>政治に無関心な日本人に海外から呆れ声「文句を言うのに具体的に説明できない」 家族で議論する国も >?LINE共有ボタン >2021年9月21日 6時0分 リアルライブ
> 現在、日本では自民党総裁選へ向け候補者らが日々メディアを通して政策をアピールしているが、そもそも近年、政治自体に興味を示さない若者は珍しくはない。 >そんな日本人を見て、海外の人たちは違和感を覚えるようだ。
そうでしょうね。
‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’ (ウスビ・サコ)
> 日本に留学経験があるという20代のドイツ人は留学中に、同年代の日本人が政治の話をしないことに驚いたという。 >多くの日本人は誰が首相や議員になっても同じと考えていたことに「引いた」と明かし、「こんなふうに国民が考えていると国民が政府からなめられると思った」と警告していた。>また別の20代のドイツ人留学生は「多くの日本人が国に不満があり文句を言うのに、具体的に何が不満なのか説明できなくてびっくりした」と明かす。> さらに日本に長年住んでいたという30代のフランス人男性は職場で政治の話をしたところ、周りの日本人が口ごもったことが「あり得ない」と話し、税金や失業率などは自分たちの生活と直結する話なのに「日本人は興味もなければ知識もなかった」と振り返った。
日本人は政治音痴ですからね。
日本人には意思がない。治められることは考えられても、治めることは考えられない。
日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。
' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。
日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。
恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。
日本人はなれ合っている。なれ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。だから、お変わりのないことが何よりなことである。ノー・アイディアで暮らすことになる。
自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になって許されない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となって、日本人の生活は以前の生活と変わることがない。
日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。
‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)
‘兎角、この世は無責任’ という事か。
自己の意思を表せば、その人は当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。
日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人は能動がなくて、受動だけの生活をする。被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪の意識におびえる人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人の体質に合わない。それは陰気のもとになる。だから日本人は罪の話は嫌いです。罪の意識のない人には、病める魂もなく、その救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。
戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) という奇特な計画も見事に失敗しました。これは、アフガンに民主主義を植え付けようとするアメリカ人のようなものか。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。
各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 欧米人は哲学と意思により人間の行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は ‘口実・言い訳・言い逃れ’ である。本音は、’私意・我儘・身勝手 である。だから、現実の中に行為がうずもれてしまい低俗な感じは避けられない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。
> 日本人の政治への無関心さは海外の人から見ると異質に映るようだが、そもそも海外では人々は政治にどれほど興味を示しているのだろうか。>例えばドイツでは、老若男女関係なく、政治の話をすることが多い。>バスで隣同士になった人と世間話の延長で政治の話になったり、家庭で家族と政治の話をすることもあるそうだ。>家族の間で支持する政党や政策が違うこともあるが、それも議論のためにはいいことと捉えられる。
人人により考えは違いますからね。議論・対話は可能ですね。
日本人は思考を停止していますから、議論・対話はできません。無理にこれを行うと喧嘩のもとになります。
>中学生くらいになると子どもも大人の政治の話に割って入る。>フランスでも友人同士で政治の話をすることがあり、カフェで貧富の差の解消や環境のために政府ができることなど、具体的な話をすることも多い。>「今から議論をしよう」と一人が言い出し、あえて今の国の問題について話し合うこともあるという。> さらにスウェーデンでも政治の話が日常的に交わされ、特に夕食をとりながら家族で話すことが多い。>その際、子どもも交わるが、大人は子どもたちに自分で考えさせ、大人の意見を押し付けないようにするという意味で子どもに政治について教えようという態度は見せず、ただ自分の意見を主張し、子どもに意見を求めることもあるそうだ。>政策などを批判することもあるが、ただ批判をするのではなく、問題がなぜ起きているか、それに対して責任者はどのような対応をしていて何が間違っているのかという部分まで掘り下げる。> このように、日本と比べ海外では政治の話が身近であるようだが、その背景には国が政治に興味を持ちやすい仕組みを作っていることもあるだろう。
政府は国民の要望に応える必要がありますね。でも、わが国には政治に関する国民の要望はありませんね。これは政治音痴が原因です。
>例えばドイツでは自分の考えと似た政党が分かるマッチングアプリのようなものがある。>これは連邦市民教育庁が提供しているもので、いくつかの質問に「イエス」「ノー」「どちらでもない」の3つの選択肢から答えを選んでいくと最後に各政党と自分の考えの一致率が表示されるのだ。>これは選挙の際に活用されるが、選挙の関心を引くことはもちろん、選挙後も自分が支持した政党が主張した政策に沿って動いているか追うきっかけになる。
自己判断の必要な国には自己の希望と政党のマッチングアプリが役立ちますね。でもこのマッチングアプリは日本人には ‘豚に真珠’ ですね。 Cast not pearls before swine.
