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毎年、建国記念の日がやってきますが、多くの方は神武天皇が橿原でご即位された日本の建国を祝う記念日と考えられています。現代のわたしたち日本国民が幸せに暮らしていることを、そして日本を創り、発展させていただいたことをご先祖に感謝し、これからの日本を子孫のためにより良いものにして守り続けることを改めて誓う日だと思います。日本在っての日本国民ですから(^_-)-☆
すでに日本建国の真相を推理し、記紀神話の神武天皇は建国の真相を誤魔化すための創作であって、本当は大国主久々遅彦と女王台与の子応神天皇がヤマトの初代祭祀王(後の天皇)だったと突き止めました(巻末の年表と図を参照)。しかし、この重要な知見によって今日の建国記念日の意義は何も変わるものではありません。むしろ前回述べた通り日本国民が皇位継承問題で大きな過ちをしてはならないことに気づかせて頂いたわけです。ひとえにご先祖のご加護によるものでしょう(*ノωノ)
ここで建国の真相解明を裏付ける謎解きの話をひとつ紹介させていただきます。いつもフォローしている方の古代史四方山話に「隋書 倭国伝」に見られる当時の大王(オオキミ、後の天皇)の「まつりごと」が分かる以下のような記事がありました。
阿毎多利思比孤の時代になっても「倭王は天を兄とし、日を弟として天がまだ明けないときに出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出るとそれをやめ、我が弟に委ねる」という体制でした。
これに対して、隋の文帝が「道理に合わないとさとして変えさせた」と書かれています。しかし、いくらシナの皇帝でもこれを変えることはできませんよね。これが開皇二十年(600年)当時の倭国の大王(オオキミ)阿毎多利思比孤(アメノタリシヒコ)の仕事だったからです(注1)。
内容が、神話化されていますので現代日本人は訳わからんと思いますが、日本建国の真相を突き止めるとその言葉の意味が理解できますよ(^_-)-☆
天が兄で日が弟です。どちらも倭国の大王なのですが、それぞれ役割があります。兄はすでに天に上った「宋史 王年代紀」に記載された第十八代王素戔嗚尊(スサノヲ)で二世紀初頭に奴国の司祭師升らのクーデターで殺されました。
弟はクーデターを運よく逃れて、縄文海人ムナカタ族から鉄製武器の供給を受けて吉備を平定し、ヤマト王権の基礎を築きました。兄の後を継いだ第十九代王天照大神尊ニギハヤヒです。
兄は夜明け前に「まつりごと」を行うとありますが、これは天皇陛下が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう宮中祭祀のうち、現在毎朝行われる「日供(にっく)の儀」の元になった祭祀を意味するものと考えられます。タリシヒコの時代は弟の大王が天上の兄神に報告して神託を受けるということでしょう。
建国当時はスサノヲの子孫で大国主久々遅彦の子の初代ヤマトの祭祀王応神天皇が大物主大神(大国主命の和魂にぎたま)の祭祀を斎行し、その後は応神天皇直系の子孫(男系男子)が祭祀王に即位していました。偉大な祖先の霊と一体になって「まつりごと」を行うことができるというのが首長霊信仰です。この場合、祭祀王はスサノヲ・大国主・応神天皇と霊的に一体なのです。現在も天皇ご即位の大嘗祭で行われる真床追衾(まとこおふふすま)が天皇霊を身に着ける儀礼として残っていますよ(^_-)-☆
そして日が昇ってから弟が政務を司るということの内容は、ニギハヤヒ大王の跡継ぎの大王(狗奴国の王卑弥弓呼=彦御子ヒコミコ)が、有力豪族(物部氏・尾張氏など)と合議で倭国の政治を行っていたということだと思います。重要なことや意見が分かれる場合は、皇祖神の神託を受けて大王が意思決定していたのだと考えられます。
そして敗者であった大国主系の豪族(武内宿禰を祖とする紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏・波多氏など)も政治参加が許されました。それによって祭祀王の政治的地位が支えられるようになったと考えられます(注2)。
大きな和によって「まつりごと」を行う考え方が起こりましたので、
後に倭国を和の国とし、その都ヤマトを大和と書くようになったのだと思います。
ヤマト勢は270年頃、西晋に朝貢していた台与・大国主の倭国を滅ぼしたのですが(出雲の国譲り)、後ろ盾としていた呉が280年に滅ぼされた時には恐らく、このままでは倭国も危ないということで、急きょ大国主と台与の子を探し出して、祭祀王として纏向遺跡のヤマトに呼び寄せたのだと推理しています(大物主大神に祟られた崇神天皇の話)。
ですから「隋書 倭国伝」に「邪靡堆を都とす。則(すなわ)ち『魏志』に謂う所の邪馬台なる者也。」とあります。つまりヤマト王権発祥の地纏向遺跡を、「邪馬台」の読み邪靡堆(ヤマトゥ)と呼ぶことにし、卑弥呼・台与の時代からお世話になっている邪馬台国ですから滅ぼさないでくださいねということだったと思います。三角縁神獣鏡の魏の紀年鏡も卑弥呼が下賜された百面の鏡のひとつということにするために日本で作られたフェイクなのかも知れませんね(^_-)-☆
