>歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに >小名木善行です。
>イズムというのは、「◯◯主義」のことを言います。 >よく語られるイズムに、個人主義と国家主義という言葉があります。 >個人主義は、いうまでもなく個人を中心に生きていこうという考え方です。 >国家主義は、国家意思を第一にする考え方ですが、実は両者は同じものです。
個人主義は個人の独立自由を重んじる主義。国家主義は国家を人間社会の中で第一義的に考え、その権威と意思とに絶対の優位を認める立場。国家主義の下では国家の為に個人の権利は下敷きにされている。
>どういうことかというと、人間の体と同じです。 >人の体は、およそ36兆個の細胞でできています。 >そのひとつひとつの細胞の健康と、その個々の細胞の集合体である人体全体の健康は、相等しいものです。 >いくらひとつの細胞が元気でも、人体が死ねば終わりですし、人体が元気であっても細胞が癌化すればやはり寿命は縮みます。 >国家とは、個人の集合体なのですから、どちらが大事というものではなく、どちらもが大切です。 >つまり、個人と国家は運命共同体です。
そうですね。運命共同体には違いありませんが、個人の意思の価値には大きな違いがありますね。国家主義であれば、個人の自由はなくても成り立ちますからね。
>ところが近年の日本や米国では、個人主義を「利己主義」と履き違えている人が増えています。
日本人には個人がないのだから、個人主義は利己主義になるよりほかありませんね。
>利己主義は、自己の利益のみを重視し、他の利益を軽視する考え方です。 >個人も国家も利己主義に陥れば、あたりまえのことですが、その国も個人も環境不適合になります。 >不適合なものを生かすためには、非道や暴力が必要になります。 >日本の近くにある自称大国が、その良い例です。
自国のものは自国のもの、他国のものも自国のものですね。
>環境不適合だから非道に走り、非道に走るからますます環境不適合になるのです。
それは悪循環ですね。そうなれば、自滅の道しかありませんね。
>この世は適者生存です。 >非道が環境になれば、人類そのものが淘汰されます。 >つまり、その自称大国が世界のリーダーになれば、人類そのものが淘汰の対象になります。
そうですね。それは不都合なことですね。
>13世紀のペストの大流行は、世界の人口を半分に減らしました。 >17世紀のペストの大流行のときも同じでした。 >そして21世紀のいま、同じことが起ころうとしています。
悪疫の世界的流行は大国の非道と関係があるのでしょうかね。
>その世界的に大流行して人口半減を起こした13世紀、17世紀のペストは、日本には被害をもたらしていません。 >理由は簡単です。 >当時の日本が非道の国ではなかったし、人々もまた非道を憎み、道理を大切にする高い民度を保持したからです。
ペストの大流行は、非道が原因であるとは限りませんね。
>進化には、 1 淘汰 2 共生 3 適合 の3つの種類があります。 >淘汰は弱肉強食です。 >けれど歴史を振り返れば、強いものが必ずしも生き残るわけではない。 >むしろ、強さを誇るツワモノたちが必ず滅んできたのが歴史です。
強さを保ち続けるのは難しいことですね。
>共生は、共に生きることですが、玉石混交、強者と弱者の共存は、実際には不可能です。 >弱者は一方的に食べられてしまうのが生物の世界です。 >だから子だくさんになって生存を図りますが、人間の世界では、むしろ強者の方が子だくさんです。 >これでは、共生は不可能で、弱者は完全に淘汰されてしまいます。
人間の世界では誰が強者なのでしょうかね。先進国は人口減少に悩んでいるようですがね。
>以前にカンブリアの進化の爆発のことを書きましたが、結局、進化というのは「環境への適合」が果たすということができます。 >秦の始皇帝の時代は戦国期で、相次ぐ戦乱の時代に於いては、周囲の国すべてを敵に回しても勝つことができるだけの強さがものを言って、秦が中原を統一しています。 >けれどその秦が行った法治は、チャイニーズというわがままな人たちには結果として受け入れられず、つまり環境に不適合であったために、秦は統一後わずか15年で滅んでいます。
強さを保ち続けることは難しいことですね。
>利己主義は、周囲との共和を欠き、周囲の環境と適合しません。 >適合しないから利己主義と呼ばれます。 >つまり利己主義は、周囲の環境との適合性がないから、滅ぶことになります。
そうですね。周囲を敵に回したら四面楚歌ですね。
>利己主義であって、かつ滅びないためには、非道と暴力が必要になります。 >日本の近くにある自称大国が、まさにその域に入っています。
そうですね。焚書坑儒が必要になりますね。
>米国の大統領選は、テレビCMの戦いであると言われています。 >そしてそのCMは、互いのネガティブ・キャンペーンに終始します。 >ネガティブ・キャンペーンとカタカナ英語にしたら、いっけんかっこいいかもしれませんが、中身はただの、ののしりあいです。 >一国の、しかも米国という世界にものすごく大きな影響力を持った国の大統領選が、次元の低いののしりあいだということは、世界の指導者は、単にののしりあいに勝利した者、もっというなら、ののしりかたが上手な人だということになります。 >そういうことで、一国の大統領を決めるというのは、あまりにもかなしすぎることです。
ののしり合いあいばかりではないようですね。
>なぜ米国の大統領選が、そうしたののしりあいになるのかというと、米国が「覇権国家」だからです。 >覇権国家では、権力は常に権力の拡大を求めます。 >これは国家最高権力者の意思の如何を問わず、国の成り立ちが覇権を求めるからです。 >そして覇権を得るためになら、何だってするようになります。 >そのために多くの人命が犠牲になろうが、ののしりあいが国是となろうが関係ない。 >これを定性進化といいます。 >サーベルタイガー [剣歯虎] の牙と同じです。
戦争を継続するのは大変なことですね。それが、大国の役割をはたすことになるのですかね。わが国はアメリカに期待を掛けていますね。それで良いのですかね。
