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水瓶

ファンタジーや日々のこと

花とGentle Giant

2015-06-19 08:37:10 | 雑記
このあじさい、少し花びらが細めのような。あじさいは近年どっと色んな種類が増えましたね。
夜中にどしゃぶりになったり、むしむししたかと思ったら肌寒かったり、まったくもって梅雨ですね。



J・P・ホーガンの「星を継ぐもの」というSFがすーごく面白かったです。
文章読みづらいし話の内容も結構難しいしで、ダメだこりゃ読むのやめようと思いながらも、
Amazonにあった内容紹介が気になって読んでる内に、途中からがぜん面白くなって来ました。

「月面調査隊が真紅の宇宙服をまとった死体を発見した。すぐさま地球の研究室で綿密な調査が行なわれた結果、驚くべき事実が明らかになった。死体はどの月面基地の所属でもなく、世界のいかなる人間でもない。ほとんど現代人と同じ生物であるにもかかわらず、5万年以上も前に死んでいたのだ。謎は謎を呼び、一つの疑問が解決すると、何倍もの疑問が生まれてくる。やがて木星の衛星ガニメデで地球のものではない宇宙船の残骸が発見されたが……。」

・・・面白そうでしょう?このあらすじ読んでなかったら読むのやめてたと思います。
本の後ろ表紙に書いてある短いあらすじは大事なんですね。。。





「星を継ぐもの」は三部作で、二作目は「ガニメデの優しい巨人」、三作目は「巨人たちの星」(今これの半分ぐらい)。
遠い過去に何が起こったのかを探り、推理してゆく感じなんですけれど、
まあこれがほんとによく考えられていて、次々湧いて来る謎のフックにひっかけられて、
すっかり引き込まれてしまいました。
タイトルの通り心やさしい大きな宇宙人が出て来て、このガニメアンという宇宙人がちょっと不気味とも思える姿格好ながら、
なんかとってもいい宇宙人なんです。Gentle Giants!
「星を継ぐもの」は前哨、「ガニメデの優しい巨人」が白眉、「巨人たちの星」は後日譚、みたいな感じでしょうか。
とにかくどれも読み応えたっぷりで満足度高いです。
(三部作のあとにまた続編があるらしいんですが、どうすべか……。。)
しかし、アシモフやクラークやこのJ・P・ホーガンやのひと昔前の(正統派?)SFの作家って、
楽天的で明るい人が多いですよね。気持ちが軽くなる。





あと、ジャンルも面白さの種類も違うけど、チェーホフの作品集がよいです。
いっぱい入ってるので小説の方から読んでるんですが、すいすいすらすらスケートかそうめんのように読みやすい!
「星を継ぐもの」がやけに読みづらく感じたのは、チェーホフの後に読み出したせいもあるかも。
さすが文豪といおうか、色んな人を描くのがうまいんですけれど、
ことに意志が弱くて目先の欲求に流されやすいダメな感じの人とかすっごくリアルで(「決闘」)、
うあ~、、なんか身につまされていやだなあ……。。。
チェーホフにもそういう所があったんでしょうかね??もしそうだったら、ちょっとほっとするんですけど。。

純文学って、ふだんはそっとしてる奥まった所に踏み込んで来るような所があるから、
そういうのばっかり立て続けに読んでたら、私はちょっといやになるかな。。。
だから、気軽に楽しめるエンターテイメントっぽいSFとかと交互に読むサイクルが私には合うようです。
読み始めはちょっと違和感あるけど。



豪雨や突風などで、大きな被害が出ないといいですね。
梅雨は穏やかにじめじめするイメージだったけど、最近の梅雨はハードです。

梅雨入り前のスパイとSF

2015-06-07 20:13:48 | 雑記
これは今日の雲、、、ではなくて、6月4日の雲です。
なんかKindle読書ブログみたいになりつつありますね。今日もそうです。

タイトルだけはよく聞いたことのあったスパイ小説の古典「寒い国から帰って来たスパイ」、
グレアム・グリーン絶賛との評で読み出したら、あれ、あんまり好きじゃないかなあ、失敗したかもと思いつつ、
読みやすいので読み進んでいる内に、お?なかなかいいかも、となってどんどんはまり、
フンフンどうなるどうなる!!?___そして衝撃の幕切れを迎え、読了直後の感想は

うええええ地獄に落ちるぞおぬしらああああ!!!