しかしその後の激動の東アジア情勢の中で(注3)、建国したばかりの倭国では祭祀王に権力を集中する動きが起こり、祭祀王が倭国の代表権を持つヤマトの大王(後の天皇)になります。それによってヤマト政権の内部で大きな対立・抗争が起こりました。しかし天皇が絶対権力を持って政治を行う、いわゆるご親政の政体は不安定で、こういう時代の区切りでのみ起こる現象だったようで長続きはしません。直ぐに有力豪族の合議制の政体に戻っています(注4)。
現在では民主主義の政治体制になっています。天皇陛下とご皇室の方々は伝統に従って、ひたすら国家の安泰と国民の安寧のために、日夜厳しい祭祀・儀礼を行って下さっています。それ故、多くの国民が陛下とご皇室を敬い、慕っているのでしょう。国民のひとりとして、このような素晴らしいご皇室の伝統が永遠に続くことを切に希望します。合掌!
(注1)日本書紀から推古八年になりますが、この時の大王(後の天皇)は明らかに男性です。最初の女帝とされる推古天皇はフェイクの女性天皇第一号でした。これは前回述べたとおりです。
日本の未来のためにご皇室を護ろう!(^_-)-☆
(注2)卑弥呼が247年に亡くなって、応神天皇はその2,3年後(250年頃)に大国主と台与の子として生まれたはずですから、280年に即位したとすれば30歳。応神41年(320年)に崩御していますので、70歳は常識的です。その次の仁徳天皇は応神天皇の即位の3年前(277年頃)に生まれています。応神天皇の崩御後、空位が3年あり324年頃に仁徳天皇が47歳で即位しています。その87年後(410年頃)に崩御していますので年齢は133歳となり現実離れしています。日本書紀では110歳、古事記は83歳となっており、全て喰い違っています。応神天皇崩御後の仁徳天皇の治世の間に祭祀王が数代変わったと推理できます。その後の倭の五王は実在したと考えられます。
(注3)西晋は皇族内の抗争(291年の八王の乱)から急激に衰退し、魏の時代からすでに華北に入っていた北方異民族がそれぞれ国を興し、五胡十六国の時代になりました。この西晋の混乱によって倭国が滅ぼされる危険は去りました。五胡とは匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つの民族です。439年に鮮卑族の拓跋氏が建てた北魏が華北統一して五胡十六国時代は終わりますが、すでに西晋の皇族が江南に移って建てた東晋から420年に禅譲された宋(南朝)とが並立する南北朝時代になります。そして、さらに589年に鮮卑族と思われる最初の隋の文帝が南北朝を統一しました。そこにアメノタリシヒコが朝貢しました。
時代を戻して、半島北方のツングース族の扶余族から出た高句麗が隆盛になって半島南部の三韓(馬韓・辰韓・弁辰)を窺いました。倭国のヤマト政権はその支配地の弁辰(伽耶)の鉄を確保するために軍を送り、高句麗と対立しました。その頃の記録が現在の中共吉林省の広開土王碑文に書かれています。四世紀末から五世紀初頭の様子が分かります。そのような中でヤマト政権は半島の利権をどのようにして確保するかが大きな課題でした。ニギハヤヒ系豪族と大国主系豪族がそれぞれすでに建国した百済と新羅を支援して、ヤマト政権内で対立が激化した模様です。そのような中で祭祀王がヤマトの大王となり倭国の代表権を握り、当時優勢であった南朝の宋(420年 - 479年)との外交活動を行ったのが倭の五王だと考えています。
(注4)親政を行った天武天皇が中国の律令制度を日本に導入しようとしたのも、次世代の天皇の独裁を防ぐ意味があったのかも知れません。しかし、制度が完成する前に崩御され、藤原不比等はそれを藤原氏の権力維持に都合のよい形にしました。神祇を中臣氏が抑え、建国時代に活躍した氏族から功績を奪い取って、藤原氏の遠祖の功績にするために「日本書紀」を創作してしまいました。従来の有力豪族の社(やしろ)の祭神や社名を「日本書紀」に合せるように強引に変更してしまいました。天皇家さえも貶める酷い歴史改ざんが行われています。日本の古代に謎が多かった理由なのですよ(;一_一)
【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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すでに日本建国の真相を推理し、記紀神話の神武天皇は建国の真相を誤魔化すための創作であって、本当は大国主久々遅彦と女王台与の子応神天皇がヤマトの初代祭祀王(後の天皇)だったと突き止めました(巻末の年表と図を参照)。しかし、この重要な知見によって今日の建国記念日の意義は何も変わるものではありません。むしろ前回述べた通り日本国民が皇位継承問題で大きな過ちをしてはならないことに気づかせて頂いたわけです。ひとえにご先祖のご加護によるものでしょう(*ノωノ)
