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箸墓近くに「卑弥呼の宮殿」邪馬台国は纒向か
2021/10/27 08:00 小畑 三秋 産経新聞
タイトルから見て邪馬台国大和説を否定するのかと期待して読んだら、またガッカリしました。
いわゆる邪馬台国が奈良県桜井市の纏向遺跡にあったとする説は、多くの史料・証拠から否定され、学術的には今や九州説が主流と言っていいと思います。しかし、相変わらず、マスメディアがいい加減な論説記事を発表するので、素人はまだ畿内説が有力な学説として生きていると考えてしまいます。
すでに「考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国」という書籍を、長年、橿原考古学研究所の所員として纒向遺跡の発掘・調査に携わってきた専門家の関川尚功氏が出しています。この研究グループが提唱している大和説を、立場上否定しにくいしがらみなどがあると拝察されますが、真実を探求する学者として勇気を持って大和説を否定されたことはとても立派な態度だと思います。
マスメディアは本来ならば、こういう真っ当な学者の説を取り上げて、邪馬台国問題に興味を持っている多くの読者に紹介するのが使命ともいえるはずです。専門家による学術的な論争を踏まえて、マスメディアが中立な立場でそれらを紹介するものであるべきですから、もしもこの記事の発信者が大和説を否定するものに異議があるのならば、学会などの場で正面から論争を挑むべきだと思うのですが、それを避けて従来の説で塗りつぶすようないい加減な論説記事ですから困ったものです。
纏向遺跡は三世紀初頭に三輪山の西側の山麓一帯に突如出現した大集落です。当時の列島で最大級の広さを誇る遺跡です。ヤマト王権のシンボルである前方後円墳の発祥地で、遺跡に水田跡が見られない、祭祀を中心とする政治都市です。掘立柱建物の住居跡から、王族や各地の首長クラスの人物が集まっていたことがわかります。大型の建物は祭祀などを行った場所でしょう。当時の祈祷に使ったと思われる桃の種が大量に見つかっています。
このような纏向遺跡が邪馬台国にふさわしい当時の大集落だからといっても、三世紀の倭国の様子を記述した「魏志倭人伝」に記述された以下のような倭国の特徴に合わないのですから、邪馬台国ではないと本当は最初から分かっているのです。権威ある学者が提唱するので有力な学説だと思い込まされてきただけです(紫字で示した原文とカッコ内の翻訳文はwiki「魏志倭人伝」より引用)。
①「竹箭或鐵鏃或骨鏃(竹の矢は、あるいは鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃である)」
奈良県全体の鉄鏃の出土数はわずかです。福岡県・熊本県・大分県の方が圧倒的に多い。
②「倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾・・・所有無與儋耳・朱崖同(倭の水人は、好んで潜って魚やはまぐりを捕らえ、体に入墨をして、大魚や水鳥の危害をはらう。後に入墨は飾りとなる。・・・風俗・習慣・産物等は儋耳(廣東儋県)・朱崖(廣東けい山県)と同じある)」奈良県は海に面してはいないので、九州辺りの風俗に近い。
③「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣(倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みな、裸足である)」奈良県は温暖な土地とは言えない。
④「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種(女王国の東、海を渡ること千余里、復、国があり、みな倭種である)」纏向遺跡の東側も、南側であっても深い山地で、いきなり海を渡るという表現は出来ない。
⑤「其死、有棺無槨、封土作冢(人が死ぬと、棺はあるが槨(そとばこ)は無く、土で封じて塚をつくる)」畿内の墓には木製などの槨がある。
⑥「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩(卑弥呼が死んだので大いに塚をつくった。径は百余歩)」卑弥呼の墓が箸墓のような前方後円墳であるとは書かれておらず、直径約150mの円墳であり、そのような墓は纏向遺跡の周囲に見られない。
さらに、この新聞記事には以下の読者をミスリードする内容があり看過できません。
通常の集落遺跡では地元の土器が大半を占めるが、纒向遺跡では、東海や山陰、瀬戸内、九州などの特徴をもつ土器が15%ほどに上ることが分かった。いずれも3世紀を中心とした土器で、邪馬台国の時代と重なった。
しかし、発掘された外来の土器について上の記事で述べている九州の土器が見られるというのは全くウソではないのですが、非常に少なく、外来土器の1%以下なので、以下のデータに現れません。そのことを言わないと、九州の人々まで他の地方の人々と同じように来ていたと読者が誤解します。
九州の人々がほとんど纏向遺跡に現れていないという事実は、邪馬台国が纏向遺跡ではないことを明確に示す証拠と言えるものなのです。北部九州は列島で最初に開けた場所で、奴国や伊都国に弥生時代の倭国の王宮や交易センターが存在しましたし、祭祀に用いられる青銅器の製造工場をもつ大集落のある地域です。大陸や半島の文化を取り入れる玄関口なのです。ここが遅くとも二世紀には倭国と呼ばれていた領域に間違いないのですから、それと敵対する纏向遺跡は狗奴国以外に考えられないということです(注1)。邪馬台国の南に狗奴国が在ったとする「魏志倭人伝」の記述を疑った方が良いということなのです。「魏志倭人伝」は、当時の魏の実力者司馬懿が政治的目的で邪馬台国への行程などを誤魔化して魏使の報告書に書かせたものを基にした記事だったと突き止めました。詳細は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆をご参照ください!
