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伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その2)

2023-03-01 21:44:41 | 古代史
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2023-02-28 00:28:12に記事にしましたが、(その1)のjikan様の疑問に対する回答の補足を(注3)にしましたので、かなり込み入った話で恐縮ですが、よろしければどうぞ( ^)o(^ )

前回の記事に専門家のjikan様からとてもありがたいコメントをいただきました。ややこしい話なので、できるだけ分かり易くと心掛けているのですが、また、ご疑問などございましたら、遠慮なくお願いいたします。それでは、どうぞお付き合いください(#^.^#)


前回の記事「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)」を思い出していただき、女神アマテラスがいつ生まれたか大体お分りいただいたと思います。つまり、「日本書紀」からは天武・持統朝でしょうか?

しかし、斎王という未婚の皇女が伊勢神宮に奉仕する制度が古くからあるとされていますので、一応、最初から見てみましょう(【付録】参照)。最初の斎王は崇神天皇の皇女豊鍬入姫命で、二代目は垂仁天皇皇女倭姫命とあり、三代目が景行天皇皇女、四代目が仲哀天皇皇女となってますが、景行天皇と孫とされる仲哀天皇の本当の関係は、尾張王建稲種命とその父乎止与命だということは考古学の成果から推理していますので、斎王の記事は全く信用できません(注1)。



五代目の雄略天皇の皇女から八代目敏達天皇皇女、九代目用明天皇皇女も、十代目天武天皇の大伯(大来)皇女の時代まで、まだ伊勢神宮の地には伊勢の大神という川の神の祠があるだけですから、この記事も信用できません。

ところが少しややこしい話があります。「日本書紀」敏達天皇紀六年に日祀部(ひまつりべ)を置いたとあり、それは桜井市他田坐天照御魂神社(おさだにますあまてるみたまじんじゃ)とされています。その祭神は天照国照彦火明命ニギハヤヒ大王なのですから女神アマテラスではありません。その七年に「春三月戊辰朔壬申、以菟道皇女侍伊勢祠。卽姧池邊皇子、事顯而解 菟道皇女が伊勢の祠に侍う斎王に任じられたが、池辺皇子(後の用明天皇)に強姦されたので即解任された」というおかしな記事があります。さらにおかしいのは、この菟道皇女は二人いるのです。「一人は広姫の生んだ菟道磯津貝皇女(古事記では宇遲王)、もう一人は額田部皇女(後の推古天皇)の生んだ菟道貝蛸皇女(別名は菟道磯津貝皇女、古事記では貝蛸王、静貝王)である。」(wiki「菟道皇女(うじのひめみこ)」より)。広姫は息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の娘とし、押坂彦人大兄皇子(天智天皇の祖父)を生んだ敏達天皇の前皇后です。額田部皇女は池辺皇子の同母妹ですから、菟道皇女がその娘というのは考えにくいので、広姫の娘で、古事記の宇遲王と考えられます。これも古事記のヒントだと思います。

しかし、何で伊勢の祠に行くのか?と疑問でしょう(注2)

元々、崇神天皇が宮中で祀っていた天照大神をなぜ伊勢の地に祀る?という話も、天皇の守護神であるはずの皇祖神なのですからおかしな話なのですが、これも史実を推理して大国主の祟りだということが分かったのです。ですから、この記事の天照大神は大物主大神、つまり大国主命だったのです。

だから、(その1)で伊勢の地に先に祀られていた豊受大神台与のところで大国主久々遅彦を一緒に祀ったということなのです。そうすると伊勢の祠、あるいは伊勢の大神は三輪の大物主大神で間違いないのです。しかし、伊勢神宮は(その1)で「多気(たけの)大神宮を渡会(わたらい)郡に遷す」と述べたとおり、文武二年(698年)に創建しています。持統天皇とされた鵜野讃良は持統六年(695年)に最初の伊勢・志摩観光旅行を行っています。しかし「その持統天皇は伊勢に来ながら、伊勢参宮をした形跡がないのです。これは驚いたことです。」とあります(筑紫申真「アマテラスの誕生」講談社学術文庫 2002,p.107)。