>『DW』の2017年9月の記事によると、ドイツでは有権者の3人に1人が選挙の際にこのようなマッチングアプリを使用するようだ。 >同じように政党の考えと自身の考えがどれほど一致しているかを調べるマッチングサイトは日本でもあり、新聞社などが提供しているが、ドイツに比べると認知度や利用度が少ないといえよう。
自己の世界観を持たない国民には、政党に関する期待もそこそこでしょうね。
>フランスでは政治家がSNSを活用していて、最近ではマクロン大統領がTikTokを使って新型コロナウイルスのワクチン接種を呼びかけたことが話題になった。>日本でもSNSを利用して国民に情報を発信している政治家は多いが、FacebookやTwitterを使用している政治家も多く、政治に関心がない世代に注目されない場合が多い。
我が国では、政治はだれがやっても同じことになると信じられていますからね。気が付いてみたら、皆が一緒に奈落の底に落ちていたということになります。
>政治に無関心な日本人に海外から呆れ声「文句を言うのに具体的に説明できない」 家族で議論する国も
> マクロン大統領の場合TikTokでワクチンに関する質問を募集し、それに答えていたのだが、FacebookやTwitterではなく、近年、フランスの若者が最も関心のあるツールであるTikTokを使用していた。 >フランスでは若い世代のワクチン非接種が問題視されているが、TikTokへの投稿で注目度が増し若者らがマクロン大統領の投稿を拡散。>ワクチン接種や政府のコロナ対策について意見が交わされることもあった。>マクロン大統領は自撮りでTikTokに投稿したのだが、こういった若者が興味を持ちやすいような演出も功を奏しているといえよう。
フランスでは政治が身近なところにありますね。だが、出羽守の話ばかりでは、わが国の世の中が前には進みませんね。
> 日本でも政治家のSNSの投稿がきっかけで議論が広まることもあるが、フランス在住の日本人によると、日本ではやみくもに批判をしたり、政治家という人に対して批判を向けることが多いが、フランスの場合は「人ではなく政策」に対する意見をきちんと持ち、批判をするという。
日本人は政策論争が得意ではありませんね。それに引き換え派閥抗争ならお手の物ですね。
>批判をする前に自分で調べてSNSなどでつぶやくそうで、「フランス人の議論好きという気質も詳しく調べて議論するという姿勢を作り上げているのかもしれない」と推測していた。
彼らは哲学的ですからね。政治に関する考えは政治哲学になります。各人に哲学は必要です。 Everyone needs a philosophy.
> スウェーデンでは小学生の頃から政治を身近に感じられる仕組みができている。 >多くの学校がニュースについて生徒が話し合う機会を毎日設けたり、学校では投票に行くことはもちろん、デモをすることも大切だと教えられる。 >さらに小さなことでも大人が決めるのではなく、子どもたち自身に決めさせ、一人ひとりが意見を持つことが大切で、それが決定に反映されることを学ばせる。 >例えば学校の予算で新しい本を買う時にどの本がいいか投票で決めたり、幾らかの予算を新しい遊具に使うのか学校の備品の修復に使うのかまで生徒に聞いて投票で決めるのだ。
それは民主主義の実習ですね。
> 他国から見ると、日本人の政治に対する意識の低さはこっけいに映るのかもしれない。>日本人も一人ひとりが自ら政治に関心を持つことも大切だが、国や教育が政治に目を向けさせる仕組みを作ることも必要だろう。
言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。そのことに日本人自身が気づくことが改革の第一歩でしょうね。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。
日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。
非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
>記事内の引用について
「German election: Wahl-O-Mat App pairs voters with political parties」(DW)より
https://www.dw.com/en/german-election-wahl-o-mat-app-pairs-voters-with-political-parties/a-40301081
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