水瓶

ファンタジーや日々のこと

2015.6.10 の夕焼け&こころ旅

2015-06-10 20:13:30 | こころ旅
今日7時頃の西の空。まるで波打ち際の砂浜のような空になっていました。

今週のこころ旅は栃木で、「どこだろどこだろ?」みたいな感じで見てます。
こころ旅見てると思うけど、日本は関東平野みたいな平たい所は少ないんですよね。
筑後平野とか濃尾平野とか、あとは北海道か。
平たいのがあたり前だと思って育ったけど、今住んでる横浜もえっらい坂多くて、引っ越して来てびっくりしたんです。
自転車で坂上るの、夏は特につらいですほんとに。ひい。

昨日放映された足尾銅山があった町はさびしかったなあ。。あっちの方は行ったことがなくて。
山に大きな穴があいてて、線路の向こうに神社があって、人が歩いてない。。。
なんだかけだるい昼下がりに眠ってるような町で。
過疎化してる町村、今は多いんでしょうけど、
足尾は栄えた頃のなごりがあちこちに残ってるから、なおのこと寂しいですね。
足尾の辺りはうちの実家の方(栃木市)とは訛が違うんだなあ。
でもわたらせ渓谷鉄道はいいなあ。一回乗ってみたい。


こちらは昨日の夕焼け。お空が火事よ!
最近はピンクに焼けることが多いですね。
あちこちで火山活動が活発になってるせいかなあとか思ってるんですけど、どうなんでしょう…?

今日は新栃木駅から壬生町へ。
うーん、なじみ深い感じの平たい景色だ……なじみ深いじゃがいも入りやきそば。
柊なのかギンモクセイなのかわからない、小学校の大きな古木、調べたら、やっぱりギンモクセイのようです。
そうそう、季節はずれのこんな花咲いてた!葉が少しギザギザしてるって。

そして正平ちゃんの今日の名言

「古木になるととんがってるのがめんどくさくなって丸くなるんだよ」

淡い黄金色の麦畑が風にそよいできれいでした。

梅雨入り前のスパイとSF

2015-06-07 20:13:48 | 雑記
これは今日の雲、、、ではなくて、6月4日の雲です。
なんかKindle読書ブログみたいになりつつありますね。今日もそうです。

タイトルだけはよく聞いたことのあったスパイ小説の古典「寒い国から帰って来たスパイ」、
グレアム・グリーン絶賛との評で読み出したら、あれ、あんまり好きじゃないかなあ、失敗したかもと思いつつ、
読みやすいので読み進んでいる内に、お?なかなかいいかも、となってどんどんはまり、
フンフンどうなるどうなる!!?___そして衝撃の幕切れを迎え、読了直後の感想は

うええええ地獄に落ちるぞおぬしらああああ!!!

でした。誰かやつらを成敗して下さい。腹立つ。ふんっふんっっ

発表されたのは1963年で、ベストセラーになったそうです。納得。
作者のジョン・ル・カレも英国情報部の元情報員だったそうで、結構そういう出身の作家聞きますけど、
冷戦時代のスパイってそんじょそこらにいたのか・・?
そうそう、マンガとか映画とかにマイクロフィルムってよく出て来た出て来た…!
しかしスパイ小説って、今はハッカー戦みたいなのが主流になるんでしょうか。
昔はよかった。ハッカー戦なんか読んでもわからんもん。

ジョン・ル・カレの小説、他のも面白いんだろうけど、
こういう話だとちとつらい気もするなあ。どうしようかなあ。
ほぼ五十年前だから、国際情勢から通信環境から今とずいぶん違うんですけど、面白いんです。
きっと今の人の心にも強く訴える何かしらがあるのが古典として残るんでしょうね。シェイクスピアとかも。