【関連記事】
【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)定説は根拠を疑いましょう(*^^)v
【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆【検証5】を深堀り!
まだ箸墓が卑弥呼の墓なの?!(;´Д`)卑弥呼のあとの女王台与(トヨ)の墓ですよ!
(注1)纏向遺跡の最古の前方後円墳は石塚古墳で、210年頃築造ですから、纏向1式の年代です。刮目天はニギハヤヒ大王の直系の子孫の初代狗奴国王卑弥弓呼(「ひこみこ」の誤写か)の墓と推理しました。この頃にも、その後の大王か有力者と思われる人物の葬儀にも九州の人々は来ていないのですから、北部九州の倭国は敵対勢力と推理できます。ちなみに、土器の種類ですが、鉢・高坏・器台は葬儀や他の祭祀で使われるもので、纏向1式が最も多いですから重要な儀礼が行われことが分かります。
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
しつこい話に、最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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箸墓近くに「卑弥呼の宮殿」邪馬台国は纒向か
2021/10/27 08:00 小畑 三秋 産経新聞
タイトルから見て邪馬台国大和説を否定するのかと期待して読んだら、またガッカリしました。
いわゆる邪馬台国が奈良県桜井市の纏向遺跡にあったとする説は、多くの史料・証拠から否定され、学術的には今や九州説が主流と言っていいと思います。しかし、相変わらず、マスメディアがいい加減な論説記事を発表するので、素人はまだ畿内説が有力な学説として生きていると考えてしまいます。
すでに「考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国」という書籍を、長年、橿原考古学研究所の所員として纒向遺跡の発掘・調査に携わってきた専門家の関川尚功氏が出しています。この研究グループが提唱している大和説を、立場上否定しにくいしがらみなどがあると拝察されますが、真実を探求する学者として勇気を持って大和説を否定されたことはとても立派な態度だと思います。
マスメディアは本来ならば、こういう真っ当な学者の説を取り上げて、邪馬台国問題に興味を持っている多くの読者に紹介するのが使命ともいえるはずです。専門家による学術的な論争を踏まえて、マスメディアが中立な立場でそれらを紹介するものであるべきですから、もしもこの記事の発信者が大和説を否定するものに異議があるのならば、学会などの場で正面から論争を挑むべきだと思うのですが、それを避けて従来の説で塗りつぶすようないい加減な論説記事ですから困ったものです。
纏向遺跡は三世紀初頭に三輪山の西側の山麓一帯に突如出現した大集落です。当時の列島で最大級の広さを誇る遺跡です。ヤマト王権のシンボルである前方後円墳の発祥地で、遺跡に水田跡が見られない、祭祀を中心とする政治都市です。掘立柱建物の住居跡から、王族や各地の首長クラスの人物が集まっていたことがわかります。大型の建物は祭祀などを行った場所でしょう。当時の祈祷に使ったと思われる桃の種が大量に見つかっています。
このような纏向遺跡が邪馬台国にふさわしい当時の大集落だからといっても、三世紀の倭国の様子を記述した「魏志倭人伝」に記述された以下のような倭国の特徴に合わないのですから、邪馬台国ではないと本当は最初から分かっているのです。権威ある学者が提唱するので有力な学説だと思い込まされてきただけです(紫字で示した原文とカッコ内の翻訳文はwiki「魏志倭人伝」より引用)。
①「竹箭或鐵鏃或骨鏃(竹の矢は、あるいは鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃である)」
奈良県全体の鉄鏃の出土数はわずかです。福岡県・熊本県・大分県の方が圧倒的に多い。
