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邪馬台国はここ!(^_-)-☆

2021-05-22 14:25:43 | 古代史
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いい内容だったので、いかのようなコメントしました。最後までお付き合いください。

畿内説の重要な根拠のひとつの外来土器が九州から関東のものまであるということで図にも書かれていますが、実はその時期の九州のものは外来土器の1%以下です。女王への貢物を送り届ける役目のある伊都国の一大率らが纏向に来た痕跡がほとんどないのです。纏向の最初の大王の石塚古墳(210年頃築造)にも倭国の一部である北部九州の人々がその葬儀に参加した証拠が見つかっていません。ということは纏向が倭国と敵対していたと考えるほかないでしょう。つまり纏向は女王が支配する倭国と対立する狗奴国と考えることが出来ます。魏志倭人伝の記述では狗奴国を女王国の南としていますから菊池市付近から鉄鏃が大量に見つかっているし、地名が狗奴国の官狗古智卑狗に因むようなので、そこが狗奴国と考えられています。しかし菊池付近は倭国大乱まで狗奴国の一部でありましたが、狗奴国の王卑弥弓呼は纏向を都としていたと考えられます(卑弥呼が女王になった時に菊池付近は卑弥呼の倭国に併合されたと考えられます)。

一方九州説の有力候補吉野ヶ里遺跡は、魏志倭人伝の行程記事を素直に読むと、東側に海があって、千余里海を渡ると倭種の国が在るという記述が、纏向遺跡と同様ですが、合致しませんから、女王の支配する倭国の一部ではあるが、邪馬台国ではないと言えます。卑弥呼の墓も見つかっていません。

そして渡邉義浩さんが指摘する通り、魏志倭人伝が西晋の基礎を築いた司馬懿の功績を称えるため書かれたものですから、邪馬台国への行程記事は実際の倭国の位置を示すものではないということです。洛陽から万六千三百余里離れた西域の大国大月氏ヴァースデーヴァ王を朝貢させて蜀を挟み撃ちにした曹操の甥の曹真の功績を超えるものにしたいという政治的な目的から、倭国への魏使の報告書の中で邪馬台国へのデタラメな行程記事が書かれ、陳寿がそれに基づいて司馬懿を称えるために書いた文書が魏志倭人伝です。陳寿はわざわざ東夷の王を誉めちぎる詔勅をほぼ全文載せていますし、本来載せるべき西域伝を省略しました。帯方郡から邪馬台国まで万二千里、洛陽から楽浪郡まで五千余里ですから、洛陽から万七千里という大月氏国よりもさらに遠い、女王が統治するエキゾチックな東夷の大国という設定にしたのは、司馬懿が倭国を手なづけるために任命した帯方郡太守劉夏と倭国の大夫難升米だと推理しました。倭国のことを知らない魏の朝廷の人々を納得させるために誇張して書かれたものですから、現代人が行程記事をいくら真面目に読んでも万人が納得する場所にたどり着けなかったということなのです。(2021.5.23 青字追加修正)


それでは、邪馬台国はどこにあったのか?ですが、倭国大乱の痕跡である鉄鏃が大量に見つかる九州にあったことは確かですが、一大率が置かれた政治の中心伊都国にそれ程遠くではなく、東側が海に接している場所のどこかということになります。

そして、邪馬台国のことが書かれているのは魏志倭人伝だけではなく五世紀に書かれた范曄「後漢書 東夷列伝倭条」にもあり、その答えがここにありました。女王国から東に千余里渡海すると、倭種の国と書く代わりに、ズバリ狗奴国があると書かれています。纏向にあった狗奴国から西に瀬戸内海を約450㎞(千余里)行くと宇佐津にたどり着きます。そこから駅館川を南に遡ると、卑弥呼の宮室と思われる三女(さんみょう)神社という古い社があり、その西側に径百余歩の円墳が見つかりました。詳しい話は刮目天のブログ「卑弥呼の墓は見つかっているよ」をご参照ください。さらにヤマト王権の成立過程も全て判明しました。よろしければ「古代史を推理する」をご参照ください。突然、長いコメントで申し訳ありませんでした。どうぞよろしくお願いします。

【参考記事】
正史は正しい歴史なのか?|д゚)

范曄だけが「魏志の筆法」を見抜いた(^_-)-☆

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