>2021年09月24日 >日本の活力は、「集団」の再生にかかっている! >この社会はどのように成立し、統合されるのか。 > http://blog.nihon-syakai.net/blog/2021/09/12779.html
>みなさん、「社会」と聞くと、どんなものを思い浮かべますか?
人間が2人以上いれば、それは社会なのだそうです。
>なんだか、つかみどころがない感じがしますよね。
それは学問だからですね。それは考え方であって、頭から内容を取り出して見せることはできませんね。
>この「社会」をつくり、支えているのはわたしたち自身であり、もっと具体的に言えば「人々の活力」ではないでしょうか?
そうでしょうね。
>人々の活力がなければ、社会そのものも成立しません。>ところが、今、日本の活力は諸外国と比べてもドン底と言われて久しいです。>政治も経済もさえないし、企業間競争も、働く活力も、子どもたちの勉強意欲も今やドン底。>では、そもそも私たち人間はどこから活力を得るのでしょうか?
日本人には ‘あるべき姿’ の内容がない。だから、未来社会の建設に向けた努力のしようがない。
(略)
>ひと同士、なかま同士のやり取りや関係性からではないでしょうか。
そうでしょうね。
>さらに言えば、自分たちが所属する「集団」ではないかと思います。
日本人は序列社会 (縦社会) を作っていましたからね。
>私たちはサル時代から縄文時代、江戸時代に至るいつ何時も「集団」に属しながら生活を営み、活力・充足を得てきました。>人々の活力の原点=「集団」なのです。>つまり「集団の再生」こそが、いま求められているのです。
日本人は常に集団を作っていましたね。それは序列集団でしたね。
日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。
我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。
>しかしながら現代において、あらゆる「集団」が崩壊しかけています。
そうですね。序列社会の集団は崩壊しかけていますね。
>家庭虐待が激増(20年で16.7倍)しているのは何故か? – 日本を守るのに右も左もない (nihon-syakai.net)
>学校は軍隊をモデルに作られた。その強権体質が、今、子供を潰し始めた。 – 日本を守るのに右も左もない (nihon-syakai.net)
日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。
' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。
>家庭、学校、地域、などの多くの集団を崩壊させている原因として「共通の生産課題」がないことがあげられます。
お殿様が廃止されましたからね。‘義理が廃ればこの世は闇だ’ ということでしょう。義理とは、上下関係から生じる個人的な義務のことです。
>(共通課題をとおして互いに活力を得たり、与えあったりという場面は想像しやすいですよね)
兄弟仁義ですね。
>この「共通の生産課題」という視点でみると、【生産体】(企業)という集団が可能性であるということに辿りつきます。>生産体(企業)は、多くのひとがその時間と労力を費やし、共通の生産課題に取り組む集団です。
義理と人情の世界は廃れつつありますね。生産課題は企業の首脳の考えること。それ以外の人は、金を得るために労働力を切り売りする時代になりました。
>社会の活力をつくりだしていくためには、生産体(企業)が活力を生みだしていくことが不可欠!
企業において全ての人がノンマニュアル人間になることはできませんね。ご唱和の世界は二度とわが国に戻っては来ないでしょうね。よしんば戻ってきても、わが国は孤立しますね。外人はわが国において孤立しますね。
>反対に言えば、活力を生み出していくはずの生産体(企業)そのものが、活力ドン底でいては社会を変革していくことは到底できません。
そうですね。家の制度は瓦解しましたからね。一族郎党の力は結集できませんね。企業の活力はその経営陣の知的作業によりますね。
>しかし現実には、自集団の利益だけをもとめた生産体(企業)の働く活力はドン底です。>自分たちの利益第一ではなく、いかに社会・まわりの活力をうみだせるかを第一にした生産体こそが可能性。
そうですね。’自分よし、相手よし、みんなよし’ でなくてはなりませんね。
>社会はたくさんの集団で成り立っているからこそ、この活力ある集団同士がつながりあっていくことが必須なのです。 >【必要なのは地に足をつけた共同体企業の建設】 >実現論序:共同体社会の実現に向けて2 – るいネット (rui.jp) >≪共同体社会というと、「社会」の方に目が向かい勝ちだが、重要なのは共同体社会の構成単位=原点となる、集団=企業である。≫
日本人は、目先・手先の事しか考えられませんね。来るべき世界の内容を個人的に考えて、それを提唱すべきではないでしょうか。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
>≪普通の人にとって、もっとも身近な現実の場は職場である。 >そこには常に大きな圧力が加わっており、従って、誰もがエネルギーの大半をそこで費やしている。>従って、現実を改革したいのなら、まず己の現実の職場を改革すべく尽力すべきだろう。≫ >≪本当に社会を良くしたいのなら、まず、もっとも身近な現実の場である職場をどうすれば改善できるのかを提示し、その上で、社会をどうするかを提示すべきだろう。≫ >≪今必要なのは、遠く離れた抽象的な「社会」ではなく、現実に密着した生活の拠点たる職場を共同体に作りかえること、つまり、企業の共同体化である。>この企業の共同体化から、地に足をつけた新しい共同体社会の構築が、着実に進行してゆく。≫
言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。
日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。
非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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