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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

邪馬台国問題解決のカギは伊都国でした(^_-)-☆

2023-10-11 10:00:22 | 古代史
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とてもいい動画を見つけました。たくさん意見交換されていました。よろしければ、あらかじめこの動画といろいろコメントを見られると、邪馬台国問題の浸透を実感できますので、お時間の許す限りお楽しみください。そして、いつものように、この問題を解決に導く一つの考え方をかいつまんでコメントしましたので、是非お付き合いください( ^)o(^ )




とてもいい動画をありがとうございます。多くの皆さんからコメントが寄せられていますが、なぜこうも意見が百出し、結局邪馬台国は一体どこなのかも分からない現状を分析すると、考古学や民俗学などの成果をつまみ食いして自分の好きな場所に邪馬台国を持って行けると考える人が多いのだと思います。タイトルの通りなのです。だから、この伊都国に着目するのは正しい発想です。なぜならば、伊都国には考古学の成果などからたくさんの情報が詰まっている当時の倭国にとって一番重要な国のひとつだからです。逆に伊都国を無視するような意見は考古学の成果を無視することになり、採用しにくいのです。

それで邪馬台国の女王とされる卑弥呼が登場する経緯は現実離れして、とても怪しいのです。なぜならば、卑弥呼の死後に登場する新しい女王は13歳ですから、千人ほど死ぬような争いを治められるはずありません。抗争の勝者が卑弥呼の後継(宗女)として立てたことが分かります。だから、13歳以上の卑弥呼であっても倭国大乱を自ら終結させるだけの政治力があるとはとても考えられません。そこには何らかの政治力学があったはずです。

そこで、二世紀末の倭国大乱の実態が気になります。どういう勢力が何故、争ったのか?従来、弥生時代は大陸から人を殺傷するための武器を持ち込んで、稲作で生まれた食料を互いに奪うような戦乱の時代だという意見がありましたが、弥生時代は紀元前十世紀後半から北部九州で始まり、水田稲作は時間をかけて東に普及していったことが分かってきましたので、弥生中期の甕棺墓の分布と殺傷人骨の例を調べると、水や土地や食料の争いなどが頻発したとは言えない結果が得られています(「弥生人は戦争好き?ウソですよ」参照)。

弥生後期になって、倭国大乱が起こっているのですが、これも鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、主に筑紫平野・佐賀平野・福岡平野などで、環濠などの溝から出土する矢戦の痕跡が見られ、南九州や中国・四国地方やその東の地方にはこのような痕跡は皆目見られませんでした(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。




だから倭国大乱の状況は主に北部九州で起こった限定されたもので、ここが倭国だったと考えられます。そして、敵対する勢力は菊池川沿いの方保田東原遺跡・うてな遺跡に、山陰から畿内の土器が数多く見られ、これらの地域から兵を集めて前線基地にして倭国側を襲ったと分かります。だから狗奴国の王卑弥呼よりも先に登場する狗奴国の官狗古智卑狗は指揮官だったのです。

この時点ではまだ卑弥呼は登場しません。そして、阿蘇山麓から大分県大野川流域に数多くの鍛冶集落がありますので、ここに半島南部の板状鉄素材を持ち込んで武器を生産し、狗古智卑狗勢に供給していたと推理できます。ということは半島南部の鉄資源を支配していた勢力が狗奴国側だと分かります。倭国と敵対勢力ですから、糸島市の伊都国から壱岐経由で狗邪韓国に渡ることができませんから、沖ノ島経由で渡ったと推理できます。玄界灘を活動域とする縄文海人ムナカタ族が狗奴国側だったと分かります。



ということで、狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコの誤記)はどこにいたのかも推理できますね。3世紀に突然生まれた大型の宗教・政治都市の纏向遺跡には列島内のほとんどの地域から首長クラスの人々が集まって祭祀・祈祷を盛んに行っていたのです。外来土器から分かります。しかし、北部九州の倭国の人はほとんど来ていないことが分かりますから、狗奴国の正体は纏向遺跡だったと推理できます。



それではなぜ、倭国と狗奴国が戦争するようになったのかですが、これが伊都国という国名から推理できてしまうのです。

107年に後漢安帝に160人もの生口(奴隷)を献上した倭国王帥升の史実が范曄「後漢書」にありますが、原本は残っておらず、後の文献から倭の面土国王師升が正しいと分かりますが、面は回の俗字を誤写したもので回土(ウィト)国だと白鳥庫吉先生が指摘しました。

糸島市三雲遺跡に伊都国王の王宮がありました。その番上地区からは楽浪土器が集中して出土していますから、シナの外交使節や華僑などが居住していたと分かります。伊都国王は彼らと交流し漢字の読み書きもできたはずです。福岡市雀居遺跡から木製の組み机が丸ごと出土していますし、硯石の欠片は北部九州を中心に出土していますから、当時の倭人の中には文字を読み書きする人間が居たのです。倭人の中に通訳も居たはずです。ですから57年には後漢光武帝から金印を賜うことができたのです。この当時は回土国と書かれたのを伊都国と書いた人物が特定できました。この字は倭国の他の国々や人名にない、歴史的に意味のある好い字だったのです。女王卑弥呼の居た邪馬台国への行程記事を書いたのもこの人物だと推理できました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

ということで、邪馬台国の場所も発見し、卑弥呼の正体も分かりました(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照)。ですから、逆に行程記事のなぞも解けたのです。



従来の研究者も含めて、多くの方は文献に書かれたことをある程度信じて、後は想像を膨らまして文献を解釈してつじつま合わせの作業に没頭するだけで、何が正しいのかさえ分からなくなっていたのです。

文献に真実が書かれていたら謎など存在しません。

だから真実を見つけ出すには事実との食い違いを分析すれば分かります。そこから真相に導く仮説が生まれ、事実で検証を重ねて真相を解明する科学的な推論手法が必要なのです。詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。お邪魔しました(^^;)





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