「日本書紀」には天智天皇十年(671年)、大海人皇子が政争を避けて吉野に隠棲したとき、鵜野讃良は草壁皇子を連れて従ったとあり、翌年、大海人皇子と謀って壬申の乱を起こしたとされています。乱に勝利して天武二年に皇后に立てられ、「天武天皇の在位中、皇后は常に天皇を助け、そばにいて政事について助言した。679年に天武天皇と皇后、6人の皇子は、吉野の盟約を交わした。6人は草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子で、川島と志貴が天智の子、残る4人は天武の子である。天武は皇子に互いに争わずに協力すると誓わせ、彼らを抱擁した。続いて皇后も皇子らを抱擁した。」とWiki「持統天皇」とあります。

また、「皇后は病を得たため、天武天皇は薬師寺の建立を思い立った。

681年、天皇は皇后を伴って大極殿にあり、皇子、諸王、諸臣に対して律令の編纂を始め、当時19歳の草壁皇子を皇太子にすることを知らせた。当時、実務能力がない年少者を皇太子に据えた例はなかった。皇后の強い要望があったと推測される。

685年頃から、天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていった。686年7月に、天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになった。」とあり、崩御後も政治を行ったとあります。そして689年4月に草壁皇子が病気により薨去したため、軽皇子を皇位につけたいと考えたが、幼く(当時7歳)当面は皇太子に立てることもはばかられた。こうした理由から鸕野讃良は自ら天皇に即位することにした。
」というのが持統天皇の即位までの話です。

そして、697年太政大臣とした高市皇子が薨去し、軽皇子が15歳になったので文武天皇に即位したとありますので、(その1)で推理したとおり、すでに高市皇子は天武天皇崩御後に宗形天皇として即位していたので、「日本書紀」の最後に記された持統天皇紀は創作だったということなのです。この持統天皇の記事を書きたいために「日本書紀」が不比等によって作られたと考えられます。鵜野讃良は伊勢神宮を創建した後の703年に亡くなっています。

天武天皇の出自も(その1)で少しだけ述べましたが、天智天皇とは兄弟ではありません。恐らく、すでに天武天皇はヤマトの大王だったので、壬申の乱の真相は大王の座を脅かす大勢力だった、天智天皇とされた中大兄王が亡くなって、その子大友王の反乱を天武天皇が討って、ヤマトの大王として政治できるようになったということだと思います。そして勝利を与えてくれた皇祖神である大国主久々遅彦に報告し、感謝するために、大伯(大来)皇女を斎王に立てて大国主命を祀らせたということだと分かります。ですから、最初の斎王が行った伊勢の祠は別の場所です。それは、当然ですが大国主の故郷の丹波(タニワ)の地(丹後半島)以外にありません(注3)(2023.3.1 追加)



丹後半島の竹野川河口に縄文時代から中世まで営まれた竹野遺跡があり、弥生時代には遺構が見当たりませんが土器や石器が出土しています。古墳時代に溝や石棺が出土し、古代の土師器や須恵器も見られます。その東側の高台に竹野(たかの)神社があり、江戸時代まで斎宮神社と呼ばれていました。天武天皇はこの地に皇女を送って最初の斎王にしたと推理しています。そして、686年に崩御されて、藤原不比等は歴史改ざんの策を練って、日本書紀編纂を任されていた舎人親王を抱き込み、計画通り文武2年(698年)に大国主命の祭祀を丹後半島竹野神社(多気大神宮)から伊勢国渡会郡の新社殿に遷したと推理できます。伊勢神宮の正殿、床下中央部分に建てられた心御柱(しんのみはしら)が大国主大神の依り代です。