でした。誰かやつらを成敗して下さい。腹立つ。ふんっふんっっ

発表されたのは1963年で、ベストセラーになったそうです。納得。
作者のジョン・ル・カレも英国情報部の元情報員だったそうで、結構そういう出身の作家聞きますけど、
冷戦時代のスパイってそんじょそこらにいたのか・・?
そうそう、マンガとか映画とかにマイクロフィルムってよく出て来た出て来た…!
しかしスパイ小説って、今はハッカー戦みたいなのが主流になるんでしょうか。
昔はよかった。ハッカー戦なんか読んでもわからんもん。

ジョン・ル・カレの小説、他のも面白いんだろうけど、
こういう話だとちとつらい気もするなあ。どうしようかなあ。
ほぼ五十年前だから、国際情勢から通信環境から今とずいぶん違うんですけど、面白いんです。
きっと今の人の心にも強く訴える何かしらがあるのが古典として残るんでしょうね。シェイクスピアとかも。



で、もう一冊読んだのはアシモフの「宇宙の小石」。隠居した仕立て屋のシュヴァルツじいさんが宇宙を救う話です。
「寒い国から…」より気軽に楽しめる感じで、これも面白かったです。
実はアシモフは今まで推理小説の方を読んでて、SFは意外に読んでなかったのです。
でも本当はSFがメインなんですよね。いっぱい出してるから他のも読んでみよう。

次に買ってあるのはロアルド・ダールとチェーホフ。
なんか読む本が純文学系とSF・ミステリ系にかたよってるのは、
AmazonのKindleストアの小説・文芸ジャンルで「価格の安い順」と「注目度順」で表示して探した結果です。
しかし「価格の高い順」て、わざわざ使う人いるんだろか。。
あと、これまでの購入・閲覧記録からのおすすめは結構的を射てますね。
チェーホフとシェイクスピアは戯曲のジャンルの所にありました。
Kindleストアで本探すのもっと上手にならねばなあ。本屋より難しいかも。

もうすぐ梅雨入り。読書の秋ならぬ読書の雨です。ゲコゲコ♪

中島敦のリアリティ

2015-06-03 09:24:45 | 雑記
この水中から生えてる木、ちゃんと緑の葉もついてるし、どういうことになってるんでしょう?
そういえば桧原湖の写真記事にしなかったので、内容にあんまり関係ないんですけど、合間にのせてみます。
桧原湖ではお天気がくずれて雨降り出したんですが、これはこれでしっとりした雰囲気が悪くないなあと思って。
桧原湖も磐梯山の噴火でできたかなり大きな湖で、小さな島がいっぱいあります。
左下の小さな黒い影は鵜です。すぐ下に岩があるんでしょうか。

昔読んだ時よりずっといいなあと思って、今一番気になってるのが中島敦です。
wikiによると中島敦の家は漢学一家だったそうで、古中国に題材を得ている作品も多く、
見慣れない漢字や時々出て来る漢詩に、ちょっと敷居が高く感じたりします。
また、当時日本の植民地だったパラオに赴任していたことがあり、南洋の島々も舞台にしているんですが、
この古中国と南洋の島というのが、すごく対称的に思えて面白いです。

