>「安倍前首相の影響を残せば腐敗が進む」 法大教授が指摘する「総裁選の限界」 > 2021/09/29 07:00
>杉田敦(すぎた・あつし)/1959年生まれ。 >東京大学法学部卒。 >専攻は政治理論。 >著書に『権力論』、『憲法と民主主義の論じ方』(共著)など (c)朝日新聞社
> 安倍・菅両政権が幕を閉じ、新たな日本のリーダーを選ぶ総裁選で熱戦が繰り広げられている。>だが、現在の総裁選のシステムでは「国民の声を反映しているとは言い切れない」と言うのは杉田敦・法政大学教授。
>AERA 2021年10月4日号は杉田氏にくわしく聞いた。
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> 菅政権は1年余りで終わりを告げ、総裁選には4人が立候補した。 >各候補者がコロナ対策や外交、憲法改正などの政策を主張するが、杉田敦・法政大学教授(政治理論)は、政策議論の前に、前政権の不祥事や疑惑を調査する「換気」が不可欠だと指摘する。
そうですね。政情の不安定は、不祥事や疑惑により生じていますね。
>「菅政権が短命に終わったのは、コロナ対策や経済政策が立ち行かなくなったことはもちろん、安倍政権から続く情報隠蔽や公文書の破棄といった強権が国民の不信感につながったからです。>ただ、4人の候補者のなかに安倍・菅政治に批判的な視点を持つ方はほとんどいません」
そうですね。日本人には批判精神がないからでしょう。
言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。
日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。
非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
> 首相が代わると、政策転換だけでなく、前政権での強引とも指摘される政治のやり方を反省し、リセットする側面もある。
そうですね。政権交代により政治の浄化作用が働きますね。
>だが、安倍政権下であった森友問題について、再調査に前向きな見解を示したのは、野田聖子氏1人のみ。>残る3候補は曖昧な表現にとどめている。
そうですね。物言えば唇寒し秋の風。3候補は様子見に徹していますね。
>「ある政党による政治がうまくいかない場合は別の政党に交代し、膿(うみ)を出し切るのが普通です。>長期政権では官僚がものを言えません。>安倍(晋三)氏がキングメーカーと言われるような形で影響を残した総裁選では、党内の腐敗は進んでいく一方です」
そうですね。
> 4人の誰が総裁になっても、大きな変化は期待できないのだろうか。 >杉田さんはこう言う。 >「安倍、菅(義偉)、麻生(太郎)、二階(俊博)といった古い世代の方々が裏で操縦しようとすれば、人事を巡る交渉が活発化します。 >結局は政治家同士の出世争いのなかで総裁選も動くことになり、恩を売ったり返したりする関係性で凝り固まってしまう。
そうですね。義理が廃ればこの世は闇ということになり、政治家は小さな世界に閉じこもることになりますね。
日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。
我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。
>限界のある総裁選だと思います」 > では、国民は何をどう見るべきか。 >問題なのは、「ある錯覚」を抱いていることにあると杉田さんは指摘する。 >「アメリカやイギリスなど諸外国では、有権者の多くが政党の党員になっているため、国民の多くが選挙に関わることができます。
政治指導者には未来を先取りできる人物が必要ですからね。
>一方、日本は限られた人の声しか総裁選には反映されません。
我が国では、何事もお変わりないことが何よりなことです。わが国には何でもあるが、ただ夢と希望だけがない。
>それなのに、どういった政策の人がいいか、といった質問に象徴されるように、国民が次の総理大臣を選んでいるという錯覚を持たされていることを懸念しています」
国民が思考を停止している国にはどのような特徴があるでしょうかね。
'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)
‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)
'日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。' (ウスビ・サコ)
> 今回の総裁選の投票資格を持つ党員・党友は約110万人。 >国民のわずか1%ほどにすぎない。 >候補者と同じく、議員の多くが党内のしがらみのなかで票を投じることになる。
日本人にとって ‘義理が廃ればこの世は闇’ ですからね。
>「その票が国民の声を反映しているとは言い切れず、人びとが望んでいる形で新しい方向性が出るかどうかが心配です」
各人に哲学は必要ですね。 Everyone needs a philosophy. 日本人には現実があって、非現実 (考え) がない。
> 新型コロナの第5波がピークアウトしたことで、コロナ問題への関心も下火になっている。>必ず来ると見られている第6波に向けた具体的な政策議論が不可欠だが、そうした声も聞こえてこない。
日本人は目先手先の事に神経を集中していますからね。現実しか知らないということは、短所でもあり欠点ともなっています。
>「総裁選の後は、衆議院議員選挙(総選挙)も控えています。>私たち国民もどの政治家が強いといったゲーム感覚の話だけでなく、新しい総裁の政策の中身に注目し、政治のあり方を議論していく必要があります」
残念ながら、政治音痴の国民にはゲーム感覚しかありませんね。政策の中身は政治哲学に関係していますからね。その理解は難しい。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
>(編集部・福井しほ)
>※AERA 2021年10月4日号