころではなくなるのではないでしょうか。 >けれども自分は演じてきました。 >しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。 >それほどの曲者が、他郷に出て、万が一にも演じそこねるなどという事はないわけでした。」 

 

それは演技力の問題ですね。    

 

>●うつの習癖、「自分が悪いのだ」

>主人公の大庭はツネ子という女性と鎌倉の海で心中を図り、自身のみが生き残ってしまいます。>罪のアントニム(対義語)についてダベっているときに自ら発した問いに対する堀木の返しを受けて、大庭は内向的性格そのままに自己との対話を始めます。>「「君には、罪というものが、まるで興味ないらしいね」

 

そうですね。日本人には意思がない。意思の無い人間には罪の意識も無い。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人は能動がなくて、受動だけの生活をする。被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪の意識におびえる人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人の体質に合わない。それは陰気のもとになる。だから日本人は罪の話は嫌いです。罪の意識のない人には、病める魂もなく、その救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) という奇特な計画も見事に失敗しました。これは、アフガンに民主主義を植え付けようとするアメリカ人のようなものか。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。 

 

>「そりゃそうさ、お前のように、罪人ではないんだから。 >おれは道楽はしても、女を死なせたり、女から金を巻き上げたりなんかはしねえよ」 >死なせたのではない、巻き上げたのではない、と心のどこかで幽かな、けれども必死の抗議の声が起っても、しかし、また、いや自分が悪いのだとすぐに思いかえしてしまうこの習癖。 >自分には、どうしても、正面切っての議論ができません。」

 

過ちは人の常、許すは神の業 (わざ) To err is human, to forgive divine.ですから、神に祈るしかない。   

 

>うつの傾向に陥りがちな人、この思考回路が自動的に立ち上がりませんか? >「心のなかで必死の抗議の声が起こる」けれど、「いや自分が悪いのだ」と抱え込み、相手と「正面切っての議論ができません」という傾向。>僕はそうでしたね、これ。>すごくわかります。>むしろ非社交的であれば人間関係で悩まずにすむのに、自己評価がタブラ・ラーサ(空白)のために外部評価で自分を形づくろうとするわけです。

 

そうですね。判断力に自主性が欠けているのですね。他力本願・神頼みか。          

 

>ゆえに外部評価を高めるために社交的に振る舞うわけですが、生来の内向性が外向的な領域に引きづられることを苦痛に感じる。 >不思議ですよね。 >この人は頭の中でずーっと独りでしゃべってるにも関わらず、内側からつくられる「自分」がないんです。 >よくわかります。

 

これでは一人前の大人にはなれませんね。個人主義がないところが問題です。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

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