中でも絶筆らしき「李陵」が圧巻でした(なにせ前漢時代の中国の話なのですさまじいというのもありますが…)。
以前マクニールの「世界史」の上巻にあった、ユーラシア大陸変動の波もとであった騎馬民族の一つ、
匈奴が出て来て、うわ、ほんとにおっそろしい勢力だったんだなあと。。
「天高く馬肥ゆる秋」ということわざがありますが、牧歌的なのんびりした風景を頭に描いてたらとんでもない、
秋になって匈奴の飼う馬がたくましくなって来たぞ、よっしゃ実りの秋だ収穫を狙って方々襲いに行くぞ!
っていう意味なんだそうです。ぎええ。。。
そうして何万という機動力の高い騎馬兵を次から次へと繰り出して来るんですから、
中国の皇帝は代々領土を守るのにそりゃあ苦心したわけですよね。
(といっても匈奴はあくまで収奪が侵攻の目的で、領土を我がものにするつもりはないらしく、
遊牧民の価値観はなんかようわかりませんね???)
ちなみに匈奴の君主は単于(ぜんう)というそうです。

「李陵」で中島敦は、習慣風俗常識からして近現代とは大きく違う遠い昔の漢の国の軍人・李陵の心情を描き、
李陵をかばったせいで武帝の怒りをかい宦官にせられた文官・司馬遷の心情も描き、
また「妖気録」という作品では、稀代の悪女を手中に治めた初老の男が錯乱するさまを描いたりしていて、
しかもそこには、えっ、こんな感じを三十前後で書けるの?と思わず疑ってしまうような、
生々しいリアリティがあります。カフカ描く女性のように。

そして「光と風と夢」という作品は、「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」で有名な、
晩年をサモア諸島で過ごしたイギリスの作家ロバート・ルイス・スティーブンソンの手記という形をとっていて、
これはパラオでの経験を生かして書いたようです。
でも、スティーブンソンの本など入手できるかぎり読んだとは思うけれど、
これはスティーブンソンの手記の翻訳のようなものなのか、
それとも中島敦の経験したことを、作中のスティーブンソンの立場を借りてそのまま書いているだけなのか、と、
読んでる途中で混乱して妙に落ち着かなくなってしまい、wikiで二人の項を調べたりしました。
読み終わる頃には、その妙な違和感はなくなっていましたが。。
でもそう考えてしまうぐらい、この作品にもリアリティがあるんです。

一方で、私小説らしい「かめれおん日記」や「狼疾記」では、
帝大とか出ててずばぬけて頭がいいのは自分でもわかっているのに、実業的なことは好まず向かず、
臆病な自尊心にこだわって、自分は何もなしえていないという劣等感に悩まされ、
またそうして悩むこともぜいたくな悩みと考えあぐねてしまうような、いかにも青年らしい面をあらわにしていて、
「李陵」のまるで老成してるかのような作品と、そうした青年らしい作品が違和感なく両立、というか、
並行して書かれているのがすんごい不思議です。。。
でも中島敦のような青年像は、現代にも通じているような気がしますね。一見大きく違って見えたとしても。

「李陵」での司馬遷は、孔子の「述而不作(のべてつくらず)」にならっていて、
「述べる」と「作る」の違いについて語っています。
「述べる」は、歴史的な事実を淡々と叙述・編することで、史はそういうものだと司馬遷は考えているけれど、
史上の人物たちが、誰と誰の違いもなくみな同じようになってしまうのなら、
果たしてそれは本当に述べたといえるんだろうか?
「作る」は、項羽は項羽であり、始皇帝は始皇帝であり、武帝は武帝でありといった風に、
それぞれにありありと人物を描くことができる。
史といえるかどうかはわからないが、それが今書かれるべきものだ、と司馬遷は確信する。
そして結局、歴史上の人物たちに乗り移られたかのように「作る」、史記を書いたとしています。
これは、中島敦が司馬遷の史記を実際に読んで、そう見当をつけたんじゃないかと思うんですが、
だから「李陵」の司馬遷に言わせると、リアリティは「作る」ものなんです。なんか不思議ですね。
同時にこの「作る」が、「李陵」や「光と風と夢」に見られる、中島敦自身の描き方でもあるのかも知れないと思いました。



