gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

開成OB

2021-10-23 06:43:53 | 文化

 

>ダイヤモンド・オンライン >「開成OBをすぐ調べろ」岸田首相の強すぎる母校愛に震える霞が関の狼狽 > 小倉健一 2021/10/22 06:00

()  

>岸田文雄首相が超名門・開成高校の出身であり、母校愛が強いことは「留意すべき点」として霞が関の省庁で受け止められている。 >省庁内で開成OBを探し、開成閥による岸田首相とのパイプづくりに奔走する霞が関の狼狽ぶりを詳報する。 >(イトモス研究所所長 小倉健一)

>「開成出身をすぐに調べろ」 >霞が関で密かに進む岸田首相の同窓探し  >「あなたはどこを出たの?」> 政治家やキャリア官僚、記者にまで学歴を問うことで知られた宮澤喜一元首相。 >武蔵高(旧制武蔵高等学校)、東京大学法学部を卒業し、「東大法にあらずんば大学にあらず」とばかりの学歴偏重主義に周囲が困惑したのは約30年前のことだ。 > こうした不毛な議論が今、権力中枢で再び起きようとしている。  

 

それは残念なことですね。わが国の序列制度は処世術 (損得勘定) にがっちりと組み込まれていますから、学歴偏重主義として簡単に葬り去ることは難しいですね。   

 

>背景にあるのは、岸田文雄首相のあまりに強すぎる母校愛だ。 

 

日本人の母校愛は一種の帰属意識ですね。その源は日本語に基づく序列体制ですね。      

 

>「誰か開成出身はいないのか。すぐに調べろ」。 >成績優秀者たちがそろう霞が関で9月末、経済官庁の中堅職員は上司にこう命じられた。 > 自民党総裁選で勝利した岸田首相の母校は名門私立・開成高校。東大合格者数で40年連続の全国1位という超エリート校は、意外にも首相の輩出が初めてとなった。 >東大出身者が多い霞が関官僚の中で、その「同窓」探しはひそかに進められた。 

 

不毛の同窓探しですね。無哲学ですが損得勘定につながっていますね。      

 

> 岸田氏は、小渕恵三内閣の建設政務次官時代に旧建設省内の「開成会」を立ち上げるなど母校愛が強い。 >20179月には政官界の開成OBで「永霞会」を発足させ、自ら初代会長に就いた。 > 母校を愛する気持ちは多かれ少なかれ人々が抱くものであり、もちろん自由だ。 >橋本龍太郎元首相が卒業した私立・麻布高校の「麻布閥」は有名である。 

 

同期・同窓が活発なのは無哲学・能天気の表れでしょうね。閥は無哲学な日本人を結束させる手短な手段となっていますね。パイプは閥で作られる。            

 

>岸田首相とのパイプづくりに霞が関が躍起になる本当の理由   > 今回、キャリア官僚たちが気にするのは、宮澤元首相以来30年ぶりに自民党の保守本流をうたう派閥「宏池会」(現・岸田派)から宰相が誕生したことに起因する。 > 無派閥の菅義偉前首相や少数派閥だった麻生太郎元首相がトップに立つことはあったが、宮澤氏以降の首相(自民党総裁)は現在の細田派か旧竹下派から輩出されている。 >それだけに岸田派とのつながりが弱まっていたことは否定できない。 >政界との「パイプ」を重視する官僚たちからすれば、最も有効な一手として見るのは、やはり「開成閥」のつながりということなのだろう。 

 

派閥の力が有力であるということは、それだけ政治家の政治哲学が弱いということでしょうね。

宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ています。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話であります。

宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」(引用終り)

 

> 環境省幹部が霞が関の実情を解説する。>「宮澤氏は周りを東大法卒で固め、時にそれ以外の人を見下すようなことがあった。  

 

宮澤喜一氏は 上と見るか・下と見るかのメンタリティ (考え方) の発達した人でしたね。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。 

我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。  

 

>岸田首相はそんなことをしないと思うが、『開成愛』が強いことは留意すべき点として省庁で受け止められている。 >環境省は中井徳太郎事務次官をはじめ幹部に開成OBがいるからいいが、OBが主要幹部にいない省庁は『開成シフト』を急いでいるようだ」 

 

同じ日本人でありながら、話が良く通じないのは困りものですね。それは内外を区別する日本語の性質によるのでしょうね。          

 

()

> 首相や日本銀行総裁も務めた、開成の初代校長である高橋是清氏は、生徒や教師にこう諭したという。 >「ひたすら前例にのっとることに努め、その結果がどうであるかは本人が関知しないなどというのは、つまり、記憶力と同時に思考力を育成しなかったことの結果というべきです」

 

