>東洋経済オンライン >学生に「何を学んだのか?」を聞かない企業の失態 なぜサークルやバイトのことばかり聞くのか? > 曽和 利光 2021/10/26 10:30
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>「どんなサークルに所属していたの?」「どの企業のインターンシップに参加した?」など、学生の採用面接で「学業」について聞かれることはあまりありません。 >いったいなぜ企業は、彼らの学習態度を軽視しているのか? >履修データセンター代表の辻太一郎氏と、人材研究所の曽和利光氏による新書『日本のGPAトップ大学生たちはなぜ就活で楽勝できるのか?』より一部抜粋・再構成してお届けします。[GPA: Grand Point Average]
>本章の筆者(曽和)は今年で50歳、いわゆる団塊ジュニア世代です。私が大学生だった頃は、授業に出る学生は今ほど多くはなく、人によっては(私も実はそうでしたが)テスト以外は授業にほとんど出ずにアルバイトやサークルなどの課外活動ばかりしているということも珍しくありませんでした。 >そのため、日本の大学は「レジャーランド」「パラダイス」であるとマスコミなどでも揶揄されていました。
大学生は4年間をキャンパスで遊んで暮らさなければならなかったのですね。英米流の高等教育はわが国には根付きませんでしたね、
> そんな時代にまじめに授業に出ていい成績を取っている人は、今考えると偏見も甚だしいと思うのですが、「せっかくの与えられた自由を謳歌せずに、勉強ばかりしているガリ勉」と就活などでは必ずしも評価されていなかったと思います。 > また残念ながら私の知る限りにおいては、現在でも企業の人事の多くはいまだにそう考えています。
我が国には、人手不足の話はあっても、頭脳不足の話はないですね。
>「何を学んだのか」を尋ねない日本企業の現状 > その証拠に企業の採用面接では、今でも多くの面接官がアルバイトやサークル、インターンシップなどの課外活動のことばかり質問してきます。 >学業や成績のことについて、きちんとヒアリングをする面接官はそれほど多くはありません。
学業の話は敬遠ですね。尋ねても理解できないから。
>学業に関する活動に重きを置いているならば、このようなことにはならないはずです。 > 学業とは単に知識をインプットする受動的な行為であり、それを「ガリ勉」のごとく、いくらしていたからといって、企業に入って仕事で成果を出せるかどうかにはあまり関係ない、それよりも、キャンパスを飛び出して、自分で何かを能動的に行うことのほうが大切などと考えているのかもしれません。
日本の教育はいわゆる物知りを育てる教育ですからね。教官は学生の思考停止状態を問題にしませんね。
> そのため、「どんな授業を受けてきたの?」「なぜその科目にしたの?」「そこで何を学んだの?」とは聞かないのです。
学生の興味の内容は大切ですね。好きなことをやらせたら人は疲れ知らずですからね。
> しかし、実は状況は変わっています。 >私たちの頃とは異なり、今の大学生は皆、きちんと授業に出ているのです。 >学生の本分は学業ですから、当然と言えば当然ですが、これは今時の学生がまじめになったことが理由ではありません。 >文部科学省の方針が変わり、いわゆる「シラバス厳格化」が進んだことがそもそもの原因です。 > 「シラバス」とは、講義要項のことです。[syllabus] >その科目を担当する大学教員が1年間、あるいは半年間の授業計画を、学生に伝えるためのものです。>内容としては、講義名、講義内容、スケジュール、担当教員の氏名、講義のねらいや目標、講義の形式、必要な教科書・参考書、評価方法、その講義を受けることができる学年など、講義に関する情報が記述されています。 > 冊子の形で配られることもありますが、近年では、大学のホームページや学生用のマイページで閲覧できるようになっているところもあります。 >この「シラバス」を明確化することで教育課程を体系化し、きめ細かな指導を行うことで単位制度を実質的なものとし、さらに成績評価も厳格に行うことで、学生が本気で学び、社会で通用する力を身につけるようにしようという試みが「シラバス厳格化」です。
わが国の教育改革ですね。
> これまで日本の大学は「入難出易」(入学するのは難しいが、卒業するのは容易という意味)と言われてきましたが、そのために大学教育が人材の育成につながっていないと批判されてきたことを改善しようということで、大いに趣旨には賛同できることです。> 「シラバス厳格化」は、言い換えれば「ちゃんと授業に出て、こういうことを学ばないと単位は出ません」となったということでもあります。>それを受けて、実際に授業に出席している学生の人数はどんどん増えており、2020年卒の学生において自分が登録している授業の8割以上に出席している割合は84.7%になっています。 > また国立教育政策研究所の調査によれば、学生は授業や研究、予習・復習などに1週間で約27時間を使っています。平日平均で約5時間です。
日本の教育はいわゆる物知りをつくる教育ですから、その卒業生は受け売り専門の人になりますね。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
>今の大学生は勉強するのが当たり前
> 一方、アルバイトは週10時間未満、クラブ・サークルは約4時間と、やはり学業が主になっている実態がわかります。 >大昔の学生にとっては、授業とは「出ても出なくてもよいもの」であったのが、現在の学生にとってはもうすでに「出なくてはならないもの」となっており、学業への注力は半ば選択の余地はなくなっているのです。 >そうであれば必然的に、授業に出ていることの価値も、そこで成績を出すことの意味も変わってきます。 > 「出なくてもよい」という選択肢があるのであれば、授業に出ている人は「勉強が好きな人」と考えることができるわけですが、授業に出なくてはいけないのであれば、そうはなりません。 >学生が「授業には毎日出ています」と言うと「まじめな人なんだなあ」と思う企業の採用担当者はいまだに多いのですが、その解釈は間違っています。 >授業に出るということは、学生にとっては強制力のある「義務」であり、今ではもう「ふつう」のことなのです。
我が国は、頭脳流入の国にならなければならないですね。それにはわが国の研究環境を良くすることが必要ですね。
生活環境が劣悪であると難民流出の国となる。生活環境が良好であると難民流入の国となる。
研究環境が劣悪であると頭脳流出の国となる。研究環境が良好であると頭脳流入の国となる。
現実 (事実) は見ればわかる。現実の正解は一つしかない。非現実 (考え) の内容は見ることはできないが文章になる。文章にならないものは考えではない。
矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy. そうでなければ我々は、つかみどころのない人間となる。
大学などの高等教育機関で自己の哲学の作成に励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。
私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も尋ねられた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。
政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。
我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。
孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)
我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。
言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。
日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。
非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
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