もうひとつ面白いなと思ったのは、字をずっと見てると、それがバラバラの線になって、
意味をなさなくなったという話が「文字禍」と「狼疾記」の二つの作品にあって、
どうもこれは中島敦の実体験のように思えました。
たとえば父親の顔も、目と鼻と口と、バラバラにじっと見ているとなんだかわからなくなってくるという記述もあります。
こういう経験は私にはないんですけれども、ああ、人によってはそういうこともあるのかも知れないなと思いました。
バラバラになってしまったものを一つに戻して見直したい、そうするにはどうしたらいいのか探し求めてるような、
そういう傾向が、多くの作品から感じられました。
なんか、私はそういう人の作品が妙に好きなんです。

最後に、中島敦がパラオから日本に帰って来てから書いた「章魚木の下で」(タコノキのしたで)について。
この短い随筆が1943年に雑誌で発表されて間もなく、中島敦は33才という若さで亡くなってしまいます。
なにか思い切って文章を書きにくい空気があっただろう時勢のもとで、何を言わんとしてるんだろうと、
何度も読み返してみたんですが、とてもいい文章だと思いました。誠実な文章だと思います。
時には南洋ぼけも悪くないよね。


こうして自分で考えて大切だと思ったことを、できれば人にも伝わるようにと脳みそふりしぼって言葉にするのは、
私はとても忘れっぽい所があるからなんです。未来の自分が他人のようなものだから。
うん、忘れないようにしなきゃね。

回復途上読書録

2015-05-29 09:27:58 | 雑記
のどが痛い……と先週病院に行ったら「あ~のど真っ赤ですねえ。。」と先生。咽頭炎とのことでした。
ようやく治ってきましたが、咳がひどくてインフルエンザよりつらかったです。
気力体力ともに大幅にダウンして何もやる気が起きず、ちょっとうつ気味になりました。
しゃべると喉痛いし、それ以前にしゃべる気も起きないし、そのうえ森のなかまにもうつってしまい、
外は晴れて暑いのに、家ん中はどーんより………

Kindleで本読んでましたが、未読のものだとつい先へ読み進んでしまうので、かえって治りがよくなかったかも。。
ディケンズの「ピクウィッククラブ」の直後にカフカの「城」を読んだんですが、
ごちゃごちゃと色んなものが置いてあるにぎやかな部屋から、
いきなり質素なガランとした寂しい部屋に入ったような気分で、落差がすごいです。
ディケンズは幸と不幸のコントラストが激しいけれど、カフカはなんか全体にうっすら不幸の影がさしてるというか
とにかく幸せそうな人が一人も出て来ないよ………

「城」は、ひょっとしたらどこから読んでもそれなりに面白く読めるのかもと思いました。
ていうかもともと話のすじがはっきりわからん話なのです。
だいたい城ってのがいわゆるお城っぽくないし、「なんでそうなるの?!」みたいにどんどん話進んでくし、
主人公のKも一人称のくせにあんまり腹割って語ってくれてないように思えるし。
「城」は未完なんですが、完結してない惜しさをそれほど強く感じないのはそのせいかも。
でも、パッと適当にページを開いて、誰かのセリフ、というか語りを読み始めたら、
話の前後がわからなくても、せつせつと胸に迫る感じがするんじゃないかと思います。
色んな女の人の気持ちを、よくあんなにこまごまとリアルに書けるもんだなあ。。。
実際にああいう風に話す女性はほとんどいないと思うけれど、
女性の心情を克明に言葉にすると、多分ああいう感じになるんだろうと思います。

中島敦が読みたくなって読んだら、うつっぽい気分にとてもシンクロしてよかったです(いいのか?)。
しかしなんで日本文学の作家って、うつ病っぽい人が多いんでしょうね?
夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、川端康成、志賀直哉、有名どころはみんなうつ病っぽくて、
頭のすぐ上に重くて分厚い天井が迫ってて上向けない、みたいなイメージです。
芥川龍之介は、あの有名な正面からのポートレートすごく決まっててかっこいいけど、
お札の絵になったら景気悪くなりそうですよね。
・・・もとい。中島敦は作品数が少ないせいか、知名度は上記の人たちにくらべると低いけれど、
沙悟浄の話とか特に好きです。
中島敦は33才の若さで亡くなってるんですね。作品からも、すごく「青年」という感じがします。

治りかけにはアシモフがよかったです。なんと21才で書いたという「夜来たる」。
二千年来夜が訪れたことのない星の人たちが、初めて夜を迎え星空を見たなら?___
アシモフもクラークも、科学わからんちんの私でも面白く読めるように書けるのがすごいです。
博覧強記というか、現実に対しても空想に対してもあっけにとられるぐらいどん欲で旺盛で、
ほんとすごいですね。遠い人たち。

そしてもうひとつ、ゴーゴリが面白かったのが意外でした。
十代二十代の頃の自分を思い返すと、ディケンズはその頃でも面白く読めたと思うけれど、
ゴーゴリやカフカは途中でやめちゃったろうと思います。
(じっさいに昔、カフカの短編面白いと思って「城」読み始めたんですが、序盤で挫折してたのです。)
この年になってようやく、面白く読める本の幅が広がって来たんだなあと感慨深いです。
冗長だったりつまらなく感じられる部分も、ちょいとがまんしてやりすごすことができるようになったのかも。

しかしゴーゴリの「鼻」って、なんじゃこりゃ。。

           

まとまりのない文章であいすみません。でもこんだけあれこれ出てくりゃもう大丈夫だな。。
体力が戻るにつれ気力も戻って来てほっとしたけれど、うつ病は両方ダウン状態がずっと続くようなものでしょうから、
すごくつらいでしょうね。。。
森のなかまは懐中電灯をいじったり買ったりしてる内に回復したようです。
そういうものがあるのってちょっとした助けになるもんですね。

冒頭の写真は、猪苗代駅近くの公園です。すぐ向こうの杉並木に沿って、磐越西線の線路があります。
バスや電車の待ち時間をここでぶらぶらしてたら、結構すぐ時間たちました。
遊んでる子の姿が見えないのがさびしいけれど、いい場所でしょう?
では、病み上がりゆえこれにてドロン。



※よくよく考えてみたら、「城」では「Kは___」と言ってるので一人称じゃありませんね……
間違えました。濡れ衣着せてすいません。

kindleとコスモポリタン

2015-05-13 17:10:29 | 雑記
とうとうKindleがうちにやって来ました。paperwhiteという機種です。
・・・あれ、、なんか電子書籍に対してちっと抵抗感あったんですけどどういうんだったか思い出せない。
とこんな感じに今「ワーイ!」状態です。ワーイ!!

まずは有料でピクウィッククラブの上巻を買って、あとは無料のをダウンロードしてます。
青空文庫のものが無料やかなり安く読めるようで、とりあえずポーとかチェスタトンとか。
おおブラウン神父だ、なつかしい・・!
思い出してみると、子ども向け以外の外国の小説を読み始めたのは小学校の高学年頃、
母が推理小説好きでいっぱい文庫本持ってたので、アガサ・クリスティー辺りがスタートだったかなと思います。
結構それで外国(おもにイギリスだけど)の生活がどんな感じなのか大ざっぱにつかんだような気がします。
ちょっと今の日本とは違うので、最初は???って思うことが多いんです。
なんでお金がないお金がないと言いながら大きい屋敷に住んで執事やお手伝いさんがいるのか、とか。
読んでる内に、イギリスではそういうもんなんだとなんとなくなじんでしまったけど。
でも、夏目漱石とか芥川龍之介とかの本だって、同じなんですよね。
生活に困ってるらしい描写があるのに、通いの女中さんがいたりしますから。

Kindleが来る前に、アーサー・C・クラークの「白鹿亭奇譚」と「宇宙のランデブー」を紙の本で買って読みました。
アーサー・C・クラークは好きで結構読んだんですが、なにせ沢山書いてるので読みのがしてるのがあって。
どっちも面白かったですけど、特に「宇宙のランデブー」すごく面白い………!!!
なんでこれ読んでなかったんだろう。ほんとに。
私はクラークの描く未来の人間が好きで、一つの理想像というんでしょうか。
あとSFだけれど、むやみと人が死なないんです。「宇宙のランデブー」も登場人物が一人も死にません。
お話の前提として、小惑星が地球に激突して60万人死ぬという未曾有の大災害が設定されているんですが、
そこはあまり書き込まないで半ページくらいであっさり切り上げてるとこに、
オレが書きたい所はパニックから生じるなんだかんだじゃないんだよ、
みたいなクラークのSF作家としての自負と矜持が感じられます。はい。
「白鹿亭奇譚」の方はちょっと趣向が違いまして、SFほら話といいますか、本人の序曰く、
「SFとユーモアは両立しないとのたまってる批評家どもをぎゃふんと言わせるために書いた(意訳)」そうです。
でも「宇宙のランデブー」にもユーモア効いてるんですよ。すばらしい最後の一文……!

