刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

中臣氏の正体もか?(@_@)

2023-05-21 00:35:36 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


学校では教えない「邪馬台国第二弾」魏志倭人伝から見た倭国
ジャパン・ファースト@YouTube


刮目天
魏志倭人伝の内容を詳しく解説頂き感謝します。邪馬台国の場所が問題になって二、三百年が経過しても決着していないので、今までの多くの研究者は根本的なところで思い違いしているのではないかという感想を持ち、調べました。

Up主様も卑弥呼が倭国の女王ということに疑問を持たれたとありましたが、全く同感です。それは卑弥呼の死後にも男王が立ち、それに不服な勢力と千人以上死ぬような内戦の後に卑弥呼の宗女の台与13歳を女王に立ててようやく国が治まったとあります。ですから、内戦が勃発し勝者が、13歳の子供を卑弥呼の後継の女王として魏を後ろ盾にしたと分かります。ということは女王とされても倭を実際に統治できる王であるはずありません。卑弥呼の場合も倭国大乱で何らかの事件があって、巫女を外交上倭国の女王にせねばならない理由があったと推理できますね。それは倭国の事情ではなく、魏の事情だったのかも知れないというのが最初のアイデアでした。岡田英弘「日本史の誕生」がヒントになりました。

Up主様は倭国大乱の原因が伊都国の内紛とおっしゃっていましたが、その根拠となる考古学などの成果は何でしょうか?

当方は、倭国大乱の痕跡を弥生後期後半(二世紀末から三世紀初頭)の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて発見しました。これによって大乱の原因も卑弥呼の正体もすべて判明しました。続きがありますが、長くなったのでここまでで打ち切ります。よろしければ拙ブログ「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照いただき、ご意見も頂戴できれば幸いです(#^.^#)



ジャパン・ファーストさん
コメントありがとうございます。
リンク先の解釈を読ませていただきました。
私見としては、神話には裏付けできるだけの物証がありませんので、史実と神話とを切り離して考察せざるを得ないのかと思ってます。
ですが、非常に興味深い考察をされていると感心しており、狗奴国の立ち位置にも信憑性があるように思いました。


刮目天
@ジャパン・ファースト さん 早速ご参照いただき、うれしいご意見まで頂戴して、どうも有難うございます。

神話ですが、おっしゃるとおり、考古学の事実と異なり、現実離れした話になっているのは長い間の伝承だからという、至って好意的な理解が読者になされるものですね。特に、日本神話は日本民族のアイデンティティとまで考えられています(注1)。

しかし、日本書紀では編纂を仕切っていた藤原不比等が神話を創作したと分かりましたので、不比等の目的もほぼ全容が見えてきました。長くなりますので、ブログで記事にしましたので、よろしければご参照いただき、またご意見を頂戴できれば幸いです。よろしくお願いいたします。


父の中臣鎌足が藤原氏を天智天皇より賜ったという話になっています。つまり中臣氏の遠い祖先天児屋根命が藤原氏のルーツということで、高天原神話で女神アマテラスの岩戸隠れで重要な仕事をし、神武東征でも玉依姫の墓参で宇佐市一柱謄宮(いっちゅうとうぐう)に立ち寄りウサツヒコの歓待を受けて、天児屋命の孫の天種子命が神武天皇の許可でウサツヒメを娶る話も挿入し、由緒ある名門氏族という出自にしています。

しかし、高天原神話も神武東征神話も不比等の創作だと推理できるいくつかの証拠を発見しましたので、中臣氏・藤原氏の出自を誤魔化すことが神話の目的のひとつだと分かりました。

中臣氏は古い氏族ではなく、南北朝時代から室町時代初期に完成した日本の初期の系図集「尊卑分脈」によると、もとは、卜占 (ぼくせん) ・祭祀を職とした卜部(うらべ)で、6世紀前半に、鎌足の父御食子(みけこ)の祖父常盤連(ときわのむらじ)が中臣連の姓を賜ったとありますので、こちらが信頼できます。鹿島神宮で元々香島神という水神を祀っていたとありますから(松尾光「書き換えられた中臣氏の系譜と本性」歴史研究669巻2022年6月号p.93)、中臣氏は水神(ナーガ・龍蛇神、初代奴国王天御中主)の家臣という意味で間違いないようです。不比等が国譲り神話で大国主から力ずくで奪った神タケミカズチとフツヌシを鹿島神宮・香取神宮で祀っていますが、前者は尾張王建稲種命(熱田神宮の祭神、景行天皇とされ、日本武尊のモデルになった実在人物)です。後者は天理市にある物部氏の石上神宮(いそのかみじんぐう)の祭神布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)で、タケミカズチが持っていた剣とされています。中臣氏は吉備のニギハヤヒ大王の下で卜占を行っていた氏族だと考えられます。

