刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

不比等の呪いが日本を破壊する(*´Д`)

2021-02-12 15:49:39 | 古代史
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昨日は紀元節でしたので、日本国民として日本の誕生をお祝いするのが当たり前です。しかし、最も熱心にお祝いしているのが保守の言論人の方々でしょう。刮目天がいつも勉強させていただいている方に以下のような記事がありました。

実在した神武天皇。世界に誇れる皇室や日本が大嫌いな朝日新聞以下の左翼は、潰さなあかんな。 New!
2021年02月11日 更新 2021年02月11日 公開 ナニワの激オコおばちゃん


紀元二千六百二十一年という記紀神話にあった神武天皇即位年基準を日本のオリジナルカレンダーという方もいます。このように長く続いている国は世界中で日本しかないと思いますが、お隣の韓国・朝鮮では檀君朝鮮は神話上の檀君王倹が紀元前2333年に開いた国としており、それで日本の上を行っていると考える日本人はまずいないと思います。でも、最近、古代史研究家が言い出した神武東征が史実だという説はとても好評です。それでも紀元前六百六十年ではなく、紀元前百八十年頃だとか紀元前七十年という説が出ています。大阪平野の発達史を考えると史実に間違いないとしているようです。初期の天皇の寿命が百歳を超えるのは春と秋を二年分に数える春秋二倍年歴を使っていたからという根拠のようです。しかも、それをわたしが愛読している宮崎正弘先生のメルマガで紹介された先生のご意見を引用していました。

それにしても多くの挑戦的な著作執筆で歴史学界に波紋を拡げている田中氏に対して既存の歴史学界が反論一つ、声を挙げないのは何故なのだろう。
これもまた古代史の現代的謎である。
(田中英道さんのことです)

 あはは、思いっきり皮肉ってはりますね(笑)。もうサヨクはどうしようもないですね。『古事記』『日本書紀』は「神話」、「作り話」やと、ずっと言い続け、日本と日本人をひたすら貶め続けているわけですね。

 そろそろ私ら日本人はこういう、日本が大嫌いな連中を、どうにかせんとあかんのとちゃうか、と最近、思い始めています。

最後の部分は全く同感なのですが、歴史学会が反論しないのは当たり前です。それは大和王権が成立したのは奈良県桜井市の纏向遺跡の初期前方後円墳によって三世紀だと証明されているからです。しかも二倍年歴の問題も荒唐無稽なこじつけだとしてとっくに解決済ですから(注1)、バカバカしい妄説を相手にする専門家は居ないということなのです。それでも、保守の言論人の多くは歴史学者がみんなサヨク思想にかぶれているためだと信じ込んでいますから、だれもまともな専門家は相手にしたくないのでしょう(;一_一)

刮目天も日本建国の過程を推理し、三世紀末に第十五代応神天皇が纏向で初代天皇として即位したと分かりました。

神武東征神話は日本建国の史実を誤魔化すために作られた神話だと突き止めています。上に揚げたこと以外にも神武天皇が架空の天皇であることの証拠としてはいくつもあります。最も分かりやすい事実として、初代天皇であるにもかかわらず神武天皇を祭神とする神社が応神天皇に比べて極端に少ないことが挙げられます。同様に神武東征を命じた天照大御神を祀る神社は伊勢神宮ですが、行幸されてご親拝された方は持統天皇から明治天皇までどなたもおられないとのことです。

江戸時代の学者では、天照大神男神説を唱える学者もかなりいたそうです。明治以後も刮目天が言い出したわけではなく、神話研究の大御所津田左右吉など多くの専門家が男神だと言っているとWiki「天照大神」にあります。同じくWikiに、太陽神は男神だという説や、次のような記事もあります。

平安時代、『寛治四年十一月四日伊勢奉幣使記』で伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式がほとんど男性用の衣装であって、江戸時代の伊勢外宮の神官度会延経はこれを典拠にして、『左経記』の宇佐への女子用装束と比較して、「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。(『内宮男体考証』『国学弁疑』)。また、『山槐記』永暦二年(1161)四月廿二日条、『兵範記』仁安四年(1169)正月廿六日条にも内宮に男子装束が奉納された記事がある。

京都祇園祭の岩戸山の御神体は伊弉諾命・手力男命・天照大神であるが、いずれも男性の姿である。天照大神の像は「眉目秀麗の美男子で白蜀江花菱綾織袴で浅沓を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸にかけ笏を持つ。」と岩戸山町で伝えられるとおりの姿である。江戸時代、円空は男神として天照大神の塑像を制作している。江戸時代に流行した鯰絵には天照大神が男神として描かれているものがある。京丹後市久美浜町布袋野(ほたいの)の三番叟(さんばそう)に登場する翁は天照大神を表すとされ、振袖を着てカツラを装着し、かんざしを挿して金色の烏帽子を被る姿である。また、藤原不比等が女性が天皇に即位できるように記紀を作り替えたとも言われる[23]。