そうですね。我が国の教育は、思考停止で暗記力だけを延ばす。そして、受け売り専門の物知りを育てる。ということでしょうね。   

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)    

 

>「新しい資本主義」を目指し、総選挙後に数十兆円規模の経済対策を狙う岸田首相。 >「本当に巨額の経済対策が必要なのか」と寄稿した矢野財務次官。 >どちらに当てはまるメッセージなのかは定かではない。   

 

人により考えはまちまちですからね。矛盾を含まない文章は全て正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。 

我が国は、頭脳流入の国にならなければならないですね。それにはわが国の研究環境を良くすることが必要ですね。

生活環境が劣悪であると難民流出の国となる。生活環境が良好であると難民流入の国となる。

研究環境が劣悪であると頭脳流出の国となる。研究環境が良好であると頭脳流入の国となる。 

現実 (事実) は見ればわかる。現実の正解は一つしかない。非現実 (考え) の内容は文章になる。文章にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  そうでなければ我々は、つかみどころのない人間となる。   

大学などの高等教育機関で勉学に励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。 

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

 

.

 

 

 


縁故資本主義  

2021-10-23 03:31:12 | 文化

 

>358719        行き詰まりの本質を認識せず、行きついた先~トップ自身が責任を負わない「ほのめかし」政治~ >どうなる資本主義 ( 27 会社員 )        20/07/25 AM09 【印刷用へ】 >安倍政権下でなぜ日本は「縁故資本主義」になったのか、その本質的理由 >リンク

>---------以下リンクより引用---------

> コロナ禍以降、政治家や官僚との「縁故」が悪用されていると思しき事態が相次いだ。 >(中略) > こうした縁故が物を言う資本主義を「縁故資本主義(=クローニー・キャピタリズム)」と呼ぶが、しかしこれは不思議な話ではないか。 

>(中略) 

 

縁故は馴れ合い関係の事でしょうね。 馴れ合い とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。  

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

>◆ 1970年代に起きた「転換」   >(中略) > 必要とされたのは、「当局者の事後的な裁量判断」が蔓延する体制から「リスク・決定・責任が一致」する体制への移行であり、そのためには、なるべく政治が民間人にリスクをかけることのないよう、国家は民間人の予想を確定することに徹するべきだと述べた。 >(中略) > 国のなすべき役割というのは、その時々に恣意的な決定をすることではなく、民間人が事前にはっきりと把握でき、そのことによってリスクが減ることになる「ルール」を制定することである。

 

そうでしょうね。約款のようにこの場合はこうその場合はそうと前もって民間人にも把握できるように前もって国は提示すべきですね。      

 

>リスクがあって、事態に直面するごとに事後的にどうすべきか考えなければならないようなことには、政府は手を出すべきではなく、リスクを引き受けることができ、それにかかわる情報を把握している民間人に決定を委ねるべきであるとされる。

 

そうですね。原子力発電の事故のようなものですね。   

 

> 以上のような批判は、ソ連型体制には典型的にあてはまったが、西側先進資本主義諸国の公営企業や行政にも多かれ少なかれあてはまるものである。>こうした「当局者の事後的な裁量判断」が1970年代までの国家主導体制の行き詰まりの原因だったというわけである。 >(中略) >◆ 人々が望んでいたことの「本質」  >(中略) >本来なくさなければならないのは、ケースごとに権力者や行政担当者が裁量的に判断し、それを民間人が事前に読めない規制である。

 

なくさなくてはならないのは民主主義の世の中でありながら、政府関係者が民間人をつんぼ桟敷に座らせておくことですね。   

 

>1990年代に規制緩和が世論として盛り上がった時、人々が本当に求めていたのは、このような規制の理不尽さから解放されることだったはずである。> 特に日本の場合よくないのが、官僚がはっきりと指示を出さず、「ほのめかし」みたいなもので民間人を動かそうとすることである。

 

ほのめかしは無責任な態度そのものですね。官僚に会ってはならない態度ですね。     

 

>(中略)>筆者も許認可行政のいやらしさを垣間見ることができた。 >(中略)>もともと問題の焦点は「リスク・決定・責任」が一致しないことである。 >(中略) 

 

日本人には責任 (responsibility) を引き受ける能力がありませんね。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

 

> それでも普通の国では、あまりに重大な被害が出たら、マスコミから叩かれたり、降格したり、辞職に追い込まれたりするぐらいの責任のとり方はされるものである。>それだけでも多少は変な決定がなされないための重しにはなる。 

 

そうですね。   

 

>ところが「忖度」はその程度の責任すらとらないやり方である。 >あくまで形式的には業者の側の自主的判断である。>「忖度」はするほうが勝手にしたのである。

 

そうですね。忖度は自分勝手にするものですね。       

 