クラークを説明するのに「国際人」という言葉が解説に出て来て、コスモポリタンの訳だと思うんですが、
アイザック・アシモフやH・G・ウェルズにもそういう形容がなされてたかな、、、
今でいうグローバルとはちっとニュアンスが違って、とにかくその当時言われていたコスモポリタンという言葉には、
「(こまかな違いはあれ大筋では)普遍的な倫理観を共有している人たち」という含意があって、
しかもそこに重きを置いていたように私は受け止めていました。
この人たちの本読んでると「それ(普遍的な倫理観)」がどういうものであるか、
また作品を書く上での前提としてしっかり踏まえられていることが、なんとなくわかるんです。
「それ」はあくまでたてまえで、ほぼ幻想のような理想にすぎないと一蹴されてしまうかも知れないけれど(今は特に)、
でも、WWⅡから冷戦という、けしてしゃれにならない危機が水面すぐ下にあった時代を通して、
たしかに「それ」はあるんだ、そういうものが本当に普遍的になる世界を自分たちはつくっていかなければいけないんだ、
という気持ちをくさらずに持ち続けて、東のはしっこの島国まで届く本を書き続けていたっていうのは、
今考えるとすごく胸に来るものがあります。
SF作家のような人たちだからこそ、現実からは遠すぎる夢物語と目の前から払いのけなかったのかも知れませんね。
テクノロジーの飛躍的な進歩よりも、全体的な「それ」の底上げの方が、今ははるかに難しく思えますし。

今は世界的に「それ」が、クラークやアシモフ在命時よりも、ちっと退行しちゃってる感じはあるけれど、
これも大きく見れば過渡期のゆりもどしのようなものであればいいなと思います。
わりと「それ」が当たり前の感覚だと信じて育った私自身も、311以降、普遍の逆へのゆりもどしみたいなことを経験しました。
寄り道や回り道、ふりだしに戻るみたいなことなんですけれど、個人的にはまだ取り返しのつく内でよかったと思います。
そして、それが私にとっては当たり前の感覚である「ふりだし」をつくってくれたのが、
クラークやアシモフ(多分クリスティーやチェスタトンも)といった人たちだったんだと今になって思い当たりました。

森のなかまのお父さんはクラシック音楽が好きで、以前アルフレッド・コルトーというピアニストのCDを貸してくれた時に、
「コルトーの演奏は戦前と戦後で違うから、よーく聞いてごらん」と言われました。
くわしくは知りませんが、コルトーはフランス人だけれどドイツのワグナーが好きでオペラの指揮をしたりと、
結果的にナチスの宣伝、協力をするような形になったらしいんですね。
CD聞いても私には、戦後のが戦前のより音が悪い(レコードのノイズがひどい)としかわかりませんでしたけど。。。
(録音時期が1940年代辺りは多分物がなかったんだと思います。逆に1920年代の方が音質はいい。)
うん、でも、コルトー自身の音の変化、きっとわかる人にはわかるんだよね。

・・・ええと、Kindleからずいぶん飛んだ上長くなったな。。。
写真、Kindleのそばにひかえておるのは、ずいぶん前に浅草の仲見世通りで買った招き猫です。
名前は上げてる手(足)にちなんで右ちゃんと左ちゃん。
買った直後に森のなかまが忘年会のビンゴで二万円当てて来ました。
きっちり一匹一万円ずつひっぱってきてくれた律儀な招き猫です。