刮目天は、天照大神はスサノヲの後に奴国大王となった饒速日尊(ニギハヤヒ)だと突き止めました。

天武天皇崩御後に皇后鵜野讃良(うのさらら、持統天皇)と藤原不比等が権力を握ったので女性天皇を正当化するために、天照大神を女神とし、孫の天孫降臨神話を創作し、さらに二人の女帝を前例としてねつ造したと突き止めています。

藤原氏が将来に渡り権力を握り続けるために、

建国の真相を隠ぺいして藤原氏の遠祖が建国に貢献したことにしたのが事実です。

ですから神武天皇は存在していませんし、東征してヤマトで即位したというのは事実ではありません。

日本が建国された三世紀の纏向遺跡の外来土器を調べると九州からの外来土器はほとんど皆無なのです。

それで、何で刮目天がここまでしつこくこだわるのかですが、これは何度も述べていますが、千三百年前の日本神話に埋め込まれた藤原不比等の呪いが日本を破壊すると考えているからです。


女性・女系天皇 「支持」が高く 天皇に「親しみ」58%
2020年4月26日 02時00分 

 共同通信社は二十五日、郵送方式で実施した皇室に関する世論調査の結果をまとめた。五月一日で即位から一年となられる天皇陛下に対し「親しみを感じる」と回答した人は58%だった。男系男子に限るとした皇位継承を巡り、女性天皇を認めることに関し「賛成」「どちらかといえば賛成」のいずれかを選んだのは計85%に上った。母方に血筋がある女系天皇も計79%が賛成の意向を示した。

リベラルを装うサヨク陣営が狙っている日本破壊の仕上げが女系天皇による易姓革命なのです。

彼らが日本を支配する上で、日本国民の結束のよりどころであるご皇室の存在がとても邪魔なのです!

神武東征を信じると、日本の皇祖神がアマテラス女神であったとなります。

皇統が消えるくらいなら内親王殿下を女系天皇にして新たな血統で

皇室を存続させてもいいじゃないかというサヨク論理に逆らえなくなります。

その布石が、皇位継承者を意図的に減らし、女性宮家の創設であり、女性天皇なのです。

日本の長い歴史の中で、天皇の仕事を完ぺきにこなせる女性天皇は居ませんでした。

つまり、女性は天皇(大和の祭祀王)には成れないのです。

これは差別の問題ではなく役割の問題なのです。

天皇は首長霊信仰によって皇祖神と霊的に一体となる日本国の元首(首長)なのです。

皇祖神は天照大神尊(ニギハヤヒ)であり、その父の伊弉諾尊(イザナギノミコト)あるいはそのご先祖たちなのです。

皇統の男系男子のみが天皇に即位できるのです。


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(注1)日本書紀に春と秋の内容の記事が一年ごとに記述されてはいないので、そのような年の数え方はしていなかったとすでに証明されています。このような珍説は神武東征説を史実にしたいためのこじつけだと言えます。

この説は元々魏志倭人伝の裴松之の注に魏略曰「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」とあったことから古田武彦氏が言い出したようです。これに対して塚田敬章さんのブログで以下のように批判されています。
●「春耕、秋収を計って年紀としている。」という裴松之の注を元に、「二倍年暦」という不思議なものを案出されています。どうも春と秋で一年を二倍に数えていると考えるらしい。「その人寿考。あるいは百年、或いは八、九十年」とあるのは、半減して、当時の平均寿命と思われる四十五くらいになりますから、現実と合うのだそうです。しかし、それなら長生き(寿考)という表現は使えない。平均にあわせれば普通でしょう。
 帯方郡使は現実にいろいろな人と出会っているわけです。派遣された張政は何歳くらいだったのだろう。軍事顧問として派遣されたわけですから、若造は出せないはず。そういう経験の深い指導力のあるベテラン。誰も知らない南方の蛮地へ旅し、活発に動かなければならない。体力も必要です。そういうものが考慮されたとすれば、自身が四十歳前後だったのではないか。若く考えても三十歳は越えていただろう。人種的にはたいして変わりがないわけですから、四、五十の人間と、八、九十に見える人間の区別がつかないだろうか。
 太古から、人間の営みは自然とともにありました。日本や中国では四季があり、季節にあわせてさまざまな作業、行事があります。鳥が渡り、動物が動き、木々が芽をふき、実り、葉を落とす。部族や自らの生存にかかわることです。いやがおうでも意識せざるを得ない。正月や春夏秋冬の四分法は知らなくても、それは中国人が勝手に決めたことですから、生きるのに不都合はない。農耕にしても、耕したあと何もせずに過ごすわけではありません。水の管理、草取り、動物や昆虫の防除など日常的な業務が続けられ、収穫でやっと区切りがつけられる。耕地から収穫までの作物の成長過程、一農業年が一年と考えるのが普通です。山の雪の形やカッコウなど鳥の鳴き声で農耕の始め時を知るという習俗も太陽と地球の位置関係から派生します。
 倭人は「春耕、秋収」という太陽の運航がもたらす自然のサイクルにしたがって暮らしていたわけです。そのサイクルの一つが、一つのブロック、つまり、年期として意識されるだろう。これは世界中どの民族でも同じことです。古田氏は机の前で文字だけをこねくり回している。


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