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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

松下幸之助  

2021-09-09 05:03:33 | 文化

>370385        日本人の「徳育の欠如」 >志葉楽        21/09/08 AM07  >日本人の「徳育の欠如」を憂えていた松下幸之助の言葉を紹介します。

>■「このままでは、獣の国になるな」  >昭和581983)年6月。 >先ほどまで、某新聞の取材を受け、その記者が帰ったあと、笑いながら、「きみ、今の記者、よう喋ったな。 >自分の話ばかりして帰ったけど、あれで記事になるんやろうか。 >まあ、本職やから、あれでまとめるんやろうな。

 

餅は餅屋ですか。   

 

>道徳、道徳教育について話があったな。 >それで、わしは必要やと。 >道徳というのは、人として踏み行うべき道のことやな。 >生まれて放っといたら、人の道を知らんということになる。 >獣ならそれでいいけど、人間はしっかりと道徳は教えんといかんな。 >日本の教育の、いちばんの欠点は、徳育が欠けておるところや。 >徳育は大事なものや。 >わしはそういうことを、絶えず言っておるけどね。 >知育、体育、徳育というけど、徳育が中心なんや。 >今の教育は、道徳を教えてへんな。 >今、子どもたちが乱れておるのも当たり前や」  

 

どんな徳育が必要ですかね。   

 

>■衣食足りて、礼節を知る  >「昔の言葉に、“衣食足りて、礼節を知る”というのがある。 >暮らしが豊かになり、衣食に事欠かなくなって初めて、人は礼儀作法をわきまえるようになるということやね。 >まあ、当たり前やな。 >食べることもできん、着るものもないというところで、いくら人の道を説いても、それよりも空腹を満たしたい、食べるものをくれ、寒さをしのぎたい、着るものをくれ、ということになるわ、早い話。 >そういうところでは、道徳を説く前に、雨露をしのげるほどに、飢えに苦しまないほどに、策を講じんといかん。 >それからや、道徳を説く、徳育をすると言うのはね。 

 

そうですね。    

 

>■道義心や礼節はどこへ? >「けど、このところの日本は、終戦のあの食うに物なく、住むに家なく、働くに職なくという状況ではなくなったな。 >だんだんとよくなってきて、もう、生活水準も戦前に比べて、ずっと上がってきたばかりではなく、他国に比べても、相当、ええわな。 >まあ、衣食は足りてきたと言える。 >それならば日本人は、それにつれて道義心や礼節というか、道徳やな、それが高まってきたかというと、そうやない。 >むしろ、低下してきている。 >日本のよさが失われてきている。 >衣食足りて、礼節を知るどころか、衣食足りて、ますます礼節乱れるという状況や。 >このまま、進んでいくなら、きみ、日本は近い将来、必ずや行き詰まってくるわ。 >どうして、こうなったんかというと、道徳教育を学校で教えておらんからな。 >子どもたちは、自分が人間として、やらねばならんことがわからんわけや。 >また、そういう人が親になるから、親としても、子どもに教えられんわな、自分が教えられておらんから。 >このままで行けば、心があかん日本人ばかりになる。 >まあ、獣の国になるな。 >なれば、この国は滅びるということになる」  

 

それは困ったことですね。    

 

>■いつの時代も道徳教育が大事   >「道徳とか道徳教育と言うと、戦前に戻すのか、軍国主義に戻すのかという人たちもいますね」   

 

戦前は軍国主義でしたからね。   

 

>「そういう人達がいるな。 >けど、いつの時代でも、人の踏み行う道は、教え、教育していかんとあかん。 

 

自分からそれを自覚すると良いですがね。    

 

>戦前がけしからんというけど、道徳があかんかったのと違う。   

 

道徳が付け焼刃だったのですね。     

 

>政治家が軍部に負けて、それで戦争になった。  

 

軍部には武力がありますからね。クーデターで脅しをかける。政治家の道徳では太刀打ちできませんね。   

 

>その軍部が都合のいいことを道徳として国民に押し付けた、ただそういうことや。  

 

国民に対する道徳の押し付けは独裁者の常ですね。    

 

>道徳が悪いんではない。 >そういう軍部のつくった、間違った“道徳”を、今も見分けも付けられず、道徳教育反対というのは、見識のない人や。 >良いことと悪いことの区別のできん人たちやな。  

 

悪くなければ、それで良いですね。   

 

>まあ、一般の人が言うならええけど、政治家や指導者にある立場の人が、そういうことを言うなら、政治家の資格、指導者の資格はないわ。>そういう人たちは、今の日本の精神的混迷をどう考えておるんやろう」  

 

政治家・指導者の人達は処世術 (損得勘定) に精を出しすぎていますね。   

 

>手元の湯呑みを取り上げて、お茶の飲みながら、「それに、道徳は精神的なものだけではない。 >実利にもなる。 >人としての道が、ピシッと行き届いておったら、事件も起こらんし、交通事故も起こらんし、詐欺も泥棒もないということになるわ。 >そうしたら、警官の数もそういらんということになれば、それだけ税金も安くなる。 >商売でも、約束は守る、相手を思いやる、丁寧に商いする、礼儀正しく振る舞っていくということになれば、信頼のもと、きわめてスムーズに事は運び、コストもあまりかからんということになる。 >価格も安くなるわね。 >万引きはありません、盗みませんということになれば、それを織り込んだ価格をつけんでいいから、値段も安くなる。 >こういうふうに、商売ひとつ考えても道徳が高いか低いかによって、能率もコストも値段も違ってくる。 >つまり、実利実益がこれによって大いに左右されるということや。 >要は、道徳を高めることが、人間性を高めるということだけではなく、日本の国際的な評価を高める、さらには実利実益にも結びつく。

 

そうですね。しかし、日本の国際的な評価は今一でしょうね。それは、回教徒の国であるトルコが西欧社会から信頼されにくいようなものでしょう。     

 

>道徳は、一挙三得、いや一挙四得、五得にもなるということや。>一度悪い水を飲んだから、水はなんでもあかんと言っておったら、生きていけんのと同じや。>愚かなことや」   

 

そうですね。失敗は成功の母ですね。 Failure teaches success.     

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)   

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。  

日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 () の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。だから、お変わりのないことが何よりなことである。

 自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。恣意の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になって許されない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となって、日本人の生活は以前の生活と変わることがない。  

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人には被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪の意識におびえる人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は贖罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人の体質に合わない。だから嫌いです。それは陰気のもとになる。 

罪の意識のない人には、魂の救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) も見事に失敗しました。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。 

 

 

 

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