>筋力の増加を求める人が、ひたすら筋力の増加を図っていくと、その筋力に骨が耐えられなくなって筋力性の骨折を起こすのだそうです(そこまでの筋力になるためには、猛烈な特訓が必要ですが)。 >また、筋力がありすぎて、自立呼吸ができなるなる人もあるのだとか。
‘過ぎたるは及ばざるがごとし’ ですかね。
>時間をかけて筋力とともに骨の強化も図る、つまり全体をバランス良く成長させることで、そうした問題は起こらなくなるのだそうですが、いたずらに短期間での覇権ばかりを求めれば、最後は自滅してしまうわけです。
伝統的な覇者の国は我々にとって危険ですね。
>我が国には、もともと○○主義というものはありません。
そうですね。〇〇主義は考えの内容ですからね。日本人には作法 (儀式) があって教え (教義) がない。だから形式に囚われやすい。
>ときに皇道主義などという言葉が用いられることもありますが、我が国は〇〇主義などという言葉が生まれるはるか以前からあった国であり、あくまでも民の幸せこそが国の幸せであるとし、その頂点にある天皇(すめらみこと)は、民の安寧を神に祈る御存在であり、国家最高権威です。
日本人は人間序列に囚われていますね。一種の権威主義ですね。
日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。
>では、日本は◯◯主義(イズム)の代わりを何が果たしたのかと言うと、それが「責任」です。 >責任は、ひとりひとりが自覚し、自分で感じるものとしてきたのが日本です。 >実は、そこが諸外国における責任論との違いです。
そうですね。諸外国では、個人が自己の意思を働かせて事態に対処しますね。しかるに日本人には意思がない。従って社会における責任の所在も不明である。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)
>諸外国では、責任は、他から与えられるものです。
それは権力ですね。特定の個人に意思の優先権を与えることですね。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。
国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。・・・・・・・・・ どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)
>泥棒をしたら、捕まえられて手首を切り落とされます。>それはクニが行うことであって、泥棒が自ら恥じて責任を取ることではありません。
それは国が法に従って行うことですね。彼らには罪の文化があって、それは明文化されていますね。彼らに恥の文化はありません。恥の文化はわが国においても明文化されてはいませんね。
>日本では、そうではなく、泥棒をしたら泥棒をした自分が、一生かかってでも責任をとるのです。 >若気の過ちは、生涯を通じて、別な何かで貢献することで責任をまっとうする。 >そういうことを「あたりまえ」の常識としてきたのが日本です。
明文化されていない内容には個人差がありますね。わが国では個人の平等は考えられませんね。
>ですから我が国の歴史や、我が国のあり方を、歴史の浅い他の国と比肩したり、他の国を理想化したり、むやみに他国の文化ばかりを尊敬したりしても詮無(せんな)きことです。
個人の平等は必要ですね。明文化されていない内容は本人の独り善がりに終わりますね。
>むしろ、長い歳月営まれてきた日本的な形を学び、身に付けていくところに、明日への希望があります。 >なぜならそこに「責任」があるからです。
そうですね。だが、日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がない。それは解決能力がないからです。だから、義務ばかりで解決法のない日本式の責任は日本人自身にも敬遠されますね。与えられた責任を遂行しようとすれば解決手段を持たない牛馬と同じ境遇の苦しみを味わうことになるからです。
日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。
' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。
日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。
‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)
‘兎角、この世は無責任’ という事か。
>そして「責任」は、ITがいくら進んだとしても、代替できるものではありません。 >なぜならコンピューターはいくら発達しても責任を取ることができないからです。 >責任は人が取るもの。
思考を停止している物知りの人では、現実に対処することは不可能ですね。現実を直視して考える人が必要ですね。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れる。その一例を以下に掲げる。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
>そして自分が取るものです。
自分の責任は自分で取るものですね。国の責任は国政の責任者が取るべきですね。しかるに、この国がひっくり返った時にもわが国の敗戦の責任者は出なかった。
>こうすることで人々は、究極の環境適合を得ることができます。 >つまり日本的思考は、環境に適合し、未来永劫、繁栄の継続を得るのです。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
>人類社会の未来は、この日本的「人間による責任の自覚」にすべてが託されていると言って過言ではありません。
日本人には意思がない。だから、能動がなくて受動ばかりがある生活をしている。能動の人には加害者意識 (罪の意識) もあるが、受動の人にはそれが薄い。だから日本人は責任のある指導者には不向きである。
>お読みいただき、ありがとうございました。
大変参考になりました。どうもご苦労様でした。
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