で、もう一冊読んだのはアシモフの「宇宙の小石」。隠居した仕立て屋のシュヴァルツじいさんが宇宙を救う話です。
「寒い国から…」より気軽に楽しめる感じで、これも面白かったです。
実はアシモフは今まで推理小説の方を読んでて、SFは意外に読んでなかったのです。
でも本当はSFがメインなんですよね。いっぱい出してるから他のも読んでみよう。

次に買ってあるのはロアルド・ダールとチェーホフ。
なんか読む本が純文学系とSF・ミステリ系にかたよってるのは、
AmazonのKindleストアの小説・文芸ジャンルで「価格の安い順」と「注目度順」で表示して探した結果です。
しかし「価格の高い順」て、わざわざ使う人いるんだろか。。
あと、これまでの購入・閲覧記録からのおすすめは結構的を射てますね。
チェーホフとシェイクスピアは戯曲のジャンルの所にありました。
Kindleストアで本探すのもっと上手にならねばなあ。本屋より難しいかも。

もうすぐ梅雨入り。読書の秋ならぬ読書の雨です。ゲコゲコ♪

中島敦のリアリティ

2015-06-03 09:24:45 | 雑記
この水中から生えてる木、ちゃんと緑の葉もついてるし、どういうことになってるんでしょう?
そういえば桧原湖の写真記事にしなかったので、内容にあんまり関係ないんですけど、合間にのせてみます。
桧原湖ではお天気がくずれて雨降り出したんですが、これはこれでしっとりした雰囲気が悪くないなあと思って。
桧原湖も磐梯山の噴火でできたかなり大きな湖で、小さな島がいっぱいあります。
左下の小さな黒い影は鵜です。すぐ下に岩があるんでしょうか。

昔読んだ時よりずっといいなあと思って、今一番気になってるのが中島敦です。
wikiによると中島敦の家は漢学一家だったそうで、古中国に題材を得ている作品も多く、
見慣れない漢字や時々出て来る漢詩に、ちょっと敷居が高く感じたりします。
また、当時日本の植民地だったパラオに赴任していたことがあり、南洋の島々も舞台にしているんですが、
この古中国と南洋の島というのが、すごく対称的に思えて面白いです。

中でも絶筆らしき「李陵」が圧巻でした(なにせ前漢時代の中国の話なのですさまじいというのもありますが…)。
以前マクニールの「世界史」の上巻にあった、ユーラシア大陸変動の波もとであった騎馬民族の一つ、
匈奴が出て来て、うわ、ほんとにおっそろしい勢力だったんだなあと。。
「天高く馬肥ゆる秋」ということわざがありますが、牧歌的なのんびりした風景を頭に描いてたらとんでもない、
秋になって匈奴の飼う馬がたくましくなって来たぞ、よっしゃ実りの秋だ収穫を狙って方々襲いに行くぞ!
っていう意味なんだそうです。ぎええ。。。
そうして何万という機動力の高い騎馬兵を次から次へと繰り出して来るんですから、
中国の皇帝は代々領土を守るのにそりゃあ苦心したわけですよね。
(といっても匈奴はあくまで収奪が侵攻の目的で、領土を我がものにするつもりはないらしく、
遊牧民の価値観はなんかようわかりませんね???)
ちなみに匈奴の君主は単于(ぜんう)というそうです。

「李陵」で中島敦は、習慣風俗常識からして近現代とは大きく違う遠い昔の漢の国の軍人・李陵の心情を描き、
李陵をかばったせいで武帝の怒りをかい宦官にせられた文官・司馬遷の心情も描き、
また「妖気録」という作品では、稀代の悪女を手中に治めた初老の男が錯乱するさまを描いたりしていて、
しかもそこには、えっ、こんな感じを三十前後で書けるの?と思わず疑ってしまうような、
生々しいリアリティがあります。カフカ描く女性のように。