>何かあっても業者の側の責任となり、官僚は一切責任を負わない。  

 

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて単語の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので話にならない。かくして、日本人の対話は不可能になる。  

関東軍参謀であった東條英機は、戦後の東京A級戦犯裁判の法廷で、「自分は天皇の忠実な臣下として戦ったまでだ」と答え、ならばこの戦争は天皇の意思・命令によったのかと尋ねられると、「自分が独断でやった」と言葉を変えている。これは日本人に意思の疎通が欠けていることを示す実例である。日本人には意思がない。だから東條といえども天皇の意思・命令を確認することはできない。それで、東條は天皇に対して忖度を使ったのである。

 

> こうした体質がある以上は、業者の側は官僚の意向を探り、規制で手心を加えてもらえるよう、あの手この手で懐柔を図るのは必定である。 >古典的な贈賄はさすがに禁圧されても、接待、天下りの受け入れなどの癒着がはびこることになる。

 

そうですね。官僚は毎日が接待続きですね。    

 

>(中略) >◆ 安部政権の「新自由主義」    > その行き着く先として、「規制緩和」が本来必要とされていたはずの姿からかけ離れ、逆に規制緩和によって本来変えるべき体質を怪物的に強化する結果となったのが、安倍内閣であった。

 

それは皮肉な結果ですね。規制緩和の議論がしっかりとなされていなかったのですね。     

 

>(中略)>◆ 「国家戦略特区」でエコひいき   > その典型例とも言えることが、「第三の矢」の目玉のひとつ、「国家戦略特区」をめぐる問題だった。 >(中略) >つまりそれまでは、いくら官僚の胸三寸とは言っても、官僚組織でいくぶんかは担当者個人の恣意の効かない縛りがあったものを、官僚の判断から首相(とその周辺)の判断に変えることで、ますます事後的な裁量が幅を利かすものになってしまったのである。  

 

日本の政治家は恣意的ですからね。それは日本人に意思というものがないからです。        

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。恣意の人間は指導者になっても権力は持たせられない。人人はできるだけ権力の少ない指導者を望んでいる。すると、指導者は床の間の置物のようなものになる。彼の唯一の業績は '任期中に何もしなかった' ことであると任期終了時にいわれている。  

日本人はなれ合っている。なれ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 () の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。無責任でしかない責任者の権力はできるだけ小さいほうが良いので、日本人は権力の所在についての考えがない。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。

国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。…… どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)  

 

>そうすると、以前は業者が官僚に手心をもとめて接近したように、今度はさまざまな利害関係者が首相個人に接近して、「おトモダチ」になってエコひいきさせるようになることは必然なのである。> そして、決定の結果に自腹で責任がとれないことは、決定者が首相になっても同じである。 

 

恣意には意味がない。だから、恣意決定には説明責任が果たせませんね。    

 

>仮に大きな損失が生まれ、国家賠償まで至ったとしても、本人の負担ではない。>官僚と違って何か悪い影響が起こった頃には任期が終わっているかもしれないから、官僚よりもっと責任がとれない。>絶対多数の与党のトップなら実質的に国会の追及も機能しない。 >その上、やはり「忖度」である。>責任がかかってこないなら、リスクに頓着しないエコひいきな決定はやりたい放題になる。>(中略) 

 

恣意には意味がない。だから、議論の対象にはならない。ということは、恣意の人間は野放しになることである。これでは困るので、不自由を常と思えば不足なしという家訓が生きて来る。     

 

> 私見では、このような安倍首相の精神の文字通りの「象徴」となったのが、天皇の退位を皇室典範の改正ではなく、特例法で認めた措置である。>この法律は、第一条に、天皇(現上皇)個人が、一生懸命がんばってくれて国民も共感しているし、高齢で公務を続けられなくなることを案じる気持ちはわかるので、特別に退位を認めてあげるという旨のことをわざわざ書いている。> つまり、誰にでもあてはまる普遍的ルールとしての法改正ではなく、人を見てその人ごとに、ケースに応じて事後的に判断する加計学園問題の精神なのである。

 

これは人治主義ですね。   

 

>(中略)>安倍政権下では、これまでも同じ顔ぶれで同様のことを続けてきたらしい。>コロナ後の「GoToキャンペーン」事業でもやろうとして叩かれてとりあえず頓挫しているが。> これも、70年代までの国家主導体制の行き詰まりの本質を認識せず、民間営利企業の支配者本位への転換と(意図的に?) 誤認したことの究極の帰結である。 

 

日本人に意思の無いことが議論のできないことにつながっているのでしょうね。議論が出来ないとこの国の矛盾は解消しませんね。  

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)  

>---------------------------     

 

 

.