株式投資と邪馬台国女王、卑弥呼

"卑弥呼"と"株"。株は49年,古事記は30余年で、邪馬台国=北四国の独自見解です。

宇摩(高天原・邪馬台国)に残る伝承--4--

2006-07-31 15:09:49 | 古代史・古事記講座(宇摩説)

 昨日は日本書紀でも、伊予が特別な状況を話した。それを続けよう。貴方が四国の王となったら、何処に王宮を建てるか、と考えよう。

 四国の周囲は、海で海流が東西から、流れ込んだり、東西に流れ出たりしている。この中心が燧灘で、上げ潮は最後に宇摩郡に着く。交通の中心地名ある

 また、四国だけを見ても、中心都市を造るなら、宇摩郡が良いと誰でも判る。四国の高速道路も宇摩郡で交差する。路でも、宇摩が良い。古代の街道も、宇摩が中心だったようだ。

 駅馬は、三十里(現在の十六キロ)毎に置かれた。宇摩郡は東西約二十キロ、南北もほぼ、二十キロだから、中心付近に作れば一つに成る。だが、宇摩郡内には、大岡、山背、近井の三つも在る。異常に多いことは確かだ。

 昨日書いた、鋳銭司は、宇摩郡の中央部に、鋳鐘(つきかね)、浜辺に、銭倉などの地名が残り、地名からも宇摩に在った事が判る。また、西淋寺文書(709年)には、『伊予国宇摩郡、常里、戸主、金集史、垢麿、、、、」の記録が残る。

 この金集の史(ふひと)は、他には見ないものだ。金属に関係する仕事で、史の姓を貰ったらしい。当時の最先端技術者と言える。

 また、三代実録の巻十八に、『天皇、詔して、堰(いせき)の神の目に、申し賜へともうさく、(中略)常の鋳銭司は路遠くして、妨げ多いにより、、、」と、ある。このことから、中船司は宇摩郡津根に在ったことは確かだ。

 宇摩郡土居町上野田で、素朴な人形、銅滴、溶滓などの、出土があり、この地域だったと推定されている。

 宇摩郡土居町の八雲神社に『伊豫軍印』の素朴な形態で、古さを見せる。律令の軍団は四郡に一団を作った。この時の印鑑は社寺にのこるが、整った形で、現在作ったといっても通るような出来栄えだ。

 軍団印ではなく、この時代より古い時の伊予軍の印鑑だ。私は、伊予総領、大学寮、鋳銭司の全てが、宇摩郡に集中していたと思っている。伊予総領府に、軍隊は必要だろう。また、鋳銭司は護衛が必要だろう。

 大学は時に軍隊にもなる。これらは国家の組織であり、差しさわりの無い限り、近くにある方が便利だ。したがって、四国に関係する国の支所は、中心部に在って、交通の便も良い、宇摩に集中していた、と推定している。

 高安王は伊予国司で、官道ごとの、按察使いも兼ねた。これらの、国家組織が想定される宇摩郡に、一つの学術調査も無い。出土した、古墳や、金銅製の冠(宮内庁)なども、あるが、これも、ほとんど、調査は無い。宇摩は史学によって、田舎の田舎と、無視されたから、考古学まで遠慮をるようだ。

 伊予軍印は、愛媛県の有形文化財。金銅製冠の出た「東宮山古墳」葉、宮内庁の管理です。私は上野の国立博物館で、宇摩郡の川之江で出土(といっても、子供が台風の後の川原で見つけた物)した、広矛が展示されていて、感動した記憶が、今に新しい。広矛は、卑弥呼に一番近い青銅器だ。

 明日は斉明天皇と宇摩について書こうと思う。正史と、宇摩の伝承は相当な開きが在るが、伝承を残す、地元の方が、史実に近いのではないかと推測する。

 今日はこの辺で,              三島   明


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