平安時代になって、嵯峨天皇が伊勢神宮の斎宮と併せて斎王を賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕させました。兄の平城上皇が、「平安京から平城京へ都を戻そうとした際、嵯峨天皇は王城鎮守の神とされた賀茂大神に対し、我が方に利あらば皇女を「阿礼少女(あれおとめ、賀茂神社の神迎えの儀式に奉仕する女性の意)」として捧げると祈願をかけた。そして弘仁元年(810年)薬子の変で嵯峨天皇側が勝利した後、誓いどおりに娘の有智子内親王を斎王としたのが賀茂斎院の始まり」とwiki「斎院」にあります。神が憑依する皇女の巫女ですから「神の妻」という意味です。

また、「伊勢斎宮・賀茂斎院の二つの斎王制度が両立していた間、都に近い斎院の方が遠い伊勢の斎宮よりも重んじられていたようで、歴代斎院は斎宮に比べて女王が少なく、また生母の出自も高い例が多い。一方で斎院は天皇の代替わりがあっても退下しないことがしばしばあり、2朝以上任にあった斎院も少なくなかった。」とあります。

これらの事実によっても、賀茂大神の正体は大国主命だと分かります。賀茂川が比叡山西麓を南に流れる高野川と出町柳で合流して鴨川になります。賀茂(カモ)は神(かみ)の意味だと思います(注4)。朝廷が最も畏れ敬う守護神でもあり祟り神でもある神様なのです。それを誤魔化すために様々なお話を創作して、様々な名前でその正体を隠しています。しかし、日本建国の史実を推理するとほとんどすべての神が同じ大国主大神だと分かるのです。伊勢神宮でも表向きは不比等と鵜野讃良が創作した女神アマテラスとしていますが、本当は大国主大神を祀っているのですよ。

【関係記事】
アマテラス大神はヘビだった?
「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?!
古代史のカギを握る神々の正体?

【付録】斎宮一覧(途中省略)



(注1)ニギハヤヒ大王の子孫の狗奴国王(先代卑弥弓呼)が纏向に進出し、各地に散った旧奴国(狗奴国)の勢力を集めて、奴国を滅ぼした憎き師升(儺升)王の一族と裏切り者の卑弥呼らに復讐し、倭国を取り戻すためでした。卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)は同族の尾張王乎止与命に倭国追討を命じましたが、卑弥呼が亡くなって(日食のために倭国王に暗殺されたと推理)、卑弥呼の弟がムナカタ族の王狗古智卑狗(久々遅彦)に投降したので、無傷で倭国を手に入れた乎止与命が卑弥弓呼大王を裏切って倭王に立ちました。

そこで、狗古智卑狗らが反発して内戦になり、千人ほど死に、尾張王(仲哀天皇)を討って久々遅彦(記紀の武内宿禰)が勝利します。結局、久々遅彦は13歳の台与(記紀の神功皇后)を卑弥呼の宗女として女王に立てて、魏を後ろ盾にして倭国王に立ち、卑弥弓呼大王を裏切って対立することになりました。久々遅彦は列島主要部をほとんど支配したので、記紀神話で大国主命とされた人物です。尾張王建稲種命(記紀の景行天皇)が父の仇討ちで九州遠征し、大国主と台与を討ちます。




(注2)伊勢の地名の由来ですが、魏志倭人伝にありましたよ(^_-)-☆
「魏志倭人伝」に正始四年に倭国から派遣された大夫伊聲耆(いせぎ)、掖邪拘(ややこ)等八人の内、正使伊聲耆を除き、残り七人に率善中郎将と印綬を与えられたとあります。二人の人名は漢字を読み書きでき、「孟子」を読む教養人だった難升米が倭人の言葉を感情も込めて漢字に変換したと考えています。ここで、伊聲耆は文字の意味を見ると、伊は聖職者の意味ですので、イセは巫女が神がかりして神託を告げた内容を人々(部下など)に声で伝える司祭・巫(かんなぎ)ということです。耆は老人の意味ですので、聖職者の長老という意味になると思います。伊聲耆はムナカタ海人の族長先代赤坂比古のことで、卑弥呼の父と推理しています。詳しくは「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」をご参照ください。(2023.3.1 赤字追加訂正)

(注3)(その1)でjikan様がコメントしていただいた「全て不比等が捏造したと言う説と矛盾しているとは思うのだが。」への刮目天の回答は、その時点でまだ伊勢神宮(内宮)の社殿がないのでおかしい。当時の人々もそう思うはずなので、『「日本書紀」の内容に迎合することで、ささやかな抵抗、つまり、当時の人々は真相を知っているのですから、それ変だよねと暴露をしているのだと考えています。』としました。しかし、林一馬「伊勢神宮成立史考」建築史学/28 巻 (1997)に、これらの万葉集の歌に加えて、柿本人麻呂の高市皇子への長い挽歌に「渡会(わたらい)の斎(いつき)の宮ゆ 神風にい吹き惑はし・・・(万葉集巻二、一九八)」と、壬申の乱の時の高市皇子の様子を偲ぶ部分があるので、やはり、jikan様が疑問に思うのも当然だと思います。

しかし、刮目天は天武天皇が女神アマテラスではなく、皇祖神の大国主大神へ大伯皇女を斎王として行かせた「伊勢神宮」は豊後半島の竹野神社と考えていますので、人麻呂の書いた「渡会の斎宮」は、先に台与(豊受大神)を祀る現在の外宮のある場所に呼び寄せた大国主を祀る「伊勢の祠」のことだと考えています。

イセは(注2)のとおりムナカタ族の巫(かんなぎ)を意味します。古事記で武内宿禰が琴を弾き神功皇后から神託を引き出す役割が描かれていますので、記紀で武内宿禰とされた大国主久々遅彦は神功皇后とされた女王台与に憑依した神の託宣を聞き取り、配下を動かす王なのです。多気(たけの)大神宮は豊後半島の竹野神社のことだと推理しました。文武二年に多気大神宮(竹野神社)が伊勢国渡会郡に遷されたのが事実だと考えられるからです。渡会氏は出身地が丹波ということもあり、人麻呂の書いた「渡会の斎宮」は竹野神社のことだったのかも知れません。あるいは、人麻呂は鵜野讃良のお抱えの宮廷歌人だったと考えられていますので、高市皇子が伊勢国に行ったときの場面であれば、鵜野讃良に迎合して「伊勢の祠」とせずに「渡会の斎宮」と書いたのかも知れません。日本書紀に書かれた壬申の乱の様子についても疑問があるのは、すでに上で述べたとおりです。

上の文献はとてもよく整理されているので多いに参考になり有難かったです。やはり、「日本書紀」で登場した女神アマテラスの欺瞞に気づかないと、どうしても様々な説が出てしまうので、謎のまま放置されたことが分かります。文献を考察するだけでは限界があるので、やはり物証に基づく推理が必要だということですね(^_-)-☆。

以下は「おまけ」です。伊勢神宮内宮のある場所は宇治と呼ばれていますが、宇治の意味は天を治めるという意味です。これは菟道からきた言葉で、菟はウサギで大国主のシンボルです。多分、宇佐市安心院町佐田で大国主が最初に豊葦原の瑞穂の国とする国造りを行った「ウサ」という地名に因んだのでしょう。「菟道」は「ウサギの通る道」ともとれますが、「菟遲(遅)」というのもありそうです。どちらが先かは断定できませんが、「遲(遅)」はいろいろ意味があります。「のろい」という意味もあり、大国主がヤマトを呪っているという意味から付けられた地名・人名ということになります。菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ、古事記では宇遅能和紀郎子、「先代旧事本紀 天孫本紀」は兎遅稚郎子 )という名前は祟る大国主の子孫だと示唆していますよ(^_-)-☆

(注4)「たかのみこ いとも怪しと見まし鳬(かも) 猿まろをしも引きたててとや
精選版 日本国語大辞典「高野御子」の解説 より引用)
神の使いの猿まろは猿田彦のことで大国主(高野御子)の分身ですよ!鳬(かも)は賀茂(かも)大神に引っかけていますよ( ^)o(^ )


天武天皇の出自についても、記事にしたかったのですが、もう少し時間がかかりますので、次の機会にしますね(#^.^#)

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