②「倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾・・・所有無與儋耳・朱崖同(倭の水人は、好んで潜って魚やはまぐりを捕らえ、体に入墨をして、大魚や水鳥の危害をはらう。後に入墨は飾りとなる。・・・風俗・習慣・産物等は儋耳(廣東儋県)・朱崖(廣東けい山県)と同じある)」奈良県は海に面してはいないので、九州辺りの風俗に近い。
③「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣(倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みな、裸足である)」奈良県は温暖な土地とは言えない。
④「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種(女王国の東、海を渡ること千余里、復、国があり、みな倭種である)」纏向遺跡の東側も、南側であっても深い山地で、いきなり海を渡るという表現は出来ない。
⑤「其死、有棺無槨、封土作冢(人が死ぬと、棺はあるが槨(そとばこ)は無く、土で封じて塚をつくる)」畿内の墓には木製などの槨がある。
⑥「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩(卑弥呼が死んだので大いに塚をつくった。径は百余歩)」卑弥呼の墓が箸墓のような前方後円墳であるとは書かれておらず、直径約150mの円墳であり、そのような墓は纏向遺跡の周囲に見られない。
さらに、この新聞記事には以下の読者をミスリードする内容があり看過できません。
通常の集落遺跡では地元の土器が大半を占めるが、纒向遺跡では、東海や山陰、瀬戸内、九州などの特徴をもつ土器が15%ほどに上ることが分かった。いずれも3世紀を中心とした土器で、邪馬台国の時代と重なった。
しかし、発掘された外来の土器について上の記事で述べている九州の土器が見られるというのは全くウソではないのですが、非常に少なく、外来土器の1%以下なので、以下のデータに現れません。そのことを言わないと、九州の人々まで他の地方の人々と同じように来ていたと読者が誤解します。
九州の人々がほとんど纏向遺跡に現れていないという事実は、邪馬台国が纏向遺跡ではないことを明確に示す証拠と言えるものなのです。北部九州は列島で最初に開けた場所で、奴国や伊都国に弥生時代の倭国の王宮や交易センターが存在しましたし、祭祀に用いられる青銅器の製造工場をもつ大集落のある地域です。大陸や半島の文化を取り入れる玄関口なのです。ここが遅くとも二世紀には倭国と呼ばれていた領域に間違いないのですから、それと敵対する纏向遺跡は狗奴国以外に考えられないということです(注1)。邪馬台国の南に狗奴国が在ったとする「魏志倭人伝」の記述を疑った方が良いということなのです。「魏志倭人伝」は、当時の魏の実力者司馬懿が政治的目的で邪馬台国への行程などを誤魔化して魏使の報告書に書かせたものを基にした記事だったと突き止めました。詳細は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆をご参照ください!
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まだ箸墓が卑弥呼の墓なの?!(;´Д`)卑弥呼のあとの女王台与(トヨ)の墓ですよ!
(注1)纏向遺跡の最古の前方後円墳は石塚古墳で、210年頃築造ですから、纏向1式の年代です。刮目天はニギハヤヒ大王の直系の子孫の初代狗奴国王卑弥弓呼(「ひこみこ」の誤写か)の墓と推理しました。この頃にも、その後の大王か有力者と思われる人物の葬儀にも九州の人々は来ていないのですから、北部九州の倭国は敵対勢力と推理できます。ちなみに、土器の種類ですが、鉢・高坏・器台は葬儀や他の祭祀で使われるもので、纏向1式が最も多いですから重要な儀礼が行われことが分かります。
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
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