ここで建国の真相解明を裏付ける謎解きの話をひとつ紹介させていただきます。いつもフォローしている方の古代史四方山話に「隋書 倭国伝」に見られる当時の大王(オオキミ、後の天皇)の「まつりごと」が分かる以下のような記事がありました。
阿毎多利思比孤の時代になっても「倭王は天を兄とし、日を弟として天がまだ明けないときに出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出るとそれをやめ、我が弟に委ねる」という体制でした。
これに対して、隋の文帝が「道理に合わないとさとして変えさせた」と書かれています。しかし、いくらシナの皇帝でもこれを変えることはできませんよね。これが開皇二十年(600年)当時の倭国の大王(オオキミ)阿毎多利思比孤(アメノタリシヒコ)の仕事だったからです(注1)。
内容が、神話化されていますので現代日本人は訳わからんと思いますが、日本建国の真相を突き止めるとその言葉の意味が理解できますよ(^_-)-☆
天が兄で日が弟です。どちらも倭国の大王なのですが、それぞれ役割があります。兄はすでに天に上った「宋史 王年代紀」に記載された第十八代王素戔嗚尊(スサノヲ)で二世紀初頭に奴国の司祭師升らのクーデターで殺されました。
弟はクーデターを運よく逃れて、縄文海人ムナカタ族から鉄製武器の供給を受けて吉備を平定し、ヤマト王権の基礎を築きました。兄の後を継いだ第十九代王天照大神尊ニギハヤヒです。
兄は夜明け前に「まつりごと」を行うとありますが、これは天皇陛下が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう宮中祭祀のうち、現在毎朝行われる「日供(にっく)の儀」の元になった祭祀を意味するものと考えられます。タリシヒコの時代は弟の大王が天上の兄神に報告して神託を受けるということでしょう。
建国当時はスサノヲの子孫で大国主久々遅彦の子の初代ヤマトの祭祀王応神天皇が大物主大神(大国主命の和魂にぎたま)の祭祀を斎行し、その後は応神天皇直系の子孫(男系男子)が祭祀王に即位していました。偉大な祖先の霊と一体になって「まつりごと」を行うことができるというのが首長霊信仰です。この場合、祭祀王はスサノヲ・大国主・応神天皇と霊的に一体なのです。現在も天皇ご即位の大嘗祭で行われる真床追衾(まとこおふふすま)が天皇霊を身に着ける儀礼として残っていますよ(^_-)-☆
そして日が昇ってから弟が政務を司るということの内容は、ニギハヤヒ大王の跡継ぎの大王(狗奴国の王卑弥弓呼=彦御子ヒコミコ)が、有力豪族(物部氏・尾張氏など)と合議で倭国の政治を行っていたということだと思います。重要なことや意見が分かれる場合は、皇祖神の神託を受けて大王が意思決定していたのだと考えられます。
そして敗者であった大国主系の豪族(武内宿禰を祖とする紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏・波多氏など)も政治参加が許されました。それによって祭祀王の政治的地位が支えられるようになったと考えられます(注2)。
大きな和によって「まつりごと」を行う考え方が起こりましたので、
後に倭国を和の国とし、その都ヤマトを大和と書くようになったのだと思います。
ヤマト勢は270年頃、西晋に朝貢していた台与・大国主の倭国を滅ぼしたのですが(出雲の国譲り)、後ろ盾としていた呉が280年に滅ぼされた時には恐らく、このままでは倭国も危ないということで、急きょ大国主と台与の子を探し出して、祭祀王として纏向遺跡のヤマトに呼び寄せたのだと推理しています(大物主大神に祟られた崇神天皇の話)。
ですから「隋書 倭国伝」に「邪靡堆を都とす。則(すなわ)ち『魏志』に謂う所の邪馬台なる者也。」とあります。つまりヤマト王権発祥の地纏向遺跡を、「邪馬台」の読み邪靡堆(ヤマトゥ)と呼ぶことにし、卑弥呼・台与の時代からお世話になっている邪馬台国ですから滅ぼさないでくださいねということだったと思います。三角縁神獣鏡の魏の紀年鏡も卑弥呼が下賜された百面の鏡のひとつということにするために日本で作られたフェイクなのかも知れませんね(^_-)-☆
しかしその後の激動の東アジア情勢の中で(注3)、建国したばかりの倭国では祭祀王に権力を集中する動きが起こり、祭祀王が倭国の代表権を持つヤマトの大王(後の天皇)になります。それによってヤマト政権の内部で大きな対立・抗争が起こりました。しかし天皇が絶対権力を持って政治を行う、いわゆるご親政の政体は不安定で、こういう時代の区切りでのみ起こる現象だったようで長続きはしません。直ぐに有力豪族の合議制の政体に戻っています(注4)。
現在では民主主義の政治体制になっています。天皇陛下とご皇室の方々は伝統に従って、ひたすら国家の安泰と国民の安寧のために、日夜厳しい祭祀・儀礼を行って下さっています。それ故、多くの国民が陛下とご皇室を敬い、慕っているのでしょう。国民のひとりとして、このような素晴らしいご皇室の伝統が永遠に続くことを切に希望します。合掌!