そして、鎌足の出自は百済王子余豊璋(よ ほうしょう)という説も信ぴょう性があります。ですから、こういう史実を隠すために神話にしたということだったと分かったのです(詳細は「藤原鎌足は日本人じゃない?ブッブー!」「【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?」参照)。

そして日本書紀の秘密のメインテーマが、日本建国で活躍した豪族の史実を、上述のとおり大国主命の国譲り神話を創って誤魔化し、隠したことだったのです。内容は相当歪曲されていますが、考古学の成果から推理した史実から創作されていたことが分かりました。

大国主命の正体は、高天原を追放された暴れん坊の神スサノヲの子孫ということですが、スサノヲは奴国宮廷楽師師升らの反乱で殺された18代奴国王だということも宋史王年代紀によって判明しましたから、高天原神話は史実を誤魔化すために作られたのです(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」参照)。

ご存じの通り、天孫降臨神話も持統天皇が孫の文武天皇を異例の15歳という若さで即位させたことの正統性のために創作したものですし、不比等が娘宮子を天皇の妃にして、朝廷の実権を握ったということはよく知られています。しかし、そこにはほとんど知られていない秘密があったことを突き止めました。卑弥呼は和邇氏の祖(先代)赤坂比古の娘ですが、ムナカタ族でした。応神天皇の本当の父はムナカタ族を束ねていた大国主久々遅彦です。母は、女王台与だということも隠されていますが、考古学や民俗学の成果から判明しました。

そして、応神天皇の皇太子ウジノワキノイラツコが、応神天皇崩御後に兄であるオオサザキ(仁徳天皇)に皇位を譲るために自殺したという、あり得ない美談を創作していますが、実はイラツコが宇治天皇として即位していたと突き止めました。皆さん聞きたくないかもしれませんが、聖帝とされた仁徳天皇が宇治天皇を暗殺して即位したと推理しています。だから、宇治天皇の墓がヤマトの大王の象徴である前方後円墳にはなっていないのです。和邇氏がその所領地の中で、和邇氏特有の巨大円墳を造って丁重に遺骸を葬ったのです(卑弥呼の三柱山古墳が日本最大です)。本体に副葬品を入れると盗掘されると考えたのか、造り出しの中に納めたので、21世紀の現代に発掘できたのでしょう。国内最大の蛇行剣は大国主(ナガスネヒコ、トビヒコ)の霊剣です。そして珍しい楯形銅鏡が鼉⿓⽂(だりゅうもん)、つまり鼉(ワニ)と龍の文様ですから和邇氏(ムナカタ海人族)と奴国王(ナーガ=龍蛇神)を表しているのです。最後の奴国王スサノヲの子孫大国主の孫でムナカタ腹の宇治天皇で間違いないと思います。



和邇氏の日触使主(ひふれのおみ)の娘が生んだ人物です。不比等がわざわざ近江に出かけて和邇氏の神社を日群社(ひむれのやしろ)と変えさせた日牟禮八幡宮の元の祭神が日触使主です。応神天皇の由緒は後に、藤原氏が作らせたものです。裏山は、地元では日触山と呼ばれています。この人物はその名前から見て日蝕を示唆していますので、日食が原因で殺された卑弥呼の弟赤坂比古だと推理しています。和邇氏は天理市和邇坐赤阪比古神社で宗像女神市杵嶋姫命を祀っています。卑弥呼のことなのです(詳細は「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)。

ですから、和邇氏は宗像氏・宗形氏と同じムナカタ族なのです。そして天武天皇崩御直後に皇太子だったと思われる大津皇子が冤罪で刑死とも自殺ともいわれていますが、不比等によって謀殺されたと見ています。長男の高市皇子は母が宗形徳善の娘で出自が低いために即位できず、太政大臣だったとしています。しかしその子長屋王の広大な邸宅跡から出土した木簡から親王宣下を受けていた、つまり天皇の皇子だったことが分かりましたので、日本書紀がウソをついていたことがバレてしまいました(しかし、通説では特別待遇だったとしていますが、正史は天皇の歴史書だからウソだったと気づかなかったのです)。高市皇子は即位していたはずです(宗形天皇とします)。それは、ムナカタ腹の二人の天皇を隠したことから分かるのです。そして高市皇子は42歳で薨去し、翌年文武天皇が即位していますので、不比等らに暗殺されたと考えています。つまり、史実は、持統天皇は即位していなかったいう衝撃的な話なのです。

