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水瓶

ファンタジーや日々のこと

ユーモアと大猫と

2015-05-01 11:53:30 | 雑記
村上春樹さんの期間限定サイト、お答え期間が終わってしまいました。。

しょぼーん。。。

特に面白いなあと思ったのを私が声に出して読んで、森のなかまに聞かせるのが毎日の習慣のようになっていました。
結構深刻な相談もあるんですけど、読んでほっとするというか、ふしぎと心が軽くなる。
ああ、こういう文章に飢えてたんだなあと気がつきました。
親切心と、職業的なというかプロ的な(と言っていいのかな?)少々のドライさと、ユーモアと。
バーのマスターに話を聞いてもらってるような感じ。
うん、今世の中に一番必要なのは、さらりと話を聞いてくれるバーのマスターに違いない・・!



最近読んで、こんな感じのがいいんだよなあ、と思ったユーモラスな小説を二つご紹介。
一つはグレアム・グリーンの「見えない日本の紳士たち」に入っていた「考えると、ぞっとする」。
もう一つは村上さんの「東京奇譚集」に入っている「品川猿」。
どちらも、読んでる間にクスクス笑ってしまった短編です。
こういう小説を読んだ時になる心持ちを、しんどい時でもめげてる時でも、思い出せるようになれたらいいですね。
そして、そうだ。大猫を大事にしよう。かけがえのない猫だから。



           

村上さんのサイトのやりとり、紙の本と電子書籍で出るそうで、
電子書籍の方には紙の本にすると電話帳二冊分ぐらいの量が入るらしいです。
ふーーーむーーー。そしたら読むやつ欲しいなあ。。。
ディケンズの「ピクウィック・クラブ」、読んでみたいなあと思ってたんですが、
今は電子書籍でしか出てなくて、でもいまいち踏み切れずにいたんですが、そっか。。いよいよ買うかあ。
案外こういうのが大きな潮の変わり目になったりするのかも知れませんね。

「村上さんのところ」、見られてよかったです。本当に。

どこにもない国

2015-04-11 11:17:10 | 雑記
せっかく春になったのに、冬に逆戻りしたように寒いし、晴ればれしないお天気が続くしで、どうも風邪気味。。。
というわけで、夜はとっととお布団に入ってぬくぬくとダンセイニ三昧してました。

ダンセイニは「時と神々の物語」という独自の奇想天外不可思議なペガーナ神話が有名なんですが、
これとはまた趣を異にした作品も多いんです。
ペガーナ神話ははまるとはまり込むんですけど、とても密度が濃くて、
読んでてちょっとくたびれてくるような所があるんですが、
他の作品は、適当にすき間があって息がつけるというか、気軽に読みやすいので、
寝る前に毎晩のように読んでるのはこちらの方です。
そうした作品からは、ダンセイニが突出した夢想家であったのと同時に、常識人だったことがうかがえます。
きらびやかで美しい夢の国から帰って来て、楽しかったけれどほっとした、
みたいな終わり方をする作品がいくつかあります。
日常を大事にし、愛しんだ人だったんですね。
「時と神々の物語」のような話を書いてから、日常をより大事にするようになったのかもなあ。。

では、ダンセイニの作品から特に好きなのを勝手にいくつかご紹介。
発表時期を調べたら、後期の作品が多いようです。
後期の方が肩の力が抜けて、力みがとれた風があります。
読みながら余韻を感じる余裕を与えてくれるというか、こだまが返って来るのを待っててくれるというか。
そういうすき間って結構大切なんですね。風邪気味の時なんかは特に。

「狂った幽霊」・・・不気味でわけのわからない雰囲気が非常に怖い話。

「三つの悪魔のジョーク」・・・怖がるべきか笑うべきか?

「名誉会員」・・・特例で厳しい会員制クラブの名誉会員になったマップ氏とは…?
ユーモラスでちょっと哀しいお話。

「秋のクリケット」・・・ほのぼのほんわか。ダンセイニには珍しい雰囲気かも。
ダンセイニはクリケットが好きだったようですね。

「ブウォナ・クブラの最後の夢」・・・ダンセイニの物語には異国、ことに東洋がよく出て来ます。
その東洋はアラビアンナイトのアラビアであり、老子や荘子の中国であり、
現実とはちょっとずれた所にある、牧歌的でありながら奥底の知れない、古い東洋です。
「ブウォナ・クブラの最後の夢」に現れるのは、東洋ではないけれど、
そんな風に人の心の中で美しくかたどられた都市の幻です。

私は、未来の目的のような夢であれ、未知のものに抱く夢であれ、知らず心の内で美しく磨かれてゆく過去の幻であれ、
夢見ることは、これからますます難しくなってゆく気がしています。さびしいことだけど。
だからこそ、ダンセイニの描くフィクショナルな夢幻に、強く魅かれるのかも知れません。
稀少で貴重な、避難所や休憩所として。

、、、と、なんかまとまりがなくなってしまいましたが、これも風邪のせいにしておこう。
ダンセイニについては、ほんとちょっといくらでもなんか出て来るんですが今日はこの辺で。

写真は誤解にもとづいた東洋みたいなイメージのつもりで失敗した写真です。
ロバくんの見てる氷砂糖のようなものは、ちょっとあやしげなお店で買った、ヒマラヤ山脈で採れたという水晶です。
濁ってるから安いんだそう。でも、この大きさ(6㎝ぐらい)に育つまで数百万年かかるんだそうです。
見よ、キャラバンが出発する。

「雑草手帳:散歩が楽しくなる」稲垣栄洋

2015-04-07 19:42:42 | 雑記
森のなかまが前に買って来た本をなんとなくパラパラ見てたら予想以上に面白かったので、ちょっとご紹介。

「雑草手帳:散歩が楽しくなる」

あー、これこれ、この草こういう名前だったのか!とか、
へええ~、てな話が多くて、ほんとに誰かに話したくなることうけ合いです。
思ってたよりもずっと、外来種で帰化した草が多かったです。食べられる草も多いです。

特に面白かった話を一つ二つ。
スイバ(スカンポとも言う)という草は、なんと性染色体があるんだそうです。
(というか本当は植物にそういうものがあるとかないとか考えたこともなかったんですけど……)
植物は一つの個体の中に雌雄があるのが一般的で、雌雄異株は全体の4%ほど。
そういえば銀杏に雌雄があるっていうのは聞いたことあったな。。
スイバはその中でもさらに珍しく、性染色体があるんですね。
別にほんとになんてことない草で、川っぺりとかによく生えてますよね。
葉っぱが酸っぱいので「酸い葉」、スイバというらしいです。
ヨーロッパでは野菜として食べられるそうです。へええ。。

もう一つは葛粉のもとになる、最近では線路際とかにわさわさ生えているのを見かける蔓植物のクズは、昼寝をするんだそうです。
光が強すぎると光合成の能力を超えてしまうので、夏の日の盛りには葉を上へ立てて閉じてしまい、
逆に夜には葉から水分が逃げ出すのを防ぐために葉を垂らして閉じる。
こんな風に葉を自由自在に動かすことができる、すごい草なんです。
安倍晴明の母親が葛葉という白狐だそうで(葛は葉の裏が白い)、なるほどさもあらん。

著者の方によりますと、雑草の定義は「望まれないところに生える草」だそうです。
以下引用↓

たとえば、ヨモギは畑の雑草だが、野菜として草餅の材料になったり、お灸として薬草にもなる。このように望まれた存在であると雑草とは言い難い。雑草は、私たちが邪魔者扱いしたときに、はじめて雑草になるのである。

あくまで人間中心な分け方なわけですが、同じ草でも時と場合によって、
雑草であったりなかったりするっていうの、なんか面白いですよね。
いざ種をまいて生やそうとすると、雑草には雑草なりに独特の発芽のタイミングがあって、
結構難しいんだそうです。

ところで冒頭写真の、川べりで撮ったみごとに草草した草なんですが、どうもこの草はこの本にも見当たりません。
なんて名前なんでしょうね???

草々。

人魚姫と妖精族のむすめ

2015-03-22 08:16:51 | 雑記
聖パトリックデーのパレードを見て、そういえばダンセイニってアイルランドの男爵だよなと思い出して、
またパラパラと読んでました。
「夢見る人の物語」に「妖精族のむすめ」という短編があります。
「妖精族のむすめ」は、たとえていえばアンデルセンの童話の人魚姫で、
人間になった人魚姫がまた人魚に戻って、海に戻って楽しく暮らす、といったような結末でしょうか。
こういう終わり方をするのがいかにもダンセイニ、という感じがします。
私はこの話がダンセイニの中でも特に好きなんです。後ろ向きといえば後ろ向きですけども。

昔読んだドラえもんのマンガにあった話なんですが、のび太の親戚の小さい女の子が、
のび太に人魚姫の童話を読んでもらって、悲しい結末に泣いてしまう。
で、のび太くんはドラえもんに未来の道具を出してもらい、童話の世界に入っていってあれこれ口出しし、
人魚姫をちゃんと王子様と結婚させるというハッピーエンドにつくりかえます。
で、もう一度その女の子にハッピーエンドの人魚姫の童話を聞かせると、女の子は今度は
「お話がちがう~!」と泣いてしまう、というオチ。この話が印象に残ってて。

ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の中にこんな一節があります。ちょっと長いですけど引用しますね。

ごくありきたりの人たちの、ごくありきたりの一生の、ごくありきたりの事がらが、不平たらたらに書いてあるような本は、きらいだった。そういうことは現実にであうことで十分だった。そのうえ何を今さら読む必要があるだろう?まして、何か教訓をたれようという意図に気づくと、腹がたった。事実、その種の本というのは、それがはっきりわかるかぼやかしてあるかは別として、常に読者をどうかしようという意図で書かれているものだ。
 バスチアンの好きな本は、手に汗をにぎるようなもの、愉快なもの、読んでいて夢のあるもの、話の中の人物たちが途方もない冒険をするもの、あらゆる場面を思い描いてみることができるもの、そういう本だった。
 なぜなら、想像すること、それがバスチアンの得意なことだった。おそらく、たった一つの得意なことだった。バスチアンは、ほんとうに目に見、耳に聞こえるように何かをはっきりと思い描くことができた。自分でつくった物語を自分にはなして聞かせるときは、身のまわりで起こっていることすべてを忘れてしまい、話が終わりになって、ようやく夢から覚めるようにはっと気がつくことがよくあった。


主人公バスチアンのことですが、エンデが自分のことを書いてるように思えて。
後半部分は、多分エンデが創作する上での体感のように思えるので、私にはちょっとわからない領域ですが、
前半部分は、実に私も共感します。「意図に気づくと腹がたった。」・・・!

それでも、ただ茫洋と書かれたのでは物語にはならないし、どういう形であれ、本に結末はあります。
アンデルセンにはアンデルセンらしい結末が、ダンセイニにはダンセイニらしい結末が。
書いた人の何かしらが、ちゃんと結末を決めている。
それがハッピーエンドであれ悲劇的なものであれ、書いた人が「善い」と思う方向は、
作品の中に表れているものなんだと思います。
で、「善い」と思われる方向というのは、やっぱりなにがしかの意図、というか、
その人なりの考えがないと示せないんじゃないかと思います。
たとえば「二都物語」には、ディケンズが善いと思う方向がかなりはっきり示されているように思いますし、
読んだ人を感動させよう、というのも「読者をどうかしようという意図」だとすれば、
そうした意図がディケンズにまるきりないとはいえない気がするんだけれど、
いやらしく感じたり腹が立ったりということはなかったし、感動もしました。
エンデの「はてしない物語」だって、読者を感動させようという意図がなかったとはいえないと思うんです。
では、何でそうした意図には腹がたたないんだろうと考えたんですが、誠実に書かれていたからかなあと。
憶測ですが、書かれたものの中には、なんとなく詐欺的に感じるものがあって、
エンデが腹がたつといったそれは、その類いじゃないかなあと。
逆に、誠実に書かれていれば、その作品で「善い」とされる方向が自分が思うのと違っていても、
感動まではしなくとも、いいと思ったりするかも知れない。
ちなみに私の考える「誠実」は、人を物や数のように扱わないことかなあ。
性質を正しくつかんで扱えばこちらの意図通りに反応するのが物で、1+1は必ず2になるのが数。
でも人は、必ずしもそうじゃないから。

そういう意味で、誠実に書かれたものが私は好きですし、自分もそう書きたいと思います。
私のように、読んでる人が一ケタいるのか…?と思うような状況で、誠実に書かないのであれば、
小説なんか書くことにほとんど意味がないように思えるし。。

うーん、結構ややこしいけど、大事なことだと思います。読む方としても、書く方としても。
このことはもうちょっと考えてゆきたい。
でもまあとにかく、私は「人魚姫」より「妖精族のむすめ」派です。沼に帰ろう。ゲコ♪

柵のない野原

2015-03-06 08:37:36 | 雑記
ディラン・トマス本領発揮の詩集、とうとう買ってしまいました。なんと発行昭和53年!
函はやけじみがありますが、中の状態は良いです。よく持ってたなあ。。
2005年発行の新しいものもあるんですが、そちらは在庫なし。
訳は、私は別に古くてもいいんです。さすがに文語調だと読みづらいけど。
詩はあんまりなじみがない方で、宮沢賢治ぐらい。「小岩井農場」はいいですね。
内容については書きようがないんですけど、基本的には小説と同じ雰囲気です。

ディラン・トマスの詩から影響を受けたボブ・ディランが歌をつくって、
ボブ・ディランの歌からまた沢山の人が影響を受けて。
(もちろんボブ・ディランに影響を与えたのはディラン・トマスだけではないでしょうけれど)
ディラン・トマスも、ジェームズ・ジョイスから影響を受けたと言っているそうです。
形のあるものが、いったん人の心にしまわれることで形のないものになって、
発酵、変化して、また形のあるものになって出される。
酒蔵にはそれぞれ違うこうじ菌がいて、そのせいで蔵ごとに違う味のお酒ができるんだそうですが、
こんな風に考えると、人間も酒蔵のようですよね。
ディラン・トマスの酒蔵にはウェールズ菌がいっぱいたんだろな。

言葉は人の心に、一番最初に現れる形じゃないかと思うんです。手でさわれない形だけど。
はじめに言葉ありき。
以下「十八篇の詩」から、「初めに」の一節です。


初めに 言葉があった
言葉は光の固い礎から
虚空のすべての文字を描き出した
そして呼吸のもうろうとした磯から
言葉が流れ出つくし 心に
生誕と死の最初の文字を訳してやった



わからないけど、なんかいいなあと思います。
わからない方が、いいものもありますよね。
答えがあるものばっかりではくたびれるよ。。
ディラン・トマスの詩は、柵のない野原のようです。