そして「光と風と夢」という作品は、「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」で有名な、
晩年をサモア諸島で過ごしたイギリスの作家ロバート・ルイス・スティーブンソンの手記という形をとっていて、
これはパラオでの経験を生かして書いたようです。
でも、スティーブンソンの本など入手できるかぎり読んだとは思うけれど、
これはスティーブンソンの手記の翻訳のようなものなのか、
それとも中島敦の経験したことを、作中のスティーブンソンの立場を借りてそのまま書いているだけなのか、と、
読んでる途中で混乱して妙に落ち着かなくなってしまい、wikiで二人の項を調べたりしました。
読み終わる頃には、その妙な違和感はなくなっていましたが。。
でもそう考えてしまうぐらい、この作品にもリアリティがあるんです。

一方で、私小説らしい「かめれおん日記」や「狼疾記」では、
帝大とか出ててずばぬけて頭がいいのは自分でもわかっているのに、実業的なことは好まず向かず、
臆病な自尊心にこだわって、自分は何もなしえていないという劣等感に悩まされ、
またそうして悩むこともぜいたくな悩みと考えあぐねてしまうような、いかにも青年らしい面をあらわにしていて、
「李陵」のまるで老成してるかのような作品と、そうした青年らしい作品が違和感なく両立、というか、
並行して書かれているのがすんごい不思議です。。。
でも中島敦のような青年像は、現代にも通じているような気がしますね。一見大きく違って見えたとしても。

「李陵」での司馬遷は、孔子の「述而不作(のべてつくらず)」にならっていて、
「述べる」と「作る」の違いについて語っています。
「述べる」は、歴史的な事実を淡々と叙述・編することで、史はそういうものだと司馬遷は考えているけれど、
史上の人物たちが、誰と誰の違いもなくみな同じようになってしまうのなら、
果たしてそれは本当に述べたといえるんだろうか?
「作る」は、項羽は項羽であり、始皇帝は始皇帝であり、武帝は武帝でありといった風に、
それぞれにありありと人物を描くことができる。
史といえるかどうかはわからないが、それが今書かれるべきものだ、と司馬遷は確信する。
そして結局、歴史上の人物たちに乗り移られたかのように「作る」、史記を書いたとしています。
これは、中島敦が司馬遷の史記を実際に読んで、そう見当をつけたんじゃないかと思うんですが、
だから「李陵」の司馬遷に言わせると、リアリティは「作る」ものなんです。なんか不思議ですね。
同時にこの「作る」が、「李陵」や「光と風と夢」に見られる、中島敦自身の描き方でもあるのかも知れないと思いました。



もうひとつ面白いなと思ったのは、字をずっと見てると、それがバラバラの線になって、
意味をなさなくなったという話が「文字禍」と「狼疾記」の二つの作品にあって、
どうもこれは中島敦の実体験のように思えました。
たとえば父親の顔も、目と鼻と口と、バラバラにじっと見ているとなんだかわからなくなってくるという記述もあります。
こういう経験は私にはないんですけれども、ああ、人によってはそういうこともあるのかも知れないなと思いました。
バラバラになってしまったものを一つに戻して見直したい、そうするにはどうしたらいいのか探し求めてるような、
そういう傾向が、多くの作品から感じられました。
なんか、私はそういう人の作品が妙に好きなんです。

最後に、中島敦がパラオから日本に帰って来てから書いた「章魚木の下で」(タコノキのしたで)について。
この短い随筆が1943年に雑誌で発表されて間もなく、中島敦は33才という若さで亡くなってしまいます。
なにか思い切って文章を書きにくい空気があっただろう時勢のもとで、何を言わんとしてるんだろうと、
何度も読み返してみたんですが、とてもいい文章だと思いました。誠実な文章だと思います。
時には南洋ぼけも悪くないよね。


こうして自分で考えて大切だと思ったことを、できれば人にも伝わるようにと脳みそふりしぼって言葉にするのは、
私はとても忘れっぽい所があるからなんです。未来の自分が他人のようなものだから。
うん、忘れないようにしなきゃね。