(注1)日本書紀から推古八年になりますが、この時の大王(後の天皇)は明らかに男性です。最初の女帝とされる推古天皇はフェイクの女性天皇第一号でした。これは前回述べたとおりです。
日本の未来のためにご皇室を護ろう!(^_-)-☆
(注2)卑弥呼が247年に亡くなって、応神天皇はその2,3年後(250年頃)に大国主と台与の子として生まれたはずですから、280年に即位したとすれば30歳。応神41年(320年)に崩御していますので、70歳は常識的です。その次の仁徳天皇は応神天皇の即位の3年前(277年頃)に生まれています。応神天皇の崩御後、空位が3年あり324年頃に仁徳天皇が47歳で即位しています。その87年後(410年頃)に崩御していますので年齢は133歳となり現実離れしています。日本書紀では110歳、古事記は83歳となっており、全て喰い違っています。応神天皇崩御後の仁徳天皇の治世の間に祭祀王が数代変わったと推理できます。その後の倭の五王は実在したと考えられます。
(注3)西晋は皇族内の抗争(291年の八王の乱)から急激に衰退し、魏の時代からすでに華北に入っていた北方異民族がそれぞれ国を興し、五胡十六国の時代になりました。この西晋の混乱によって倭国が滅ぼされる危険は去りました。五胡とは匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つの民族です。439年に鮮卑族の拓跋氏が建てた北魏が華北統一して五胡十六国時代は終わりますが、すでに西晋の皇族が江南に移って建てた東晋から420年に禅譲された宋(南朝)とが並立する南北朝時代になります。そして、さらに589年に鮮卑族と思われる最初の隋の文帝が南北朝を統一しました。そこにアメノタリシヒコが朝貢しました。
時代を戻して、半島北方のツングース族の扶余族から出た高句麗が隆盛になって半島南部の三韓(馬韓・辰韓・弁辰)を窺いました。倭国のヤマト政権はその支配地の弁辰(伽耶)の鉄を確保するために軍を送り、高句麗と対立しました。その頃の記録が現在の中共吉林省の広開土王碑文に書かれています。四世紀末から五世紀初頭の様子が分かります。そのような中でヤマト政権は半島の利権をどのようにして確保するかが大きな課題でした。ニギハヤヒ系豪族と大国主系豪族がそれぞれすでに建国した百済と新羅を支援して、ヤマト政権内で対立が激化した模様です。そのような中で祭祀王がヤマトの大王となり倭国の代表権を握り、当時優勢であった南朝の宋(420年 - 479年)との外交活動を行ったのが倭の五王だと考えています。
(注4)親政を行った天武天皇が中国の律令制度を日本に導入しようとしたのも、次世代の天皇の独裁を防ぐ意味があったのかも知れません。しかし、制度が完成する前に崩御され、藤原不比等はそれを藤原氏の権力維持に都合のよい形にしました。神祇を中臣氏が抑え、建国時代に活躍した氏族から功績を奪い取って、藤原氏の遠祖の功績にするために「日本書紀」を創作してしまいました。従来の有力豪族の社(やしろ)の祭神や社名を「日本書紀」に合せるように強引に変更してしまいました。天皇家さえも貶める酷い歴史改ざんが行われています。日本の古代に謎が多かった理由なのですよ(;一_一)
【参考記事】
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