高市皇子が宗形天皇として即位していたことを隠すために卑弥呼の一族であるムナカタ腹の二人の天皇、宇治天皇と、その甥と推理した仁徳天皇の皇子住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ、住吉天皇)を表から隠したのだと分かりました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)から(その3)」参照)。



そうなると、天武天皇の皇后が持統天皇に即位した正統性を言うために前例として推古天皇と皇極・斉明天皇も創作したことが容易に分かります。持統天皇の後の五人の女帝も実は、即位しておらず、称制(天皇の執務代行)だったと分かりました。天皇自身が執り行う宮中祭祀は女性天皇にはできないと思います。未婚の皇女は、南北朝まで伊勢神宮と加茂神社で斎王(姫巫女)となって大国主を祀っていました(「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)(その2)」参照)。そのことは、京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺で天智天皇から飛んで、孫の光仁天皇より歴代の天皇を祀っていますが、明治になるまで女性天皇は誰一人祀られていないということから確認しました。また、仏事に掲げる肖像画も江戸時代の二人の女帝のものは明治になって作られたと分かっています。

日本書紀は不比等や父鎌足らの悪行と藤原氏の出自を誤魔化すために作られたものです。そのために日本神話が創作されたということなのです。権力で朝廷の人々を黙らせて、藤原氏が末永く権力を欲しいままにするための仕掛けが日本書紀の完成だったのです。その前段階で、大宝律令を制定し、太政官と神祇官を並立させて、神祇祭祀を中臣氏が独占しました。その後も不比等の子孫らが地方の神社の社名・祭神名・由緒なども日本書紀に添って、書き換えさせたのです。特に、宇佐神宮は入念に史実を隠ぺいする由緒書にして、八幡大神の正体である大国主を隠し、応神天皇にすり替えています。原八幡神であった卑弥呼を比売大神として祀り、さらに応神天皇の母神功皇后とされた女王台与も三之御殿で祀っています(注2)。

脱線気味ですが、話しを元に戻して、結局、多くの日本人は壬申の乱を勝利した天武天皇が編纂を命じたので正史「日本書紀」が天皇の歴史書だと思い込まされていたのです。これに気づくと様々な謎が解けてきますよ(^_-)-☆

(注1)しかし、江戸時代までは、古事記はほとんど読まれてはいませんでしたが本居宣長が発掘し、高い評価を与え、平田篤胤がその影響を受けて、復古神道を提唱したものが、明治時代に国家神道とされ、今の記紀神話が戦前の国史教育で定着したものなのです。それまでの神話は、神仏習合や道教の影響もあって今と全くと言っていいほど、違ったものになっていたのです(斎藤英喜「読み替えられた日本神話」講談社現代新書)。


(注2)八幡大神の本地仏を弥勒菩薩として宇佐神宮の神宮寺弥勒寺で祀っています。また八幡大神は軍神とされていますが、三世紀後半の日本建国の戦乱で八幡大神大国主が主役として活躍したからなのです。しかし、不比等はあくまでも建国の史実を隠したかったために国譲り神話を創作し、8世紀半ばに藤原氏が八幡大神を八幡大菩薩応神天皇にすり替えたのです。そのために、隼人の反乱で勝利したためという故事も創作したと見ています。wiki[隼人」によれば「隼人が文献上多く登場してくる7世紀後半 - 8世紀代の墓の遺構については、現地九州南部ではほとんど検出されておらず、確実に「隼人の墓」と位置づけられる墓制は、現状では不明といわざるを得ない[39]。」とあり、土蜘蛛や熊襲と同様に創作した、大国主配下の縄文系ムナカタ族の人々と推理しています。阿多隼人という種族はムナカタ族の祖神アタカタスノミコトを連想させます。愛宕権現はその子孫である卑弥呼の弟赤坂比古の鳥栖市にある巨大円墳愛宕神社古墳の墳頂にある石祠から推理しています。




通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング